皆さんのご先祖のルーツはお調べになったことがありますか。私が、平成12年の11月に医師から「もう打つ手がありません」と死の宣告を受けたとき、私はなんとか生き延びたいと神仏に祈ろうとしました。しかしだんだん意識が薄らいでいく中で、頼るところは先祖しかないと思いました。初めてご先祖様に妻と二人で、延命を祈りました。私の体はあっという間に、真っ赤な母の胎内に引き込まれました。そして祖母やそのまた母、何人もの女性の体を通り抜け、出たところは立派な仏壇の前でした。仏壇には、仏様の掛け軸がかかっていたように思います。仏壇の奥のほうから声がして、それはご先祖様の声なのか仏様の声なのか判然としません。その声は、
「私は、天空を支配しています。あなたの願は、聞いておきましょう。」と言ったように思います。はっきり生かすとは言ってくれませんでした。そして、私の体は再び母達の胎内を通り抜け、気が付いたときには一緒に手を合わせてくれていた妻の姿は有りませんでした。それもそのはず、妻と一緒に先祖に祈ったのは2週間も前の事だったと言うのです。
私は、これまで神仏にも、ご先祖様にも心からお祈りをしたことがありませんでした。こんな無信心な私のことについて先祖の方々が長い時間をかけて、私の生死についてどうするか話し合っていたのだと思っています。
私は、一度だけ先祖の長く住んでいた九州の福岡県甘木市へ出かけたことがあります。久留米からの支線で甘木鉄道に乗り、秋月に着きました。先祖の住んでいたのは秋月という町です。原の家は代々儒学者で、この時代は黒田藩の藩学校で漢詩を教えていたと言うことです。この原家の中でもひいでて漢詩の作品を残したのが原古処(1767−1827)という人で、今もいろいろな人が原古処について研究しているようです。甘木の駅でもらったパンフを頼りに、秋月に行ってみますと、箱庭のように小さな街です。原古処はこの地域ではなかなか有名な人のようで、町の地図にも原古処の墓や家の跡などが記入されていました。こんな小さな町で漢詩を作っていた方が先祖なのかと感激したところです。
研究者によると、原一族は中国で戦に負け、日本に逃げてきたそうです。帰化して儒教や漢詩などを広めていたようです。
そんなわけで、たった一回ご先祖様のお墓参りに行ったことが、私の命をのばすことになったのでしょうか。
秋月町の古処山を望む 原古処庵跡
参考HP http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/~camp/HomeP/gazou1-1/kyusyu/kyu/kai.htm
http://homepage2.nifty.com/akizuki-kyoudo/pic23.html
殆どのOMさんがそうだたように私も「ラジオ少年」でした。幸い父が理科の教員で、家庭でいろいろな実験の準備をしていました。昭和20年〜30年頃は、教材も満足に売っていないため、一升瓶やサイダ−の瓶を切って、化学の実験のためにビ−カ−をつっくたり、壊れたモーターなどを分解して、コイルを取り出したりしていたのを傍でみていたのです。ある時、父の実験していたメッキの実験が放置されいましたので、見よう見まねで学生服のボタンを液につけ、古い電池をつないでみました。一晩たって起きてみると、実にきれいにニッケルメッキがかかっていました。偶然電圧の下がった電池ををつなつないだのが効をそうしたようです。電池式ラジオも転がっていて、いたずらをしてフイラメントを切ったりしたこともありましたが、父はしかったりしたことはなく、勝手にいたずらを続けたのです。
そんな父の机の回りに「杉本哲」著書のラジオの本が積んでありました。小学校2〜3年の私には漢字が多く読めなくて、母になども漢字をたずねた事を記憶しています。漢字の意味まで聞かれた母は答えるのに困ったようです。しかし、配線図は記号ですからすぐ覚えました。私があまり熱心にラジオの本を読むので(見るので)、父は私が小学3年生の冬休みに「ラジオ教材社から、3球ラジオのキットを買ってくれました。小包で送られてきたそのキットは、新聞紙に包まれ、大事そうに届いたのです。ところが、嬉しくて気も動転していた私は新聞紙の中にタマゴラグが入っていたことに気づかずストーブに入れ燃やしてしまったのです。結局、父が深川のラジオ屋さんからタマゴラグを買ってくるまで組み立てることが出来ませんでした。それでも3級ラジオ球は、冬休みの最後の週に完成しました。3球ラジオは結構高感度で東京の放送も良く聞こえました。
ある時、父は鉱石ラジオのキットを買ってきました。そのころ深名線の幌加内町新富という所にすんでいましたが、結構大きなアンテナを張っても全く放送は聞こえませんでした。ところがある時、旭川にその鉱石ラジオを持って行き、5m位の線をアンテナに付けるとガンガン聞こえるではありませんか。早速家に帰ってから杉本哲さんの本をもとに大きなコイルを巻いてみたり様々な工夫をしてみましたがやはり放送はなにも聞こえません。杉本先生の本によると、満州の放送が聞こえたと書いて有るではありませんか。私は、アンテナが小さいからだと思い、大アンテナを作る計画を立てました。父が学校勤務で、住宅と校舎が隣接していたため、家のすぐ横に国旗掲揚塔があり、また、反対側には木柱の火の見やぐらがありました。集めてあった銅線をすべてつなぎ合わせ、国旗掲揚塔と火の見やぐらとの間に大アンテナを上げたのです。高さ15m、長さ100mはあったでしょうか。しかし、放送は全く聞こえませんでした。
このアンテナにはオチがあります。火の見やぐらに上り下りをしている子供のすがたを見て近所のおじさんが飛んできました。
「つねちゃん! あの火の見やぐらの柱は、クサッテいるんだよ!」その近所のおじさんの言葉は正確で、1週間ほどした風の強い日の次の日にみると、火の見やぐらは倒れていたのでした。
ある時父が、深川のラジオやさんでBC用の5球スーパーに短波が聞ける付加装置を買ってきました。早速その装置を取り付けますと、NHKの国際放送とかイタリアのラジオローマ、VOAなどが聞こえるではありませんか。夢中で短波放送を聞いていると何か楽しそうに話している電波が聞こえてきました。アマチュア無線との出会いであったのです。確か小学6年生のときであったと記憶しています。
中学校は、幌加内町立政和中学校に入学しましたが、隣町までの汽車通学となりました。この地方の冬は厳しく、零下30度以下になりました。そして豪雪地帯で、実に4mも雪が降ったこともありました。それで、朝一番の汽車はいつ来るか分からないことが多く、その日によっては運休となるのです。C−51の二連でロータリー除雪車が来るのは、1週に一度くらいです。私は、思い切って家を出て室蘭の祖母の家にお世話になることを父に申し出たところ、話が順調に進み、3学期から室蘭の成徳中学校へ転校することになりました。ここで私の人生は、大きく変わったのではないかと思います。成徳中学校では、たくさんの新しい友達に出会えました。また、心に残る先生方にもお会いすることが出来ました。
中でも、中3担任の横山功先生、放送部顧問の故佐藤浩一先生には、ずいぶんとお世話になりまた感化を受けました。教員となり学級経営は横山先生の経営を模倣させてもらいました。横山先生の学級経営は、あまり細かな事は指導されないで、いつも自由にさせてもらったと思います。
一方、横山先生が、
「原、おまえの担任はどっちだ!」と言われるくらい、いつも放課後は入り浸りになっていた放送室の顧問の佐藤先生です。佐藤先生は、音楽の専門でしたが、電気に明るく、なんでも自作してしまうという凄い技術の持ち主でした。まだ昭和30年代で物資もそれほど豊かでない時代でしたから、教材教具などもなかなかそろわないことが多かったのです。数々佐藤先生が製作されたものをみましたが、中でも秀作は、「ポータブル電蓄」と「ワイヤレスマイク」でした。電蓄には、なんと807が使われ、当時としては、恐ろしいハイパワーのアンプが内蔵されていました。中もケースもレコードプレイヤーも全部中古の何かをバラしたもので作られていました。これは、体育や小集会など多くの場面で活躍していました。もう一つのワイヤレスマイクは、電池管3S4を電力増幅に使った強力なワイヤレスマイクでした。電池は、67.5Vの積層電池を使っていましたので、1W位出ていたかもしれません。広いグランドも校舎じゅうも「バナバン飛ぶ」という代物でした。このワイヤレスマイクもすべてなにかをバラし、再利用したものばかりでした。このワイヤレスマイクですが、終段の3S4がちゃんとC級で働くようにバイアス電源を別に積層電池をバラし、固定バイアスにしてあったことです。ケースもなにかの再利用ですが、持ちやすいように取っ手を付け、それは、丁寧な板金加工がされていました。私のような雑な人間は、佐藤先生の精神だけを尊重し、がたがたな穴を開けるなど細工は全くまねが出来ません。
さて。佐藤先生の欠点(?)は、人使いが結構荒いということです。hi 卒業式の後、卒業生の私に、
「ハラ、卒業式が終わったから、マイクとスタンド、それから外に出してあるトランペットスピーカーはずして、それから、−−−−−。」3つも4つも仕事を言いつけるのです。hi
蛇足(?)ですが、妻は同じ横山学級の同級生です。横山先生に仲人をお願いした時は、さぞかし先生は驚かれたと思います。
3 ラジオ青年(?)時代
高校時代は、全く勉強せず、教科書代わりにCQ誌を持ち歩き、送信機や受信機アンテナの構想を考える毎日でした。幸い転校した岩見沢東高校にアマチュアクラブがありました。クラスメートのJA8AFE長森君などJA8YAQのメンバーと無線談義でさっぱり勉強に身が入らず、劣等生で高校卒業となりました。ただ物理だけはたいした勉強もしないのに京大や北大に入った級友より良かったので、「勉強というのは本当は易しいのかもしれない。」などとんでもないことを考えていました。
そんなわけで、名門北海道岩見沢東高等学校の後ろからn番でめでたく卒業しました。おかげ様で何校かの大学を受けさせてもらい、みんな落ちて結局父の母校である函館教育大学に籍を置くことになりました。それで、所属の研究室を決めるため、教科の希望を出しましたが、第一希望に「技術」と書いたのは私だけということで、すんなり技術研究室に入れて頂きました。技術課は、男子ばかり(後に後輩で女性も入ってきました)の楽しい課で、ここでもさっぱり勉強をせず、アパートの一室で無線ばかりやっていました。
ある時CWで交信していると、あまりにも下手なので気になったらしく、
「遊びに来なさい!」と声がかかったのが、当時北大生であったJA8OW谷本氏でした。
「あんたの電信なに打っとるかさっぱりわからんぞ!」とのこと、
「そりゃあそうでしよう。打ってる本人だってよくわからんですから。」
こんな事が縁で谷本氏との交流も始まりました。函館は、結構ハムの多い街なのですが、それほど多くのハムの皆さんに会いませんでした。それでもJA8BB、A8MZ、JA8QF、JA8ZM、JA8ANW、JA8BQW、JA8BWW、JA8BXD、JA8CUH他多くの方にお世話になりました。
当時は、AMからSSBへの切り替わる時期で、何台もSSBのリグを作りました。ただ、デップメーターほかまともな測定器が買えず、製作には苦労しました。
JA8CUH佐藤OMとタクシー機の中古を求めて改造したのはいいのですが、さっぱり届かないのです。どのくらい届くかというと、佐藤OMの車が数軒先の曲がり角を曲がって見えなくなると、つまり、100mも交信できないのです。これはおかしいのでJA8AG藤山さんの会社のカウンターで周波数を測ってもらうと、144.48Mhzで出しているつもりが、100KHzもFずれを起こしていることが分かりました。これをコンデンサーをかましたりして周波数を合わせると、実に30km交信できるではありませんか。佐藤OM車でが大沼を超えてもバッチリM5で交信できました。
4 青年教師(?)時代
詳しくは、JA8YIMのところで書かせていただきました。檜山管内大成町太田小中学校が私の最初の勤務校でした。全校生徒数60人ほどの小さな学校でしたが、多くの思い出が残りました。故野口哲平校長と私を含め、全職員5名という学校でしたが、小さいがために、「すべて担当者に任せる」というシステムは私にはとても合っていたと思います。自分の担当の業務は、職員会議で、「このようにしたい。」と提案すると通るのです。それが一定の大きさ以上の職場になると、伝統とか慣例とかがすぐ持ち出され、新しい企画はなかなか通らないのが学校です。
結婚、長女の誕生、バンコク日本人学校への派遣など人生の中での大きなことのあった時代でした。
バンコクの3年間の後、江差町立江差小学校という大きな学校での教職経験も大いに勉強になりました。
5 特殊教育学校への移籍(昭和57年4月)
学生時代に関心があって取った養護学校教諭の免許を生かしたいと思っていたところへ、昭和54年に障害のある生徒さんも必ずどこかの学校に籍を置く制度が始まりました。3年ほど上司の賛同を得られなく、移籍が出来ませんでした。当時は、教育界でも特殊教育への理解がそれほど進んでいない時代でした。
引き留めて下さったことにも感謝していますが、今でも移籍して良かったと思っています。普通教育15年の経験は、特殊教育に移っても生かされたと思います。