9N1MM モラン神父の思いで



1 モラン神父との出会い

 1985年1月、私は初めてネパ−ルを訪問しました。幸いカトマンズには、私の家に日本ユネスコ協会の交流事業で受け入れたパダマ タラ氏がおられた。ネパ−ル訪問の目的は、ユニセフハムクラブの活動を展開できるかの調査が主なもでした。パダマ氏は、私の家にホ−ムステ−され、私がアマチュア無線をしているのを見て、
「ネパールでは、アマチュア無線は許可されていません。」と話していました。しかし、ユニセフハムクラブの活動の中では、アマチュア無線の電波を通して世界のアマチュア無線家に広報活動を進めることから、出来ればネパ−ルでアマチュア無線の免許をもらいたいと願っていました。
 カトマンズに着いた私は、早速パダマ氏の紹介で学校視察やカトマンズ市内を視察しました。モラン神父と電話連絡が付き、面会の約束が出来たのは、私が帰国する日となってしまいました。私は、約束した朝5時に間に合うようモラン神父の学校のあるゴダバリまでタクシーを飛ばしました。タクシーは、人や鶏をさけながらモラン神父の学校まで走り続けました。
カトマンズの1月は、雪こそないものの気温は数度でとても寒く、辺りには濃い霧が立ちこめていました。
 やっとセントザビエルスクールにつき、校舎の中にTH−6DXXを発見しました。私は、その建物のドアをノックしますと、神父さんの一人が食堂まで案内してくれました。写真で見たことのあるモラン神父が笑顔で迎えてくれました。
「さあ、朝食にしよう。」テーブルには5人の神父さん達が食事をしていました。私は、ありがたく朝食をいただくこととしました。食事は、パンとコーヒ−だけで質素なものでした。食事をしながら私は、
「ネパールでは、アマチュア無線の免許はもらえるでしょうか?」
「無理です。もらえないと思います。」モラン神父は、これまでたくさんの外国人が訪ねてきて、私と同じ質問をしたそうです。
「私のシャックでオペレートしなさい」親切な神父の申し出に感謝しながら、9N1MMのシャックを見学する間もなく、帰国のためにカトマンズに戻らなければなりませんでした。
 
2 モラン神父との語らい

 私は、その後、ネパールを毎年訪問するようになり、その都度モラン神父を訪ねました。私は、かなり以前からモラン神父のネパ−ルでの教育活動に興味を持っていました。もちろんアマチュア無線という共通の趣味を持っていることもありましたが。どんなきっかけで、ネパールの子供達の教育に携わってきたのかなど、訪問の度にモラン神父に訪ねました。私が、モラン神父を訪ねて行くと、
「ハラ 質問は?」と先に聞かれるようになっていました。ある年ユニセフハムクラブのメンバ−数人とセントザビエルスクールを視察して、夜は泊まることになりました。私達は、学校の施設設備、教材教具、神父の無線機材の修理を申し出ていました。テスター、はんだごて、工具などを持ち込んだ私達は、いろいろなものを修理した後に、モラン神父のリニアアンプの修理に取り組みました。古いSB−200でパワーが全く出ないという代物でした。このリニアは、各所の電圧はきちんと出ています。私は、リレーの接点不良とにらんで、接点をきれいに磨いてみました。これは正解で、パワーも300Wほど出るようになりました。
「もう少し出てもいいな。」と私は思い、送信時の電源電圧を測ってみました。なんと220Vのはずが180Vまで下がるではありませんか。シャックまでの配線をみて回りますと、分電気からの引き込み線がとても細いことに気づきました。これは、あきらめるよりしかたがありませんでした。
 私達が、神父のリグを修理に夢中になっていると、すでに22時を過ぎていました。神父は、
「私は、ねるよ。皆さんも寝てください。」とシャックの隣の部屋に入って行きました。シャックと寝室がモラン神父のプライベートの部屋のようでした。神父は、寝室のドアを開けたままベットに入ったようです。私は、失礼だと思いましたが、開いたドアから寝室を覗いてみました。寝室は、神父が休んでいるベットがポツンとあるだけで、その他の家具は何もないのです。
壁には、先ほどまで着ていた衣服がかけられているだけす。財産を一切持たず、ただ神に祈り、ネパ−ルの子供の教育に専念されておられた生活のすべてを見たように思いました。
 その後、私は、日本に来て講演していただけないかとお願いしました。モラン神父の体験を多くの日本人に聞いてほしいと思ったからです。80歳を越えたモラン神父には、それほど多くの時間が残っていないと思えたからです。
 その願は、簡単に実現しました。
「日本に来て講演をお願いしたいのですが。」
「ああ、いいですよ。」まるで、隣の町に出かけるような気軽な返事に私は嬉しくなってしまいました。私は、モラン神父の気が変わらないうちに飛行機の切符を渡すため、旅行会社に飛んで行きました。
 神父は、計画のとおり日本に来てくださいました。札幌、東京、大阪の講演をこなし元気にカトマンズに帰られたのです。
 私が、心配したとおり、モラン神父は日本に来られた、次の年に神に召されたのです。私は、1ヶ月ほど遅れて、神父のお墓参りをすることが出来ました。ネパールの、そして世界のアマチュア無線界の偉大な人を失ったのです。



9N1MM モラン神父講演録   抄訳  JA8OW JA8ATG

1 ネパールへのへの道

 1906年、オレゴンで生まれた私は、ごく普通のアメリカ市民としての生活が保証されていた.医大に入った私は、医学の勉強に没頭し、医師になるだろうと医師であった兄はもちろん両親も信じていた.当の私でさえそう思っていたのだから。
 大学を卒業する頃になって、私の心は突然変化をもたらした.私自身も信じられないほどであった。私はこのまま平凡な一生を遇ごしてしまってはいけないという自分自身の心に気がついたのだ。
 私は、大学を卒業してすぐ、宣教師の学校へ迷わず行くことを決めていた。神の思召しだったのだろうか。この大きな変化をだれも止めることはできなかった。私自身にも‥‥‥。
1928年私は神学校を卒業、宣教師としてインドヘ向かう船に乗っていた。ほんの3年ほど前、誰もこの私の姿を想像できた者はいなかったろう。
 私の任務は、ネパールの国境に近い小さな学校の校長であった。ネパ−ル
との出会いそれは、遙かに望む山々、白く輝く遥かなるエベレストの頂であった。神が造られた美しく気高い頂に私は毎日祈りを捧げた。28年の人生の中で見た最も美しい光景であった。
                 
                                                                                                                †
2 そしてネパールへ

 私の学校にも、何人ものネパールの子供達が勉強していた。当時は、ネパールの国内では満足な教育が出来ず、多少のゆとりのある家では、国境を越え、インドの学校で勉強させていた。ネパール政府は、鎖国政策をとり続けていたが、ネパール人、インド人は互いの国境を越え、非公式な交流を続けていたのだ。しかし、外国人のネパールへの入国は全く困難な時代であった。
 私の事はこ子供達を通してネパールに伝わっていたらしい。特にネパーレのパトナ地区の親は、私がネパールに来て学校を建ててほしいと何度も懇願してきた。パトナ地区は、王族の子弟や有名なラナ家の子弟が多く、教育には熱心な親が多かったためだろう。幸い1940年代後半には、ネパール政府の鎖国政策も少しずつ緩む傾向にあった。しかし、ネバールへ好んで行こうとする外国人は、皆無であった。なぜなら道路は険しく馬一頭がやっと通れるほどの踏みつけ道で、なん百キロも徒歩と馬で進まなければならなかったからだ。1949年8月、私は、意を決してカトマンズへ旅をする事にした。たぷん私が西洋人として初めての入国者になたろう。私がネバールに人国出来たのは子供達の父兄がいろいろ王室に働きかけ特別の許可を取ってくれたおかげであった。
 1928年、アメリカからの長旅の後、インドのうだるような暑さの中で、白く輝くネパールの神々しい山々の姿に、羨望と安らぎをおぼえたのがつい先日のように思えた.20年の歳月、私はネパ−ルの山々を望まなかった日は、ただの一日もなかった。ある時は、満月の輝きの中に、ほんのちょっと手を延ばせばテラスの向こうに、ある時は、満月の輝きの中に、ネパールの山々は、私の手の中に、ほんのちょっと手をのばすと届く距離に思えた。
 しかし、それは私の錯覚で、一歩も立ち入る事さえ出来なかったのだ。
 
3 そして第二のふる里に

 それでも、私には迎えにきた父兄達によって一頭の馬が与えられた。馬の旅はとても快適とは言えなかったが、やっとバタナに着くことが出来た。子供達の話で、わかっているつもりではあったが、通り過ぎる小さな村々の貧しさは私の胸を痛くした。なんと行っても、自転車さえ走る事の出来ない険しいそして細い道は、あらゆる文明の進入を妨害していた。あえて政府は敵の進入を阻止するために道路を造ろうとしなかったと言われる。
 学校もほとんど見あたらなかった。たぶん文字を読める人は10人に一人もいなかったろう。新しい知識は、敵国の軍隊の侵入と同じようにおそれられていたのだろう。映画も禁じられていたし、新聞も発行させなかった。
 私は、しばらくバタナ大学の副学長の世話になって、ネパールを知ることができた。10月2日、20マイル先のカトマンズへポニーに揺られながらめざした。約一ヶ月つぶさにカトマンズも見ることが出来た。その時もう私の心は決っていた。
 「ネパールにも、高いレベルをめざす初等学校を創ろう。ネパーレの国を創っていく若者が必要だ」私は、決心するとすぐに、文部大臣に面会し、子どものために学校づくりをさせてくれるよう懇願した。
 文部大臣は、ネパールの発展のために教育が重要だと言うことをよく認識していたのは幸いだった。約1年後の1950年の12日、私は文部大臣から開校の許可の手紙を手にした。

4 セントザピエルスクールの開校

 1951年5月1日、再びネパールに入った私は、学校づくりのために飛び回った。ネバール王室の好意によりゴダバリ(カトマンズより20キロほど離れた小さな村)に離宮を提供された。おかげで予想以上に早く校舎が決まった。私は、広くネパール国内から生徒を集めるために、全寮制の小学校を考えそれを実行した。ローカルのスタッフ5人も決まり6月1日には開校にこぎ着けるまでになった。寝食を忘れる1月であったが、若かった私は苦労とは思わなかった。私が、学校づくりにたということ来たということが、インドの学校の教え子等を通してして広まっていて、開校前から入学の希望が相次いだ。だが、寮の設備と教室がまだ2つしか取れないことから60人が限度であった。やむなく面接による選抜をする事としたが、300人も来たので驚いてしまった。
 そして、39年の歳月が流れた。6学級170人の小学部、カトマンズに開校した400人の中等部と発展したが、私の生活には何の変化も来たしていない。神への祈りと子供達との生活である。

セントザビエル校  小学4年生の英語暗唱 セントザビエル校  寄宿舎の朝食  

5 体験を通して学ばせる

 充分な教科書や参考書、教材教具はない。だが、ゴダパリは美しい自然に囲まれ、自然が良い教材となっている。周囲の15マイルの森は、子供達の自然観察の最高の環境だ。ネパールでは、450種の野鳥が観察されたと言われているが、子供連といっしょに650種の野鳥を発見した。嵐によってタイから迷って来た鳥もいた。図鑑からの知識ではなく、本物を体験して学習する子供達には本当の力がつくものと信じている。
 動植物についての子供達の知識はすばらしいものがある。家庭の都合で大学に行けなかった本校の卒業生が聴講生になり大学で発表したとき、教授まどこの大学で勉強したのかと聞いたほどであった。 環境を生かしながら、体験を重視した教育を本校でやっている。
 英語もこれから世界の人々と対等にっき合うために是非とも必要だ。私の学校では、1週間40時間の授業のうち8時間を英語に充てている。もちろん小学1年生から教えている。


6 ラジオ少年からハムへ

 私の小さい頃、ラジオ放送が開始された。どうしてあんな小さな箱からミュージックや話が聞こえるのかとても不思議に思えた。後は皆さんと同じ道を歩んだ。コイルを巻き、アンテナを上げラジオの製作に夢中になった。少年時代の楽しい思い出は、ずっと私の心に残っていた。
 1945年、私はインドで第二次世界大戦の副産物、ジャンクの山に遭遇したのである。ハーマーランド、ハリクラフター、ETC私はむさぽるようにジャンクを手にいれた。初めて手にするスーパーへテロダイン受信機は、遠く故国の電波をキャッチし私は大いに満足した。皆さんと同じようにその時ハムの交信を傍受したのだ。楽しそうに語らうハムの電波に私は毎夜SWLを続けた。
 1947年、私はXU2SXで波を出すことが出来た。A3の50ワットほどで、故国アメリカはじめ世界中と交信ができた。ネパールに入ってもアマチュア無線の申請をしたが、10年近くたってやっと免許をするとと連絡を受けたが、 
「免許状はどんなふうに書けば良いのか」と言うのが郵政技官の質問であった。私は、インドやアメリカのフォームを見せなければならなかった。とにかく私は、ネパールただ一人のアマチュア無線局になった。
 これまでに、10万局は交信したと思う。私はいわゆるDXサーではないので、時間の許るす限りラグチューをしながら相手をする事にしている。ピックパワーやピックアンテナにはあまり興味はない。QRPの方は大歓迎する。但し私の25歳のドレークの受信機に聞こえる程度にパワーを入れてほしい。
 無線の趣味で登山隊の援助もしている。登山隊とカトマンズの連絡は重要であるが手段がない。そこで各国の登山隊は私のアマチュア無線に期待を寄せる。ヒラリー隊はじめ日本の登山隊のベースとして私のシャツクを何度も占領した。
 SWLとしてもこずいぷん多くの放送局に愛情レポートを送った.特にBBCへは、毎週のようにレポートしている。特に私は、混信や妨害状況についてできるだけ正確にレポートするよう心がけている。私のレポートをもとに、アジア向けの放送の周波教の変更が何度もあった。

故9N1MMモラン神父 壁に貼られたQSLカ−ド


7 ネパ−ルの教育事情

 確かに私が1951年ネパールに入つた時に比ベ、ネバールの教育は改善された。だが、まだ、小学校に入学するのは50パーセント程度ではないかと推測する.入学しても卒業する保証はなにもない。かなりの子供達が家庭の都合でドロップアウトしている。まだ、義務教育の概念さえ国民に認識されていない現状だ。
 最近になっても、まだトイレのない学校や飲み水の準備のない学校が多い。屋根と壁があれば上と考えなければならない現状の中で、私の学校の子供達には、机や椅子、黒板があり、ガラスの入った窓が有るのだから幸せだ。


8 迷信の支配する山間部

 文盲や無知は、ネパールの人々を不幸から立ち上がる事を困難にしている。病気の治療は、医者ではなくて祈祷師の手によって見立てられている。千年も前の因縁で子孫が病気になると信じられているネパールでは、病気の治療は祈祷師が重大な責任を担っている。原因は、のみ水であり、排便、蝿や蚊による感染であるなどということは、信用できないデマであるということの方がより信用されているのだ。
 驚くべき事に、生まれた子供の半分近くが6歳まで生きられないのだ。子供を死にいたらしめる各種の病気も、両親と家族の無知から来ていると言う事実を知ることさえできないのはなんと悲しい事だろう。
 西洋医学も確かに普及してきた。私かネパールに来た時にも病院はあったが、ひどいものであった。医者はいなくて、看護婦が患者の面倒をみて、その家族が病人のそばで寝起きしていた病院の庭では、みんなが勝手に煮炊きしていた。
 私が怪我をして、レントゲンを写そうとした時、フイルムがないと言うので、知人に頼んでカトマンズ中をさがしてもらいやっと手にいれたとき、医者は、レントゲンも壊れていると付け加えた。こんな状況だから、怪我をしてもまともな治療はできないのだ。だからちょっとした骨折も、手が曲がったまま固定してしまうという結果を引き起こす。


9 宗 教                                                 
 
ネパールの国教はヒンズー教で、国民の約8割がヒンズー教徒だ。ヒンズー教は、皆さんが知っているように階級制度がある。このため、階級のちがう男女は結婚も出来ない。その点仏教は、差別がないので最近仏教に改宗する人も出ている。キリスト教は、ずいぶん弾圧を受けつい最近まで多くの布教者が刑務所につながれていた。3月以降の民主化運動で、多くのキリスト数信者が解放されたのは本当にうれしいことだ。
 しかし、ネバールの良いところは、宗教問題で人を殺したりする事がない事だ。インドはちがう。宗教問題で毎日多くの人が殺され、また、そのしかえしに人が殺されている。インドでは、「許して忘れる」という事がないのだ。


10 JA8ATG Mr.HARAとの出会い

 私が、ユニセフハムクラブの活動を知ったのは、1985年であった。1月の寒い朝、一人の背の高い日本人が朝の5時頃訪ねてきた。霧の濃い日で、彼と写真を撮ろうと思ったがそれは無理だと思った。朝食をいっしょにした私は、彼の名前とコールを聞いた。そして、彼はユニセフのボランティアをしていると言う事であった。彼と彼の仲間は、次の年から毎年現われるようになった。電波を出したいと言うことであったが、私には不可能であると思えた。だが彼らは、とうとう彼らの免許を得たのである。私は、本当に驚いたが、彼らの情熱がネパール郵政省を動かしたのだろう。
 彼は、日本で教師をしているとの事で、次々とネパールの教育について質問をしてくるので、私は、正確な答えをするために慎重に答えなければならなかった.彼を含めて、彼のグループは、今までの訪問者にはない私に共通する話題がたくさんあり、教育者としての私の使命をもう一度確認する事ができた。
 そして、今回、彼は例のごと朝早くに私の学校に訪ねてきた。彼は、日本に来てほしいと懇願した。私は、その場でOKを出した。日本でもっと多くの彼のメンバーと会える事を私も希望したからだ。
 今日、たくさんのユニセフハムクラブのメンバーや日本のハムの皆さんに会えて本当にうれしい。私と同じ気持ちのハムがこんなにたくさん日本にいる事を知った事が、この旅行を成功させるだろう。
                
く2回の講演会とインタヒューをまとめ構成しました.〉 


JA8ATG TOPへ戻る