昭和46年12月の末の事です。すでに冬休みで太田小中学校に生徒さんの姿はなく、野口校長先生と私は職員室でのんびり後かたづけをしていました。午前中にグランドに設備
したスケ−トリンクの木枠作りで少々疲れた午後でした。郵便配達さんがやってきて何通かの郵便物が届きました。野口校長先生が開封しては整理をしていましたが、
「原さん、海外日本人学校の募集がきているぞ」と一通の公文書を私の机の上に置きました。公文書は、どこの学校でも届きしだい職員に回覧されます。
「日本人学校ですか?」
「校長先生、こんなのあるんですか?」と初めて海外派遣を知った私は野口校長先生に尋ました。野口校長先生は、
「第一回と書いてあるだろう。はじめてさ。」と新聞に目を通しながら答えて下さいました。私が熱心に募集要項に目を落としているのをみて、野口校長先生は、いつもの新しもの好きの私の様子を観察していました。
「奥さん妊娠しているんだろ?」
「そうですね。無理ですよね。」こんな会話のあった夜のことです。私は、妻のお腹をみながら、
「海外日本人学校の募集が来ているんだが−−−−」
「行きたいの? 応募すれば。」妻の言葉です。きっと落ちるに決まっているという妻の軽い気持ちだったのでしょう。
12月29日、教育委員会はもう休みに入ったはずですが、妻の気の変わらぬうちに応募用紙を提出することにしました。勿論学校も休みですが、野口校長先生が公文書の鏡を
作り校長印を押し、推薦書も実体以上にほめちぎって作って下さいました。普通の校長先生なら、
「何をばかな事を考えてるんだ!」と一喝されるところです。
それが1月の末に突然北海道教育委員会から文書が入り、2月○日、札幌で面接試験と書いてあるではありませんか。1972年2月○日、冬季オリンピックが開かれている札幌のアイスアリ−ナの前を車で走りながら、まさか私が選考されると思いも寄りませんでした。
そして合格通知が舞い込んだのです。派遣先「バンコク日本人学校」とあります。地理に疎い私には「バンコク」が東南アジアにあることは分かっても、どこにあるのか正確な位置は分から
ず、生徒さんの地図帳を借りて位置を確かめる有様でした。後で担当者の方に聞いたところでは北海道で300人の応募があったとの事でなぜ私が合格したのは全く分かりません。
しいて理由を探せば、JA8YIMの活動で、新聞に何回か載っていた事でしょうか。以後教頭試験に受かった時も、校長試験に受かった時も、同僚から無線で教頭になった、校長になったと
笑われております。私もまったくそのとおりだと一緒に笑っています。hi
2月中旬に海外派遣が決まり、考えることは早速アマチュア無線がバンコクで出来るかという事でした。妻の出産とか、もっと大事なことがいっぱいあるというのに困ったものです。
月給の5倍もするFT−101Eの注文、モズレ−TA33の注文、それにバンコク日本人学校の中学部技術の指導と言うことで、木工、金工、電気の工具一式を注文しました。背広も1枚も
持っていなかったので、2枚オ−ダ−出発の準備を進めました。3月中に一度、横浜と東京の外務省に集められ、研修会がありましたが2泊3日の簡単なものでした。それでも外務省のホ
−ルで壮行会が行われ、福田外務大臣から辞令を渡されたときは、これは困った事になってしまったと思いました。3年も日本を離れるなんて事になってしまったのです。
当時の日本人学校
関係報道記事 1972/03/04 北海道新聞
1972/04/01 北海道新聞
昭和47年度予算も通過して、私たち日本人学校派遣教員もそれぞれの国に派遣されることになりました。バンコクにその年派遣されたのは6人で、到着の数日はホテル住まいでした。事前
に用意されていたアパートや貸家を学校のバスで一軒ずつみて回りました。それぞれ短所長所がありましたが、私は学校に近く、屋上の幅が目測で80mほどあるアパートに決めました。80m
ほどの長さのある所をねらったのは、勿論160mのダイポールが上げられるようだったからです。屋上のエレベータ−塔も大変気に入っていました。
学校が始まって数日後、暑い中を日本大使館をたずねました。大使館には、でっかいログぺりがあがっています。領事さんのところに行って、
「タイではアマチュア無線が許可されているでしょうか?」と尋ねると、
「分かりませんので通信官に聞いてみましょう。」とテレタイプのピロピロ聞こえる2回の通信室に案内されました。通信官は親切にタイの電波法を解説してくれて、
「今アマチュア無線は停止させられているのです。出来ません。」とのことでした。
「ですが、日本人学校の西野会長さんが、アマチュア無線をやっていると言う話しなので、直接聞いてみて下さい。」とのことです。
希望は、ほんの少し見えてきましたが、いったいどうなっているのでしょう。不安はよぎりました。後日わかったのですが、私は電信官の宮本さんのお子さんの担任だったのでした。
ともかくおそるおそるPTA役員名簿から西野さんのお宅に電話をかけてみました。
「やあ、そうですか。日本人学校の先生ですか。RAST、タイ無線連盟に入れば電波を出せますよ。入会申込書をお届けしましょう。」なんとも簡単に電波がだせそうな気配です。西野さんは
、タイの大学の客員教授で建築工学を教えられているそうで、日本のコールはJA1BARとの事でした。その後は、ホームパティーに家族で招待いただくなど、ハムならではの交流をさせて
いただきました。
めでたく、6月には妻と共にRASTの会員にさせていただき、私がHS1AHM、妻がHS1AHNのコールサインをいただきました。タイは不思議な国で、法律ではアマチュア無線が禁止さ
れているのに、RASTの自主運営に任されていたのです。公安ストなどもあり、4月に日本から出したアンテナとリグは港まで到着しているのに受け取れません。受け取れたのは7月になっていました。それも通信機は輸入禁止で、通関に大きな経費がかかってしまいました。
それでも7月末ついにバンコクで電波を出すことが出来たのは本当に幸運でした。
HS1AHM(恒夫) HA1AHN(典子)
タイで生まれた次女
関係報道記事 1972/08/ 北海道新聞
昭和30年代に日本の産業が復興しはじめ、少しずつ海外進出しはじめました。はじめは、在タイ日本人学校の1室に教員資格のある在留日本人の奥さんなどが邦人の子ども達のために国語や算数を教えたのが始まりでした。その後在留邦人も飛躍的に増え、文部省は国内の教育大学に依頼、各国にできはじめた日本人学校に教員を派遣するようになりました。ちなみにバンコク日本人学校は、東京学芸大学が教員派遣を担当していました。しかし、昭和40年後半になり、各大学も多数の教員を派遣できない状況になったのです。そこで外務省は、文部省に依頼し、世界の日本人学校に国内の都道府県教育委員会に依頼し、全国の小中学校の教員を派遣する事になりました。第一回の募集が私の目に留まり、応募したのです。それまでは、各大学から派遣された教員は、手当なども悪く大変ご苦労をされたとの事ですが、この昭和47年度から、国費で日本人学校の教員派遣が実現しました。第1回の派遣は、約200人で、毎年その人数は増えています。
現地の日本人学校のステイタスはいろいろで、正規にその国から学校として認められている場合や、まったく非公認であったりまちまちです。丁度日本にある韓国人学校や朝鮮人学校などの外国人学校の取り扱いにばらつきがあるのと同じです。ちなみに当時のバンコク日本人学校は、大使館に付属したタイ政府から非公式なものでありました。すでに、生徒数が幼稚部と小中学部とを合わせて800人も生徒がいましたが、なるべく目立たないようにしていることが要求されていました。しかし、800人の生徒が毎日通学するのですから、「目立たぬ」と言ってもかなり無理がありました。ですから日本人学校問題は、タイ政府の政治の取引によく使われました。つまりタイ政府の日本政策として、何回もタイ政府は日本人学校を閉鎖してもらうと発言しています。これに対して日本政府は、1973年田中首相の訪タイの際に政治決着をつけたのです。つまり日本人学校をタイの正式の私立学校として認められたのです。田中首相がタイを訪問した際、大規模な反日デモが繰り広げられました。このデモは、実はタイ政府が陰で支援していたとの情報がながれていました。そして、田中首相がタイを訪問した際の取引材料としたとの事ですが本当でしょうか。
さて、私の主な任務は、私の専門教科である中学部技術課の充実を図る事でした。日本人学校にとって周辺教科である技術課の整備をなぜ急いだのか、私にはわかりません。しかし、「技術室の整備」が私が選ばれた理由のようでした。
日本人学校について、技術室に案内されてたまげたのが、確かに部屋はあるのですが、中はガランとして、教材教具がなにもないのです。有ったのは日本式の鉋一丁のみでした。クーラーもなく室温は40度の暑さです。
さて、数日後からこの設備で技術の授業をしろというのですから無理な話です。それでもやむなく授業は、道具をほとんど使わない製図から始めました。生徒さんは、大使館職員や進出企業の駐在員、報道関係方の子弟で、素晴らしく出来る生徒さんばかりで、授業にはすぐのって来ます。早速教材整備の話しを事務長さんに申し入れをしました。面白いことにこの日本人学校は、授業料を毎月約1万円徴収しています。1万円×800人×12ヶ月=約1億円 が年間収入で、この中から現地採用の教職員の給与、校舎の営繕費、教材教具、光熱費等の経費を払っているのです。事務長さんはよく私の話を聞いてくれ、年間10万バ−ツ 約150万円ほどの教材教具の購入を認めてくれました。他に技術室や技術準備室の冷房設備なども年次計画で進めていただけることになりました。すぐにクーラーがつき、快適な授業が出来るようになりました。
ある日の朝、技術室のドアの鍵をはずし、ドアを開けてビックリしました。部屋中真っ白い煙が充満しているではありませんか。なんと前の日、私がクーラーを切り忘れ、夜中じゅう冷房が強力に効いたため室温が3度まで下がっていたのです。そのため、部屋の空気に含まれていた水分が白く煙のように変わっていたのでした。
教材の買い出しは、私自身が放課後に出かけました。最初は公務補さんにお願いして買ってきてもらっていたのですが、どうも気に入ったものが手に入らないのです。電気製品、工作機械などは、中国人街のバンモウーロードというところです。タイの秋葉原というところでしょうか。時たま技術の時間にスクールバスに生徒さんを乗せ、出かけることもありました。バンモーロードは、無線のパーツ等何度も買い出しに出かけたものでした。
技術室は、学校の予算の他に、海外子女教育財団からの補助があり、私の任期の3年のうちに国内の中学校に準じた教材教具が充実するまでになりました。
アマチュア無線で鍛えた(?)電気の知識は、日本人学校の中でも多いに役立ちました。例えば校内にはたくさんの日本から購入した教材教具がありましたが、電気で動く物は殆どが壊れていました。例えばOHPやスライドプロッジェクター等です。理由は簡単で日本から送ってもらっているので、電圧が100V仕様です。タイは220Vですから、ついうっかりそのままプラグを差し込み、あっという間に煙が出て壊れてしまうのです。そのような故障品が校内のあちこちにころがっていました。私は、これらの故障品を技術室に持ち込んで修理し、事故再発防止のためほとんどの器機の中にトランスを内蔵して220V用に改造しました。ハイテクではなく、ローテクなのですが、これで校内の教具の故障は全くなくなり先生方に喜ばれました。SONYのVTRの新品が放送室に有りましたが、サイクルが合わず画面が出ませんでしたので、周波数変更の改造をしました。これには1週間ほどかかってしまいました。そんなわけで、本当は私の仕事ではなかった、校内放送の係りが私に当然のように回ってきました。これもありがたく仕事に加え、放送委員会の生徒さんと校内放送の番組づくりに励みました。校内放送作りも太田小中学校で手がけていましたので何とかこなす事が出来ました。曜日毎に担当の生徒さんを決め、番組内容も考えてもらいました。中でも放送部員に(聞いている教室の生徒さんではありません)人気があったのが、日系企業訪問、家庭訪問です。企業訪問は、例えば「タイ味の素」など現地に進出している会社にテープレコーダーを持ち込み、会社の様子を取材するという番組です。何が人気かと言いますと、訪問した会社の製品がお土産にいただけるのです。いえ生徒さんだけでなく顧問の私にまでお土産が付くのです。hi
もう一つの家庭訪問は、例えばピアノ演奏が得意な生徒さんの家に同じく放送部員がテープレコーダーを持ち込み録音して来て、学校の昼休みに放送するのです。これも内容ではなく、その取材をさせていただいた生徒さんのお宅で、取材後にケーキやアイスクリームなどのおやつがどっさり出るからです。放送部員と顧問は、ニコニコでおやつをいただくことになるのです。
平成6年でしたか、私の勤務先の北海道旭川養護学校に一組の親子がたずねてこられました。私のお客さんとのことで対応すると、この家庭訪問第一号のピアノ演奏を収録させていただいた生徒さんとお母さんでした。なんとこの録音がきっかけでプロのピアニストになり、旭川に演奏にこられたとのことでした。20年前のあのピアノ収録のことや美味しいおやつをいただいたことを思い出して、それは懐かしくバンコクのことを話しました。
電気の話しから脱線しましたが、ちょっと電気をかじっていたことから、古くなった日本人学校の校内の電気配線の取り替え工事の現場監督を仰せつかってしまいました。「強電はわかりません」といっても一般の方には「電気」と言えばなんでもわかる」と理解されているのでしょう。
アマチュア無線を通じて、電気を少々学んでいたことが、バンコク日本人学校で役立ったことはなによりでした。
電子工学クラブ
非公認の学校であったバンコク日本人学校は、地域から目立ってはいけないという宿命的な地位にありました。ですから折角タイにありながらタイの皆さんとの交流は殆どできない環境にありました。学校ではもちろん生徒さん達もアパ−トから学校までのスク−ルバスや送迎の車の中でかいま見る世界でしかありません。私は着任して、タイの生徒さんと日本人学校の生徒さんの国際交流等を期待していた一人で、この状態をとても残念に思いました。生徒さんの家庭にもタイ人のメイドさんがおり、タイ人とは接していますが、これは国際交流とはいえません。多くの生徒さんは、「雇い主と使用人」としての関係であでしかありません。タイで生活した日本人の生徒さんは、タイ人は汚いとか、貧しい、無学であるなど差別する心がいつのまにか育ち、折角の国際人の感覚を育てることなく帰国してしまうのではないかと危惧していました。 学校を看板に上げると、微妙な立場にあるバンコク日本人学校の立場を悪くすることが予想されます。そこで私は、日本人会の中に、青少年の組織を作り、そこを窓口にタイの皆さんと交流できないものか模索してみました。組織化に当たり、出来るだけ組織を長く残すため、私たちのような派遣教員が中心になるのではなく、現地に永住している日本人が中心になっていただく事を考えました。生活にも慣れた、1年が過ぎたころから組織化の準備を始めました。幸いにも石井良一さん、原田穣二さんという二人の青年に巡り会うことが出来ました。二人ともタイに長く(石井さんはタイ国籍だったっかも)私の計画にも賛同してくれまた。その後、当時タイ三井銀行の支店長のお嬢さん松根千緒さん(当時バンコクインターナショナルスクール高等部3年)、同じくISBの生徒であった三好久美子さん、大久保恵美子さん、佐藤淳子さん、森岡洋子さん、日本人学校中学部の坪井寿恵さんなど青少年の参加があって一挙に「バンコク日本人会青少年サークル」が立ち上がりました。日本人会も大変協力的で、これまでなかった青少年部を作って下さいました。 私は、マネージャーとして、雑用を受け持ちました。どんな活動にするかいろいろ話し合いましたが、同じ事に興味関心のある日本人会の青少年をまとめサークルをつくることとし、その組織を中心に現地の青少年と交流を図ることになりました。日本人学校の生徒さんも学校が終われば、アパートにもどり、その後友達と交流するのもきわめて難しい環境にありました。大人は、ゴルフやパーテーなどたくさん楽しむ場をもっていましたが、青少年の余暇をを楽しむ場はほとんどなかったのです。 先述の石井さん、原田さんは専門の写真を楽しむ写真サークルを指導してくださいました。約7000人の在留邦人のなかには多彩な特技をもたれた方がおられました。 剣道、茶道、華道、音楽など日本文化を楽しむサ−クル、テニス、ボ−リング、バレーボールなどのスポーツなどを楽しむサークルも発足しました。活動は、主として土日、夏冬休みなどです。 私は、マネジャーなので、講師の先生探しや会場探しに走り回りました。ある時、バレーボールの練習をする体育館がを探し回りましたがなかなか見つかりません。思いあまって国立競技場(サナムキラー)を尋ね、バレーボールの練習をできる会場を借りれないか尋ねてみました。すると事務室の奥のとても偉そうな役人さんのところに案内され、その役人さんが応対してくれました。私のつたない英語とタイ語をフルに使って、青少年サークルの事を説明しました。その結果なんと日曜日の午前中体育館を貸して下さることになったのです。とりあえずお礼を言って、係りの人とその体育館に行くと、なんとそこは数年前にアジア競技大会のバレーボールの試合をした立派なコートだったのです。コートの左右には、観客席がついた立派な体育館でした。それがまた使用料は無料だというのです。お陰で青少年サークルのバレー部は立派な体育館が練習場になったのでした。 そんなわけで次々とサークルが生まれ、バレーボールのようなスポ−ツはタイの学校と試合をするまでになり、私や石井さん、原田さんの計画した青少年サークルは、日増しに大きくなっていきました。私の帰国時は、120人ほどのメンバーになっていました。 その後5年ほどして、バンコクを訪問した際、日本人会に寄り青少年サークルのその後を尋ねたところ、なんと600人の会員となっているとのことで大変お驚きました。早速石井さん、原田さんに電話をかけ、数年ぶりに美味しいタイのビールを酌み交わしたのでした。
リダ−研修会 ホアヒンにて
クワイガワの鉄橋
華道サ−クル 指導は櫻井夫人
バレ−サ−クル タイサトリビタヤ校との試合 指導は永井夫人
参考資料 タイ国日本人会青少年サク−ル発足趣意書
青少年サ−クル規約
日本人会会報 1973年12月号
1974年 1月号
1974年 2月号
1974年 3月号
1974年 4月号
タイ日本人学校PTA会長西野先生(JA1BAR)のお力でRASTに入会でき電波を出すことが出来た私たちは、毎月1回の例会に出るのが楽しみになりました。近くのエラワンホテルで開催されるこの例会には、多くのRASTメンバーが出席されます。私たちの滞在した1972年4月から1975年の3月までは、会長さんは有名なHS1WRカムチャイさんでした。ミーティングは、ランチオンで、家族も多数参加されていました。昼食の後、RASTの会議で、いろいろな行事なども話し合われました。使用の言葉は、英語でこれは私と妻にとって大変な負担になりました。特に西野先生ご夫妻が都合で休まれた時は大変で、ご馳走ものどをとおらないくらい緊張していました。
ある時の例会で多数決で賛否を問うことになり、私なりの解釈で反対の方に手を挙げたところ、反対したのは私だけで大変ばつの悪い雰囲気になってしまいました。今でも正確にその内容がはっきりわからず、あのとき反対の手を挙げなければよかったと反省しています。それでも毎月の例会に山盛りのQSLカ−ドを持って参加し、また、RASTに届いた私宛のカードを持ち帰りました。殆どが日本からのQSLカードでした。1974年の冬にはローバンドのリクエストが来るようになって、1975年1月から3月まではローバンドに良く出ました。
会長のHS1WRカムチャイさんは、タイ陸軍放送局の局長で、陸軍の5人の将軍の一人だと言うことでしたが、無線が大好きでアクティブに運用されていました。ある時シャック訪問をして驚きました。広いグランドのような庭に40m高のタワ−が上がっていました。下からアンテナを見るときは、首がいたくなるほど高いのです。また、放送局も見せていただきましたが、そこは陸軍の無線機製造工場でもあり、大型の放送機器を作っておられました。なるほどカムチャイさんのリグが手作りであったのは、彼はプロだったのです。
その時、青少年サ−クルの音楽部の演奏をこの放送局HSAAから流していただけないかとお願いしたところ、なんなくOKが出ました。月1回15分だけ時間を下さることになり、音楽部が練習した局を1年近く放送していただいたのでした。その時のアナウンサーをやって下さったタイ人女性が、青少年サ−クルの指導をして下さった石井さんと結婚されたのも嬉しい事件(?)でした。
ところで、持って行ったFT−101は、近くのBC帯の混信で1.9Mhzや3.5Mhzでは日本の電波を聞くことが出来ず、やむなく途中で買ったKW−M2を親受信機として、コンバーターを作りました。材料はタイの秋葉原バンモーロードで買い集めました。6146パラでなんとか100Wが出ましたので早速JAとスケジュールを組んで交信に入りました。私がアパート探しでこのアパートに来た際、建物の幅を目測ではかったとおり約80mで、屋上に1.9Mhzのダイポ−ルを張ると1mも余裕がないほどでした。地上高20mの1.9Mhzのダイポ−ルが張れたのですから幸運でした。
実は、日本にいた時はいつでも出来ると思い1.9Mhzは聞いたこともない有様でしたので、どんな伝搬をするかなど殆ど知らなかったのです。スケジュールは、バンコク時間の午前3時から4時で、まだ空は真っ暗で眠い目をこすりながらの運用でした。じっと1.910khz当たりを聞いていると、かすかにJAのシグナルが聞こえはじめ、5分後くらいには589から599迄信号が強くなってきます。そして、15分もしないうちに全く聞こえなくなるのです。160mバンドの魅力でしょうか、この15分間にQSOしなければなりません。この期間に1.9Mhzで100局ほどサ−ビス出来たでしょうか。なにせイモOPの私は、皆さんのように機関銃のようにQSO出来ないのです。JAの皆さんはきっとイライラされて待たれてい事でしょう。
RASTの月例ミ−ティング