JA8ATGの秋葉原探訪記 |
最初に秋葉原に行ったのは、昭和45年頃だったと思います。当時「センターニュース」と言う新聞が発行されていていました。職場のクラブ局JA8YIMが同紙に掲載された事がきっかけで、編集部におじゃましたのでした。同編集室は、秋葉原のビルの何階かにあり、小さなエレベーターに乗り、ドアが開くともうそこが編集室で新聞や資料が山積みになっていました。 |
平成13年4月28日(土)
命を実感した日
私は、この日ほど生きているという実感を味わった日はありません。
「二度と秋葉原の電気街に立つことはないだろう。」そう思っていた私が、肝臓移植を受けて奇跡の生還をなしとげました。どんどん意識の薄らいでいく私の脳裏を、楽しかった思い出が走馬燈のように駆けめぐりました。秋葉原の思い出も私の思い出の中の重要な一部になっていました。小さな階段を駆け上がり、買いあさったジャンク屋さん。肩がぶつかる程の人通り、ビラまきのお兄さんの声、新製品を紹介するメーカーのお姉さんの声、雑踏の騒音がすぐそこに聞こえて来るような錯覚が、私の混乱した頭の中を走って行きました。肝不全、そして腎臓もつられて悪くなり腎不全をおこした私の体内には、血液の浄化作用は全くなくなりました。脳は、完全に機能を維持できなくなりました。幻聴や幻想はいっそう激しくなり、錯乱状態に陥ってしまったのです。そして、私は完全に意識を失いました。
もう地方の病院では、対応できないと医師が判断して、200km離れた札幌の病院にヘリコプターで搬送されたのです。私の様態は、一層悪くなり肝臓の移植が決まりました。私が意識を回復したのは、それから2週間も過ぎていたのです。肝臓移植を受けた私はICUに入れられ2週間後に少しずつ意識を回復しました。気が付くと、私の体には10本以上の点滴のパイプがつながり、酸素吸入が施されていました。手を僅かに動かせるだけで、自分の力で体を1mmも動かすことが出来ません。私がどこにいるのか分からないのです。今、何月何日で何時何分なのかも分からないのです。夢と夢の間のように幻聴や幻想は続いています。
「どうして、インド人の医師が私の治療をしているのだ。」
「どうして、亡くなった母が看病してくれているのか?」
「指示滅裂なストリーの夢が続くのか!」
少しずつ自分が生き返ったという事が事実だという事がわっかって来ました。ICUの2週間は、夢と現実が交差した、幻覚の時間でした。
個室に移った後も、まだ体を1mmも動かせないのです。
「看護婦さん、私はトイレに行きたいんです。行かせて下さい。お願いです。トイレへ行きたいのです。」
「ベットから降りる許可はまだ出ていません。」
「トイレに行くくらいいいでしょう。お願いです。トイレに行かせて下さい。」
すでに個室に移って2週間以上も経っていました。
「私は、トイレに行きたいんです。」
「じゃあ、立ってみましょうか。」
私は、二人の看護婦さんに介助を受け、ベットから降りようとしていました。まだ、点滴や体液の管が5〜6本付けていましたが、私は、当然立てると信じていました。しかし、私は、まるでこんにゃくのようにくずれそうになり、やっと二人の看護婦さんに支えられ、ベットに尻餅をつきました。
立てないのです。まったく力が入らないのです。歩けないどころか立つことさえ出来ないのです。私は、自分の体の変化に本当に驚きました。もう私は立つことさえ出来なくなったのです。
それから僅か4ヶ月後、私は秋葉原の雑踏の中に立っていました。夢の様です。夢であったらさめてほしくない夢です。いつまでも見続けたい夢です。しかし、これは現実でした。家内と共に秋葉原の雑踏の中を歩いているのです。私は生きていたのです。
平成14年4月28日(日)編
1 連休の秋葉原を歩く
27日のJARLの理事会が9時から18時までの予定でしたが、長引くと最終の飛行機に乗れないことを予想して、思い切って延泊を決めていました。秋葉原のワシントンホテルが、連休の得割りで安くなっているとだろうと期待して電話してみましたが、シングル11,800円とのこと。
「安い!。でもまたにします。」と断って、泊まっていた巣鴨インに確認すると、こちらは土曜割引でなんと6,000円とのことです。この「巣鴨イン」はビジネスホテルですが、きれいで東京では安い方だと思います。ただ環境が少々悪く(良すぎるのか?)出歩くと割高になってしまいますので要注意ですが。(?)JR巣鴨駅から徒歩3分で、秋葉原にも20分ほどで着くので、便利な方でしょう。あくまで、「秋葉原」に行くことが前提で書いています。hi
さて、28日朝は、8時までのんびり寝ていて、朝食は、ホテルの「簡易朝食」(無料)を食べて、いざ「秋葉原」へ出発です。なんせ、秋葉原のお店は、ほとんど10時か11時に開店ですので、早く行ってもなにもする事がありません。が、はやる気持ちを抑えても秋葉原に9時少しに着いてしまいました。hi
でも何件かのお店はすでに開店していて、正確には「開店準備」をしていました。電気店街駅前のセキュリティーカメラを売っている店をのぞくと、画像サーバーがCCDカメラ内蔵で約5万円で売っていました。
「安い! どうしてこんなに安いのですか?」と店員さんに訪ねてみますと、
「機能が少ないです。それに、画像も15フレームですし。」との事です。なるほど。向かいの携帯電話ショップでは、モックの携帯を100種類位並べています。
「あのー、携帯電話でメールを音声合成で読めるなんて機種はあるんでしょうか。」
「あります。富士通のF−671です。」さすが秋葉のプロ店員さん。こんなにたくさんある機種から型番まですぐ出てくるのですから。北海道の店なら、
「しばらくお待ち下さい。」とかで、店員さんは全くノー知識。まじめにやれと言いたくなります。本日は、カタログをいただくのみでごめんなさい!
皆さんお店の開店時間知ってるんですね。もうすぐ10時になろうとするころ、山の手線からどんどん人が降りてきました。今日は、遠くの店屋からのぞこうと、御徒町方向の店から回り始めました。確か、2階に大型中古パソコンショップが有ったので、2階まであがると、すごい人だかりです。なんか以前と雰囲気が変わっています。PCパーツが激安です。私も、1ヶ50円のマウス他、購入しました。たいして使うあてのない物ばかり、ただ安いからと言う理由です。やっぱり店は変わっていて、前にあったPショップではないとの事でした。
2 日立PERSONA WinCE2.0
(HPW-200JC)に遭遇!!
だんだん秋葉原駅の方に戻って来ました。露天がならぶ通りのショップを覗くと、win95osrがまだ5,000円の値を付けています。98 2ndが9,000円、
MEが10,000円、XPが14,000円というところでした。95のシリアルNOの入ったCDケースの紙(なんと表現すれば良いのか?)が500円。なるほどこれがあれば正規の登録が出来ますので、500円以上の価値があるでしょう。
順番にショップや露天を見てきますと、ある店で東芝のノートパソコン(P−MMX166Mhz、RAM64M、12インチTFT)のとても状態の良さそうなのが、2万円です。どうしてこんなに安いのか訪ねると、
「ACアダプターが本当は15V必要なのに12ボルト用しか付属してないんです。だから安いんです。」、
「ACアダプターは、せいぜい500円、もしアダプターの中に電圧調整のボリュームが付いていれば只。」そう考えた私は、思い切って有るだけ買って、札幌盲学校の生徒さんに使ってもらう事にしました。インターネットだけの使用ならこれで十分でしょう。在庫は、5台とのことで全部買いとなりました。
さて、買ってから見るとUSBコネクターが付いてるのにLANコネクターは付いていません。やむなくLANカードを5枚追加です。新品が@1,000円で決着です。確か、6年前に白糠養護学校の先生方とLANカード買った時は、@8,000円位だったはずです。なんでも安くなりましたね。
さて、露店も一回り見学して、秋葉の中心街に戻ろうと歩いていた時です。
「日立 PERSONA 9,500円、限定5台」とお店の前に広告が貼ってあるではありませんか。確か、PERSONAは、発売当時10万円以上でWinCEのPDAのはずです。半信半疑で3階のショップまで行ってみますと、懐かしいPERSONAが展示されているではありませんか。数年前ほしいと思っていたPDAの1台だったのです。
「これは、中古ですか。」
「いえ、新品ですがジャンクです。取り説、付属品も全部付いてますよ。」 これは「買いです!」また荷物が増えました。
帰って来てびっくり、ジャンクとはいえ、確かに新品です。ちゃんと動きます。WinCEですから、操作は全くウィンドウズです。インターネットで調べてみると、発売は、1998年で、定価138,000円でした。ハードデスクからガッタンゴットン立ち上げ3分も待つPCとは違い、スイッチを入れたらROMから瞬間に立ち上がるのですから何とも気持ちの良いものです。これにPHSカードを入れておけば最高ですね。
若松通商さんでもPERSONA発見、こちらは9,800円との事でした。
後日談があります。次の日、職場にNTTの方が来られて、
「キャンペーンをやっています。今PHSを契約しますと、PDAとPHSカードを組み合わせで、2万円で提供します。」
「え! 2万円ですか!!!」 9,800円の1988年製のPDAと最新のCPU200MhzのPDAプラスPHSカードが付いて2万円です。私は得をしたのでしょうか、損をしたのでしょうか。????
3 疲れた
さすがに病み上がりの身、朝9時から約3時間歩いて疲れました。富士無線、ロケットのアマチュア無線店、秋月などなどを見て昼飯にすることにしました。きれいとはお世辞にもいえない「泰園」がいつもの昼食指定店です。この店を選んだ訳として、「まあ安い」「ボリュームがある」そして、もう一つが「泰」つまりタイランドを意味しているのです。ちなみに次女は、タイで生まれましたので、「泰美」(ひろみ)と名前をつけました。タイで生まれた邦人のお子さんは、圧倒的に泰男さん、泰子さんなど泰を入れた名前が多いそうです。やはり、この店はタイに関係しているようで、タイ人のYLが数人食事をしていました。なつかしいタイ語をはなしていましたので、つい声をかけたくなりましたが、おじさんがYLさんに声をかけるのも悪いかなと思いやめました。hi 飛行機は、羽田17時でしたが、早めに秋葉原を後にしました。
平成14年6月24日(月)編
1 平日の秋葉原を歩く
初めてかもしれません。いつも土日に来ていた秋葉原を初めて平日に歩いています。平日の夕方の秋葉原、これが格好な人並みが流れています。いつものコースで、今日は、駅前コースからのスタートです。ラジオ会館の古びた三菱製のエレベーターに揺られて(ほんとに結構揺れるエレベーターなんです)5階のパソコンショップ「テイクオフ」に向かいます。はい残念「本日定休日」の札がかかっています。向かいに新しいお店が開店したようなので覗きますと、オーデオショップで、管球アンプやSPがずらり並んでいます。オー!、スピーカーコーンやボイスコイルまで売っています。オーディオの方は、スピーカーのコーンまで取り替えるのでしょうか。私の趣味ではありませんが、結構細かなパーツまでそろっています。秋葉原のおもしろい(お店の方は、店の存続に関わる事ですから、おもしろいも表現は、不適切な表現でしょうか?)のは、閉店する店があるかと思えばまたその後に新しいお店がすぐに出来ることです。
4階の「PC−in」まで降ります。ここは秋葉原の中古ショップでも新しい方ですが、結構売り場面積も広くおもしろいところです。中古ノートPC、デスクトップPC、それにジャンクの付属品も結構あります。手持ちの東芝のノートパソコンの電源を探してみます。15V、2A位がほしいのですが、12Vとか20V定格の合わないものものばかりです。値段は1000円〜2000円。ふとみると東芝のOUT15Vを1個発見。ただし、お値段5000円のシールが貼ってあります。15Vは売れ筋なのでしょうか。
秋葉原の値付けは実に、資本主義に当てはまっています。売れるものは高く、売れないものは安く、それが実にうまく価格設定がしてあるのです。
「おや! 安い!」と思った時は、すぐ買ってはいけせん。どこかに欠点があるのです。その欠点があっても良いと思ってから納得してから買って下さい。
失敗例
PCIモデムカード56k 380円 新品、ドライバー付属なし 安い! メーカー名が入っていたのでHPからドライバーをダウンロードすれば良いと5個買いましたが、HPをいくら探してもドライバー発見出来ず。hi
ノートパソコン電源 新品 500円 少し出力電圧が高いが 安い! 帰って来て、銘板ははがしてケースを開けようとしたところ、あけるねじがついてません。どこを探してもあけるところなし。完全にモールドされていて改造出来ないのです。
失敗例は、ありすぎます。hi
続いて、中央通りを渡って、ラジオセンターへ向かいます。1階、地下、3階、ほとんどのお店に、「定休日」の札が下がっています。裏の「櫻屋電気」、ここもお休み、続いて秋月通商もお休み。月曜日の秋葉原は「定休日」ばかりです。
あけているお店を覗いていると、
「お客さん、閉店にします!」と追い出されてしまいました。まだ、6時50分じゃないでか。平日の秋葉原は、閉店も早いようで、特に月曜日は「定休日」が多くて、最悪の日でした。
2 静かに変わる秋葉原
秋葉原は、行くたびに変わっています。駅前の市場はすっかりなくなって、駐車場になってしまいました。市場の2階は、働く人のための食堂街で、たくさん食堂がならんでいました。結構安くて、ボリュームもありました。床屋さんも何軒か入っていたと思いました。最近、時間があるので床屋さんに寄って行こうと思って秋葉原をさがしましたが、これがないんです。必要ない時に一軒発見したのですが、これが、実にないんです。
ホテルも少ないんです。3年ほど前まで良く泊まっていた「シルバー イン」というホテルは、名前のとおり、年配の方ばかりがスタッフでした。ホテルのパンフにも年配者でやっていると書いてあったと記憶しています。市場に仕事に来ている人が泊まっていたようで、朝4時頃バタバタ出かける気配がしていました。
ある時、急に東京に出かける用があり、定宿(?)のこのホテルに電話で予約を入れたところ、
「お名前は?」というので、
「ハラです。」というと、
「ああ、北海道のハラさんね。」と言われてしまったので、私は、「秋葉原では、悪いことは出来ないな!」と思いました。hi(悪いことは、どこでやっても行けないのですが)
その「シルバー イン」も2年近く、病気で秋葉原通いをストップしていましたら、いくら電話をかけても出なくなり、6月24日に覗いて来ましたら、閉鎖されていました。私にとっては、帝国ホテルが閉鎖されたより、寂しく思いました。
何年か前、この定宿に家内と一緒に泊まったことがありました。家内が、
「男の人っていいね。どんなとこでも泊まれて!」とこのホテルのぼろ加減(シルバー インさんご免なさい)に感心して、のたまいまいした。私だって、高級ホテルに泊まりたいのですが、予算の関係ともう一つ、大きな理由がありました。いつ予約しても「満室です。」という事がなかったのもここを利用した理由なんです。こんな理由を書くとやっぱり「シルバー イン」に失礼ですね。
「総合的に評価して、このホテルが良かった。」と言うことです。そんな訳で、北海道から、同ホテルの再開を願っております。
南無線にあった「T−ZONE]も全く違う所に移っていました。昔「T−ZONE」のあったビルも「九十九」に変わっていました。「ロケット」のアマチュア無線店もずいぶんあちこちに変わりました。秋葉原は、静かに変わっているのです。
JR秋葉原電気街出口の名物と言えば、「街頭販売」です。営業マンが、大声でどなっていたのが、最近は、ヘドレストにマイクをつけキャベツの千切りの道具をスマートに売っていました。今日みて驚いたのが、実演で、パソコンソフト(CAI)の販売をしていたことでした。時代は変わるものです。
私が、秋葉原の変遷に思い出を残しているより、ここで店を張り生活をしていた多くの皆さんが、その盛衰にもっと沢山の思い出を持っておられるのでしょう。200円のビニール雨傘を通して見える、秋葉原の夕闇にネオン広告が光りはじめました。
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