HS0JUA ユニセフチャリティ−ペディション(タイ)の思い出


  JA8ZOB(あけぼの会アマチュア無線クラブ)のところで紹介しましたように、江差町立江差小学校の旧6年2組の国際交流活動のなかで、クラブ局JA8ZOBを開局しました。このクラスでは、クラス会という小さな組織ではありますが、様々な国際交流活動をすすめていました。無線クラブの開局も、電波を通して国際交流をしようという目的がありました。すでに高校生になっていたあけぼの会のメンバ−のうち、無線でアクティブに活躍していた3人が中心になって、海外から電波を出し、ユニセフへの協力を求める企画ができあがりました。遠征先は私(原)の土地勘のあるバンコクと決まり、昔、私や家族がお世話になっていたHS1WRカムチャイ氏にこの企画をお知らせし、協力を求めました。幸い運用の許可の申請手続きとカムチャイ氏のシャックの使用について協力していただける事になりました。
 しかし、高校生のYLも参加する事から私の引率に加え、家内も連れて行くことにしました。これでもやや不安があり、しっかりしたもう一人の大人が参加してほしいと思いましたが、期間が15日間にも及ぶ長期になるためため、なかなか参加いただける方が見つかりませんでした。
 ところが、ある日、学生時代にお世話になっていたJA8OW谷本氏と7Mhzで10年ぶりにつながりました。近況などを話し、
「こんな計画でバンコク行きに参加していただけませんか」と声をかけたところ、
「いいですよ」と思いもしない返事が返って来たのには、本当に驚いてしまいました。2ヶ月以上も何人ものOMにお願いしても断られていました。以後、谷本さんを加えて、タイ遠征の計画を練ったのです。計画は、話し合うほどふくらみ、タイの学校体験入学、難民キャンプ訪問、チェンマイまでの旅行など盛りだくさんになってしまいました。
 この章では、JA8ZOBあけぼの会の発行した報告書「サワディ−」を基に写真を加え再構成しました。

1 新聞記者に追いかけられて函館出発
 

 1980年12月、タイアマチュア無線連盟会長、カムチャイ氏に今回のユニセフチャリティペデイション計画書を送付、ぜひタイ国内からアマチュア無線家に対するユニセフ活動への参加を呼びかけたいと手紙を出し、その回答を待っておりました。その後何度かの手紙と国際電話のやりとりの結果、タイ国内でのアマチュア無線の運用許可書が届いたのは、6月になっていました。
 1981年 8月5日、午前10時、函館空港に集合した私たちは、搭乗手続きもそこそこに、北海道新聞、朝日、読売の記者さん達に囲まれて、パチリパチリ写真を撮られるやら、インタビューを受けるで、見送りに来て下さった方々にゆっくり挨拶もできない有り様でした。これもユニセフの広報活動とありがたく応じました。午後2時、都内の宿に着き、機材と手荷物を置き、その足で、日本ユニセフ協会訪問、橋本専務理事(橋本龍太郎元首相、母堂様)はじめ、ユニセフのスタッフから激励を受けました。
夜7時、都内で食堂経営の知人よりもてなしを受け、早めに団員一同就寝。
  8月6日、港区の宿から、成田、午前11時15分発キャセイ航空CX501便に登場すべく、6時出発。重い機材と荷物を持って、タクシー、国電、スカイライナーと乗り継ぎ、無事、成田空港へ。出国カード記入のためしばし時間を要し、滑り込み出発5分前に動く歩道の上を小走りに機内へ。機内の人となり、これまでの準備期間の多忙をきわめた2ヶ月を思い出す。江差町、石橋教育長より、「事故の責任は、あけぼの会々長にあるんですよ。確認しておきます。」という言葉に、あけぼの会工藤嘉次会長は、「この種の事業は、一つの冒険です。万が一事故の発生したときは、責任をとります。」ときっぱり意思を表示してくれたのです。ユニセフの広報活動は、大きな任務ですが、より大きな任務は、3人の高校生を無事両親の手へ返すことです。工藤会長や高校生の両親達の顔が重なってきました。幸い登別高校の谷本健一先生(JA8OW)に自費参加していただきました。心強いことです。家内のJH8UXNは、帰国後に数千枚の交信書の発行と郵送作業を処理できるのか不安はつのってきます。私たちの不安と期待を乗せ、機は、香港そしてバンコック、ドムアン空港へと近付きます
  

機内風景 ドムアン空港着


  関係報道  1981/06/13  北海道新聞
          1981/08/03  北海道新聞
          1981/08/06  北海道新聞
          1981/08/06  読売新聞
          1981/08/06  朝日新聞
          


2 カムチャイ氏に迎えられて
 
タイ時刻の17時15分、機は予定より数分早めに着陸を始めました。ぼんやりとした不安から、最初の難関が迫っています。陸軍から電波発信の許可を得ても、無線機材の持ち込み許可は、それ以上に難しいのです。私たちの語学力では、税関を納得させることは、不可能でしょう。出発前に税関との交渉を依頼してあった、タイアマチュア無線連盟会長カムチャイ氏(タイ陸軍将軍)そして、輸入手続きに精通している在留邦人石井良一氏の迎えがあるか、入国手続きをしながらも、頭の中は、二人のことで一杯でした。税関カウンターに入ると、さっと手を挙げて笑顔の石井氏の姿がありました。胸には、顔写真付のIDかーどをつけ待ち受けていたのです。カムチャイ氏も迎えに来てくれ、無事通関。旧友の原田氏夫妻も、車で駆け付けてくれて、3台の車に分乗、バンコック市内のホテルへ。 車中カムチャイ氏に迎えのお礼と、ユニセフの広報活動のためのHS0JUAの運用について再確認。カムチャイ氏の「ノープロブレム」の連発で、このペディションの実現が確実になったわけです。

3 カムチャイ氏宅を訪問
 
 8月7日、午前10時、約束の時刻に、団員一同、カムチャイ氏の陸軍放送局を訪問、続いて、アマチュア無線局を設置してあるカムチャイ氏宅に案内される。バンコック市内から30Kmほど離れたトンブリ地区の氏の邸宅に案内され、その広い庭と素晴らしいアンテナ郡に一同驚く。 早速、日本とのコンディションをチェックしていただく。良好に日本国内が聞こえてきます。昼食を用意して有るとのことで、食堂へ案内される。数年前と変わらず美しい氏の奥様マユリさんと再会の挨拶を交わしました。タイに着いて、2日目に、本格的なタイ料理をごちそうになりました。初めての谷本先生3人の高校生の反応が心配でしたが、全員美味しいを連発、沢山いただきました。明日からのHS0JUAの運用打ち合わせをして、氏のお宅からホテルへ。
午後、少し疲れを見せた高校生を家内にまかせ、谷本先生と、タイ国日本人会を訪問、2年ぶりに荒井事務局長、事務局の山際さん、川満さんにお会いしました。すでに青年部長日高富士夫氏のはからいで、青少年サークルとの交流が決まっているとのこと。その足で、日本人会の日本ボランティアセンター事務局を訪問、難民キャンプの視察を再度お願いする。手紙をいただいていた星野事務局長さんは、帰国されているとのことで、ボランティアの竹内さんが相手をしてくれました。パナニコムへの道路案内、キャンプ訪問の日時を約束して、ホテルへ戻り、シャワーを浴びる。谷本先生も少々お疲れのようです。
  バンコック日本人学校の鎌倉ヒルダ先生のご招待で、夕食に中華料理をごちそうになる。日本人学校の鎌倉先生、能登先生には、3人の高校生のために、タイの高校へ体験入学を せていただくようお願いしてありました。その打ち合わせを兼ね、おいしい中華料理をごち     そうになることになりました。昼食のタイ料理、そして、夕食の中華料理と私たちのお腹はごちそうぜめとなりました。タイの高校は、日本人学校のコスムマネージャーの紹介で、タイ教育大学付属高校に決定しているとのこと、3人の高校生にとっては、素晴らしい経験になることでしょう。ところが3人の高校生諸君、1人づつ別々のクラスに入れられると聞いて、少々たじろいだ様子に私たちも、ちょっと心配になりました。鎌倉先生にごちそうのお礼をのべ、ホテルに入りましたが、いよいよ明日にせまったHS0JUA運用に少々興奮気味の一夜でした。

4 ついにHS0JUAの電波が出る
 
 8月8日(土) いよいよHS0JUAの運用第一日目、家内は、5時前より、昨日市場で果物、ミルク、パンなどを部屋のサイドテーブルにならべ朝食の用意、これは節約のためですが、市場のおばさんと親しくなったとのことで、ドリアンはじめ何種類かの果物を食べることが出来ました。 6時全員起床、朝食をとる。HS0JUAで誰が第一声を出すか、じゃんけん。ラッキーボーイは、JH8RYC高橋君と決定。 7時、ホテルのタクシーでカムチャイ氏のお宅へ向かう。M社の乗用車に全員をつめこむ。快調にまだ通勤ラッシュ前のバンコックを走り抜けます・・・・・・。ホテルを出発して、15分もしたころでしょうか、何とM車は音もなくストップ。運転手さんがキャブレター回りをいじりますが、「別の車を呼ぶからちょっと待て。」 8時30分、カムチャイ氏宅到着。お茶をいただくのも早々に早速、HS0JUAの運用。JH8RYC、高橋君が第一声を出す。
「CQ CQ CQ This is HS0JUA Hotel Sierra Zero Japan UNICEF Association 」タイ時間8時58分、予定の周波数 21.333MHzでCQを出すと、早速なつかしい北海道JA8AJP足立さんより応答がありました。まあまあのコンディションの中、日本の局を中心に快調なペースで交信局数を増やしていきます。JA8OW谷本先生も、日本から持ち込んだ機材をセット、電信で交信を開始。12時を過ぎたころ、パイルアップのさばき方も慣れをみせ、各オペレーターも好調な交信を続けています。そこへカムチャイ氏と奥さんが、昼食の案内。電鍵を叩いていた谷本先生も強引(?)に食堂に引っ張られてしまいました。食堂には、昨日とメニューは違うのですが、沢山のタイ料理、大人には、ワインやビールまで出しての歓迎に、ハムの親切に感激したものでした。同じように夕食もたらふくいただき、第一日目の目標、1千局に達した午後9時50分、カムチャイ氏のお宅を失礼することにしました。異国での慣れない環境の中で、連続しての交信は、予想以上にオペレーターの疲労を伴っていました。11時ホテル着、全員シャワーを浴びる気力もなくベッドにはいってしまいました。
 

HS1WR局のアンテナ群 HS0JUAを運用の小路君 中央がHS1WRカムチャイ氏

5 運用第2日目
 
 8月9日、朝7時、ホテルのタクシーで、再びカムチャイ氏のお宅へ。8時5分から運用札幌JH8OAS、伊達JA8FI、た、北海道各局の応答がありました。江差のJA8UG、JH8AZU、JH8WCB、JH8SOX、JH8NEJ局などなつかしい声が帰ってきます。日本の各局も、「ご苦労様」と声を掛けて下さり、昨日の疲れもとび、全員元気にオペレートしどんどん交信数を増やしていきました。午後よりカムチャイさん宅に、3人の来客があり一緒に昼食をいただきました。グンさん夫妻と高校生の息子さんで、グンさんは、なんと郵政省の次官で、今ハムの勉強をしているとのことでした。HS0JUAの運用は、高校生の3人にまかせて、谷本先生と私は、グンさんと、ハムの話、そして、グンさんが日本を訪問したときのことなどをうかがいました。
 夕方から、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカと遠くの局が聞こえだし、交信できるようになってきました。疲れが出始めたのか、高校生のオペレーターは、郵政次官グン氏やカムチャイ将軍を前にソファーで、スヤスヤ。カムチャイ氏夫人が、そっと毛布をかけて下さるなどの心配りに、ハム仲間のありがたさをしみじみと感じました。午後9時57分HS0JUAの運用を中止し、次の運用日、一週間後の再訪を約束、カムチャイ氏一家に別れを告げました。11時ホテル着。明日からのスケジュールに目を通しました。私たちのタイでの目的はもう一つ、高校生の研修活動があるからです。
 
6 ユニセフ事務所訪問
 
 10日、7時起床。タイについて以来ホテルは勿論、戸外でも、それほど暑くなく、出発準備中の北海道の方がつらかったほどです。あの熱帯の輝く太陽はほとんど見ることが出来ない毎日でした。「タイへ来たんだ」と感じるのは、ホテルの窓下の大きな椰子の木を望む時でしょう。日本ユニセフ協会から、テレックスで、私たちのタイ訪問を知らせていただいていましたので、約束の10時までにユニセフバンコック事務所を訪問、待ち受けていたMr,Danoisさんにお会いすることが出来ました。難民関係の情報をという私たちに、VTRを見せてくれましたが、何と日本語の解説付きのものでした。私たちが世界のハムに、ユニセフへの参加を呼びかけるという今回の活動に、フランス人の彼は、「グッドアイディア」と一言、記念に交信カードを一枚置いてきました。
 午後、メナム川を渡し船、乗船切符1人5円求めて、対岸のエメラルド寺院へ。さらに王宮へ。残念ながら、王宮前で、高校生の平田さんの半ズボンが行けないとのことで入場できず、同じ半ズボンの谷本先生がOK、女性の半ズボンが行けなくて、男性のそれは良いというのです。あきらめて、となりのエメラルド寺院へ。何とこちらは、定休日とのこと。さらにとなりのワットボーへ。やっと寝仏を拝むことができました。ロスの多いのが素人ガイドの悲しさ。3年も生活していたバンコックも知らないことが沢山ありました。帰路、タイ大丸デパートでアイスクリームをいただきホテルへ。夜7時から、となりのホテルで、タイダンスを鑑賞。9時ホテル着、各自、知人や両親へ手紙を出していました。異国に来た感傷ムードになったのでしょう。
 
7 1日体験入学 − 最高の一日
 
 11日、日本人学校の能登先生にホテルのロビーまでお迎えに来ていただく。教育大学付属の中高等学校は、ホテルから来るまで15分ほどの所にあり、すでに、朝会が始まっていました。ブラキット校長先生と挨拶を交わし、高橋君、小路君、平田さんの3人の高校生に2〜3人ずつのガイドの生徒さんがついてくれ、各学級へ散らばって行きました。3人の高校生は、覚悟を決めたのか、元気について行きます。私たちは、案内の生徒さんと能登先生と一緒に彼らの後をそっと追いかけ、フィルムに収めてみました。タイの制服と同じ、紺のスカートに白いブラウスの平田さんは、みんなの中に入ってしまうと判別が難しいほどです。高橋君は、早速黒板の前に出されて、自己紹介をしているようです。漢字で自分の名前を書き、英語で意味を説明しています。大人しい小路君も、結構、ガイドの少年達と話をしています。数学、英語、家庭科と、次々に案内される彼らに、言葉も不自由な中で、疲れているだろうと想像していたのですが、「楽しくて、楽しくて」と顔をほころばす彼らに、私たちは、ホッとしたものです。 校長先生のお話では、初めての日本人の体験入学と喜んでいただきました。訪問の記念にと江差から持参した「追分人形」を同校に、プレゼントして参りました。午後4時、8時間目を終えた彼らは、疲れもみせずに、元気に下校することができました。 「一番の印象は」という私の質問に、「将来何になりたいか、はっきり決めていること」と高橋君。時間があったら、もう一度、行ってみたいと言うほど楽しい一日であったようです。今回の旅行のハイライトになりました。
 能登先生には、早朝より夕方まで、一日中迷惑をかけてしまいました。能登先生のタイ語の通訳をいただけなかったら、一日のタイの学校での経験も、多くの情報を得ることもできなかったでしょう。夜、ホテル向かいのコーリアハウスで食事。キムチと焼き肉をいただく。明日は、タナニコムの難民キャンプを視察。全員早めに就寝。

タイ教育大学付属高校朝の風景 エ! 日本人は?  右端が平田さん
小路君は数学の受講 高橋君は音楽を受講

8 難民キャンプ視察 
 
 12日、6時起床、8時市場のおばさんの果物で朝食。バナニコムはバンコックから150キロメートルほどの農村地帯、ここには、第三国へ出国を希望する難民キャンプがあります。難民キャンプ内を視察できるかの判断は、現地JVC(ジャパンボランティアセンター)の判断で決まります。できることならキャンプ内の人々の生活を直接見る機会を得たいと念じておりました。9時、ホテルのかなりくたびれたフォルクスワーゲンのワゴン車をチャーター、パタヤビーチを経由して、チョンブリ、パナニコムへと向かいます。かなり早い時間にパナニコムの町に着いたのですが、JVCバンコック事務所で教えていただいた現地JVCボランティアホームが見つかりません。
 「日本人はいないか」という私たちの質問に、やっとJVCボランティアホームを発見、ホームの責任者、金子一弘さんにお会いすることができました。すでに約束の時間を2時間近くもおくれた午後2時になっていました。ボランティアホームは、日本の建て売り住宅のような一般住宅の一戸に現地事務所兼宿泊設備にしていました。
 難民キャンプの視察許可はタイ内務省から得ることは難しいとのことで、JVCの車でボランティアの皆さんと同行させていただくことになりました。JVCの皆さんの努力によって、JVCは、高い信頼を得ているため、トラブルはないだろうとの金子さんの判断です。こうして、JVCのワゴン車で、ボランティアホームから20Kmほど離れた難民キャンプへ向かいました。辺りは、日本の農村風景と良くにた稲作地帯、所々にヤシの木、そして草をはむ水牛などが、南国を思わせています。道路の左右に柵をまわしたキャンプが見えてきました。ゲートを通過、キャンプへ入ります。 このキャンプに3万人の難民が、一部は、すでに第三国への出国が決まり、出発を待っている人々、そして、時期を待って本国へ帰国する人々とに分かれて生活しているそうです。
 まず、プレハブ造りのJVCオフィスへ、何人かの日本人ボランティアが作業しています周囲にも、同じ様なプレハブ住宅が並び、子供達が遊んでいます。このパナニコムのキャンプは、国境からも遠く、生活する人々には、心のゆとりができているように見えます。JVCのサービスしている図書館、そして、もうすぐ開校を予定している「日本語教室」を見ることができました。すでに日本語教室には、女性の平賀増美先生が着任され、カンボジア語を中心とするテキストの準備をされていました。
 このようにタイ国内には、50人もの日本人の若者がボランティアとして活動されているとのことで何もお手伝いできない私たちですが、うれしく帰路につくことができました。途中まで、私たちの車に同乗された金子一弘さん(26歳)にその労をねぎらいながら別れをつげました。 このようなボランティアの皆さんのご苦労に報いるような日本社会であることを願っておりますが、難しい現実なのでしょう。

パナニコム難民キャンプ キャンプ内の図書館 キャンプ内事務所

 
9 日本人会青少年サークルと交流
 
 13日、水上マーケット、見学予定のため、5時に起きてみましたが、かなり強い雨、残念ながら中止としました。10時から、日本人会青少年サークルと交流のため、サートンロードの日本人会へ出かけました。日本人会青少年サークルは、昭和48年8月、在留邦人子女の社会教育団体として、インターナショナルスクールの日本人高校生、在留日本人青年の石井良一氏、原田譲二氏、そして私たち、日本人学校の教員が中心になって発足させたのでした。スポーツや、文化サークルの活動を通して、タイ青少年との交流の場にしようと考えたわけです。当時100人ほどであった会員も、その後、中心になって下さいました、日高富士夫氏のお力で何と500人もの大きな会に発展しているとのことでした。交流会には、12人の中学生、日本人学校の木下先生、辻先生、日本人会から事務局の山際さん、日高富士夫青少年部長がご出席下さいました。
 青少年サークルのこと、そして私たちのハムの話をして、その後、日本人会食堂特製の和食弁当をごちそうになりました。会を発足させることは、それほどに難しいことではありませんが、会をさらに大きく発展させて、10年近くも、お世話を続けられてきた日高氏の情熱に頭の下がる思いでした。午後、市内見学、エメラルド寺院、ワットサーケを見学。夜、私が日本人学校勤務時代のご父兄でありました林五十鈴氏ご一家のご招待で、デラックスな中華料理をいただきました。 氏の長男弘君は、日本人学校卒業後、日本の親戚より高校に通学中、喘息の発作で他界してしまったのです。遠く海外に勤務する父母に思いを馳せつつ息を引き取ったことでしょう。亡くなった当時の弘君と同じ年頃の高橋君、小路君、平田さんに期待してのもてなしだったのでしょう。

10 オリエンタルクィーン号の旅
 
 14日、朝7時、メナム河サイドのオリエンタルホテル発、アユタヤ行きのオリエンタルクィーン号に乗船、オ号は、観光用の冷房付のデラックスな船です。2日前からお腹の調子の良くない平田さんが心配でしたが「大丈夫」という本人の言葉に、今日一日、アユタヤツアーに参加することにしたのです。オ号の旅は快適で、、岸辺のヤシの木や、ニッパハウスを眺めながら、のんびりとした旅になりました。谷本先生は、甲板でお昼寝をきめこんでいます。南国の日差しは、時間と共に強まり、2時間ほどの昼寝で谷本先生の顔は、日焼けで真っ赤になっていました。午後1時、アユタヤ着、バンパイン宮殿、アユタヤ王朝遺跡を見学。当時は、目を見張るばかりの王宮であったろうこのレンガの遺跡に、一同それぞれに昔をしのんでおりました。日本人、山田長政が活躍したと言われるこの地に、なつかしささえ感じました。
 

高橋君 高校生メンバ− オリエンタルクイ−ン号

11 タイ式すきやきをごちそうになる
 
 夜、青少年サークルの発起人の1人、原田譲二氏ご一家の招待で、タイ式すきやきをごちそうになりました。中国料理店の一室、大きなお鍋にスープをたっぷりたぎらせ、肉、野菜をさっとゆで上げ、金魚すくい(?)のような金網ですくっていただきます。簡単な料理ですが、おいしくて、みんなぱくぱく、追加注文をさせてしまいました。最後の仕上げは、スープにご飯を加え、雑炊仕立て。あんまり上手な原田氏のお手並みに氏の奥さんより、
「会社の接待部長ですの」との紹介が入りました。原田氏も、受けて、
「僕の雑炊の接待で、会社はもっているんですよ」とやりかえします。
 タイに来てすでに10日、カムチャイ氏、鎌倉先生、能登先生、コスム先生、石井氏、そして、切符やホテルを手配してくれた坪井氏、西尾氏、多くの方々のお世話になりました。皆さんの援助で、何とかこの旅行も計画通りすすみそうです。ありがとうございました。
 
12 再びHS0JUA運用
 
 15日(土) 再びHS0JUAを運用すべく、カムチャイ氏宅を訪問、氏のお宅の玄関のドアを開けてビックリ、すでに、カムチャイ氏の無線室から、交信の声が飛び交っている ではありませんか。カムチャイ氏が、大きな体を小さくして、
「申し訳ないハラ、14日、15日は、タイの無線クラブが、無線の競技会へ参加するため、無線機を使うのを忘れていたんだ」
「えっ・・・・・・・・。」
 平田さんが、体調不良のため、谷本先生、家内、高校生をホテルに置いて、1人で来た私は、このハプニングにあわてて、ホテルに電話を掛けました。
「谷本先生、大変だ。今日も明日も、電波が出せそうにもないんだ。」私のうわずった声に  
「直ぐに行く」と谷本先生。
 その間、1KWの3mそばで、もう一局が電波を出せるわけがないと思いながらも、「ひょっとして」と思い直し、日本からかついできた機材をセットしてみました。なんと聞こえるではありませんか。ガリガリというタイの無線クラブの妨害電波の中から、何と日本の電波が聞こえています。妨害に強い電信を使って、1時間に20局ほどのスローペースで、交信を続けます。2時間ほどして、谷本先生も応援に駆け付けてくれました。ベテランの谷本先生のオペレートで少しずつ交信数は増えて行きますが、先週までの1日千局には及びません。それでも、およそ500局と交信成功、不眠で交信を続けるというタイの無線クラブの皆さんに22時に別れを告げました。
 
13 最後の運用日
 
 16日(日)、HS0JUA最後の運用日となりました。幸い平田さんの体調も良くなり全員で、カムチャイ氏のお宅へ、最後の運用に出かけました。変わらず、タイの無線クラブHS0HSは競技会に参加、オペレートを続けています。私たちは、昨日と同様、タイのクラブ局の合間をぬって、やはり500局ほどと交信、21時14分東京のJH1OJU局を最後にユニセフチャリティペディションを終了しました。
 4日間お世話になったカムチャイ氏夫人に、江差追分人形をプレゼント、また使用した機材は、タイアマチュア無線連盟(RAST)の発展を願って寄贈して参りました。タイのアマチュア無線は、現在のところ、一般には、解放されておらず、試験制度もできていませんが、近々解放されるとのことでした。タイにおいても、多くの方々がアマチュア無線を楽しんでいただく日も近そうです。カムチャイ氏は、3人の高校生に、
「またタイに来て下さいよ」と何度も、おっしゃって下さいました。もしハムという趣味を持っていなかったら、こんなに親しくタイの方々と交流することは、できなかったことでしょう。再会を約束して、カムチャイ氏の家族の皆さんとお別れしました。
  夜11時、日本ユニセフ協会、加藤陽一氏がビルマ訪問の途中、私たちのホテルに寄って下さる。1時間ほど私たちの活動の様子を聞かれて帰られました。
 
14 古都チェンマイへ
 
 17日、5時30分起床、8時30分発の飛行機で、バンコックから750Km北にある古都チェンマイへ出かける予定。ドムアン空港へは、予定より早く6時40分に着いてしまいました。一応搭乗手続きをすませ、のんびりと朝食がわりのコーヒーをいただいていて、搭乗券に目をやると、出発時刻、7時となっています。私の語学力不足のためか、航空会社のサービス過剰か、一便早い便に変更してくれたのです。時計は、すでに、6時57分、出発3分前ではありませんか。一同大いにあわてて、出発カウンターへ。 ライトバンに押し込められて飛行機へ。 ・・・・・
 タイ人の美人スチュワーデスさん、プンプンに怒って居るではありませんか。私も下手なタイ語で、
「予約したのは、次の便ですよ。勝手に変えないで下さい。」と抗議。すぐに機は、上空へ。1時間ほどでタイの京都と言われる美しい街チェンマイ着。北の都チェンマイの空気は青く澄んで、美味しくさえ感じます。日本人学校、能登先生の予約して下さった。チェンマイレィルウェイホテルのワゴン車が迎えに来てくれています。 10時ホテル着。ホテルのワゴンをチャーターしてドイステープへ。ホテルの運転手さんは、私たちのメオ族行きの計画を聞いて、今の時期は、道路が悪く、大変だとのことです。メオ族の村行きの小型トラックをチャーター、山道を登って行きます。
 まさしく道路は、雨のために深い轍(わだち)で、車は波のように揺れます。ボディーを何度となくこすり、あえぎながら車は登ります。やっとの思いで、メオ族の村に到着、10年ほど前は静かで、のんびりと豚や鶏が散歩をしていた村は、銀細工や民芸品を売るお土産店が軒を並べているではありませんか。子供達だけが昔のまま、ゴムとびをしている姿になつかしさを覚えました。
 ドイステープは、山の上の金色に輝くお寺です。お守りの小さな仏様をみんなで求め、旅の安全を祈りました。高橋君、小路君は、進学が希望通り叶いますよう、タイのお坊さんに祈祷していただきました。夜、少数民族のダンスを見学、チェンマイの夜を楽しみました。
 18日、チェンマイの朝は、北海道の牧場のそれに似ています。山々にかかる薄霧、野鳥のさえずり、心良く引き締まった空気・・・・・「こんな街でのんびりしたいなあ」というのが全員の声。17日間という長い旅行ですが、盛り沢山のスケジュールに、団員に少々疲れが出てきたのでしょう。 今日の見学先を、木彫工場、銀細工工場のみとする事にしました。
 午後は、土産品をさがすことにしたのですが、ホテルの運転手さんの案内であちらこちらを回るのですが、少ない私たちの予算には合いません。さすがの運転手さんも、弱って、「ではターラー(市場)にでも行ってみましょうか」ということで、チェンマイの市場へ。ありました。同じ様な木彫も、土産店の数分の一の価格です。このホテルの運転手さんはとても上手な英語を話す、タウィーさん。国鉄を退職されて時々アルバイトをされているとのことでした。
 タウィーさんが「ハラは以前、日本人の子供を沢山連れて、このホテルに来ませんでしたか」との質問。そうです、もう9年も前に日本人学校の6年生、50人を連れて泊まったことがありました。そのころ、このホテルのフロントの仕事をしていたとのことでした。当時、日本人の子供が50人も泊まったのは、珍しかったので、タウィーさんの記憶に残ったのでしょう。
 バンコック行きの汽車を待つ間に、サムロウーに乗って市内を散策することにしました。サムロウーは、自転車の後輪を二輪にして、ホロを付けた庶民の足です。1時間ほど市内を回ってもらい、楽しかったチェンマイの思い出の1つに加えました。

ドイステ−プにて記念撮影   タイ料理をいただくJA8OW谷本氏 銀細工の工場


15 夜汽車の旅
 
 チェンマイを夕方5時に出発するブルートレインは日本製の寝台車です。10年ほど前に乗った時は、木を燃料とするD51でした。でも今は、ディーゼルに変わっています。バンコック着は翌日の朝6時になります。800Kmを走るこの汽車の運賃は、寝台券を含んで
3.370円の安さです。7時を過ぎたころ、南国の空に星が輝きだしました。辺りに電灯の光はほとんど見あたりません。時々遥か遠くの闇に、ほんのりと、明かりがもれているのは、ランプの光でしょうか。夜食に食堂車から運んでくれる一皿100円の焼きめしをいただきました。辺りの農家の居間でも、まぶしいランプの光の下で、家族が夕食をいただいていることでしょう。
 闇は、家族が語らい、笑い、励まし合い、互いの心と心を結びつけているのです。電気、テレビ、自動車、etcの文化は、人の心と心の触れあいをどんどん奪っているのです。心の開発途上国、それが今の日本なのです。
 19日、バンコック駅に朝6時着、ホテルへ。明日は、いよいよ帰国。長くて短かったこの旅も最後の日になりました。それぞれの思いを込めてお土産を買いに出かけました。夜、お世話になった石井氏、原田氏ご一家と夕食、本当に有り難うございました。青少年サークル設立時の1年半ほど、会場探しや、朝6時からの指導、バス旅行の引率に情熱を注いで来られた両氏も、今は頼もしいパパになっておられます。お二人のタイでのご活躍とご
健康を祈ります。

夜汽車は  ビ−ルです(JA8ATG)  7UPです(JA8OW)


 
16 香港そして江差へ
 
 20日、ドムアン空港11時5分発、キャセイ航空CX712便に予定通り搭乗、15日間のバンコックにお別れしました。多くの方々の援助により、3,000局の交信と、研修活動を無事終えることができました。
 成田空港、21時15分着、通関そして、手荷物を羽田まで配達の手続きを完了、港区の宿に着いたのは、零時を回っていました。
 21日、午前10時、徒歩5分の日本ユニセフ協会へ帰国の挨拶に出かけました。橋本専務理事さんはじめ、スタッフの皆様より労をねぎらうお言葉をいただき、15日間のタイでの活動を報告いたしました。午後2時、羽田発、全日空863便で函館空港へ。長かったようで又、とても短かった17日間、無事北海道へ帰ってくることができました。この間3人の高校生に大きなトラブルもなく、元気な姿でご両親達へお返しできそうです。午後3時15分、機は予定通り函館空港へ着陸しました。荷物を受け取りながら待合い室を見ますと、すでに高校生のご両親達が迎えに来られています。異国での長旅、どんなにか心配されたことでしょう。多くの費用を負担していただきましたこと、そして、多くの冒険的な要素があった今回のペディションに参加を許して下さいましたご両親達にお礼を申し上げます。
 3人の高校生が、今回のペディションを通して交流した人々、経験が、今後の人生の中に大きく役だってくれることを期待します。函館ローカルのJH8TPI、垣口氏ご夫妻もわざわざ空港までお迎えいただきました。ありがとうございました。自費参加で参加いただきました谷本先生には大変お世話になりました。ハムのベテランも有るということに加えて、高校の先生のベテランである谷本先生には、3人の高校生の良き相談役として、お世話いただきました。
 5時、江差着。自宅の玄関のドアを開けてビックリ、どっと手紙の山が崩れてきました。私たちの帰国前にすでに全国各地のハムの皆様からHS0JUAの交信証を届けて下さったのです。
 HS0JUAの運用までには、多くの方々のご協力をいただきました。皆様のご支援により、無事ユニセフチャリティペディションを終了いたしました

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