JH8YDY 日本ユニセフハムクラブと私


20年間を思い出して書いています


1 はじめに

 日本ユニセフハムクラブの発足は、「JA8ZOBあけぼの会アマチュア無線クラブの思い出」 「HS0JUA ユニセフチャリティーペディションの思い出」に書きましたように、私が勤務した江差小学校の旧6年2組のクラス会から発展したアマチュア無線クラブです。HS0JUAで交信した約3200局の日本のアマチュア無線家にQSLカ−ドを郵送した際に、「こんなクラブを作ったら入っていただけますか。」と呼びかけに応じた全国のアマチュア無線家の皆さんの賛同を得て1981年1月1日発足いたしました。当初の会員さんは90名ほどで、3200名に直接呼びかけた割には少ない賛同者であったと思います。当時としては、アマチュア無線のカテゴリーの中に「社会参加」あるいは「社会貢献」等の活動活動は、奇異に感じられたのでしょう。そんな訳で、はじめの頃に入会いただいたOMさん方に、
「なんでそんな訳の分からないクラブに入るの?」と退会を進める方もいたとのことです。
 しかし、多くのアマチュア無線愛好家の皆様のご理解とご協力をいただいて、実に20年もユニセフハムクラブは活動を続けることが出来ました。ピーク時は会員500名を越える時期もありました。
 途中1992年には、嬉しいことに「韓国ユニセフハムクラブ」が発足しました。そのため私達のクラブは、日本ユニセフハムクラブと改称しました。
 私が言い出しっぺであるという単純な理由で、20年間会長を務めて参りました。会員さんの中には、元JARL会長であったJA1AA庄野OMはじめ、いろいろな分野で活躍されているOMさんが多数入会いただき、全く実績もない私が会長を務めるのはなんとも面はゆいものがあります。20年間、私のような者が会長を務めることが出来ましたのは、事務局を受けてくれたJA3ULS木村さんや副会長のJA8OW谷本さんJA2SWJ高木さんほか会員の皆さんのご支援ご協力の賜と感謝しているところです。また、使用済み切手運動やユニセフ募金にご協力いただいた全国のアマチュア無線家の支援がありました。ゆっくりではありますが、アマチュア無線の社会貢献活動もアマチュア無線の活動の一つして理解をいただくようになったきております。
 日本ユニセフハムクラブの皆様と長年交流させていただいて、いろいろなことを学び、私の人生に大きな影響を与えたと思います。

関係報道記事   1982/02/06   読売新聞
           1982/02/07   北海道新聞
           1982/05/09   北海道新聞
           1982/05/14   北海道新聞
           1982/05/14   北海道新聞
           1984/01/22   北海道新聞
           1984/03/05   北海道新聞
           1984/03/06   北海道新聞
           1984/03/07   北海道新聞
           1984/07/26    バンコクポスト
           1984/07/27   バンコクポスト
           1984/09/22   北海道新聞
           1985/05/06   北海道新聞
           1985/05/25   北海道新聞
                      



2 工夫されてきた活動
 日本ユニセフハムクラブの活動は試行錯誤の中で続けられました。メンバーの皆さんも、就職、結婚など年齢に応じた変化があり、アマチュア無線活動をやむなく中断しなければならない時期に入った方もおりました。私のように、病気で中断された方もおられます。他界された方もおられました。私は、アマチュア無線活動は趣味であり生活や仕事、学業などに支障が出るようなことではいけないと思っております。しかし、アマチュア無線を長年楽しんで来た者には、アマチュア無線を次代の方々に伝える義務があると思います。それぞれが工夫して楽しんだアマチュア無線を自分の身の回りに広め、また、若い方に伝えなければならないと思います。
 ここでは、日本ユニセフハムクラブが会員の皆様と創意工夫してきたいくつかの活動を紹介いたします。皆様のアマチュア無線活動の参考になれば幸いです。


 日本ユニセフハムクラブの活動紹介

(1) ユニセフスタディーツアー

 HS0JUAの運用はじめあけぼの会の皆さんと初めての海外での活動は、多少の活動内容の修正はあったものの継続して続けられました。最初は、「ユニセフチャリティぺディション」でスタートし、「ユニセフDXぺディション」そして、「ユニセフスターディーツアー」と名称変更がありました。内容はほとんど変わらず、開発途上国の視察、その国から免許をもらって電波を出す広報活動、現地アマチュア無線家との交流等です。
 中でも、その国から免許をもらって電波を出す広報活動は、実はとても大変なことなのです。皆さんご承知のように衛星通信電話など無かった時代は、無線はその国の政府にとっても反政府組織にしても、非常に重要な通信手段でした。特に政府の基盤が十分出来ていない発展途上国の多くは、無線機は、麻薬や武器よりも警戒されています。また政府は、国民の情報管制ののために、海外の放送は聞いて欲しくないと考えている政府も少なくありません。そんな中で私達のような外国人が来て「アマチュア無線局の免許がほしい」などと言うのですから、申し出を受けた国も困ってしまいます。日本に来て、「麻薬を吸わせてほしい」、いえそれ以上の申し出かもしれません。
 私は、この活動のために途上国政府に手紙でアマチュア無線局の免許の発給を依頼したり、直接通信省などをたずね、アマチュア無線のこと、ユニセフハムクラブの活動などを紹介して、免許の発給をお願いして回りました。この活動には、時間とお金のかかることで、職場や家庭に大変な迷惑をかけました。1975年から現在まで、約50回の渡航を繰り返しましたが、このうち実際に免許を受けて運用できたのは、15回ほどです。大部分は、免許を発給してくれるよう「お願い渡航」でした。最も長くかかったのがS21バングラディシュで、12年の歳月を要しました。
 バングラディシュについて私が初めて知ったのは、1972年にS21JAを運用されたJA3KWJ小梶さん、JA2KLT丸山さん他のグループとバンコクでお会いしたことからです。丁度私がバンコク日本人学校に勤務していたころで、21Mhzでこのグループの皆さんと交信して、「バンコク経由でS21に行くので会いたい」ということがきっかけでした。小梶さんのグループは、バンコク市内のマレーシアホテルに泊まられるということで、ホテルまでアイボールに出かけました。私は、久しぶりに日本のアマチュア無線家の皆さんと楽しく歓談させていただきました。まさかその後私自身がその10年以上も後にS21から運用するなど想像もしておりませんでした。
 そんな訳で、ユニセフクラブの活動のためにということで、小梶さんから当時のS21の免許のコピーをいただき最初の手がかりとしました。バングラに出かけた私は、その免許のコピーを頼りに、通信省をたずねました。しかし、当時の免許発給された方はすでにおられず、また、免許発給セクションは、他の建物に移ってしまったとのことでした。私は、その建物を探すため、40度もあるダッカの街を歩き回らなければなりませんでした。そして、私は、やっと教えられた建物を見つけ、担当官と会うことができました。その担当官は、
「アマチュア無線は免許出来ません。」とすげなく答え、すぐ、私の前からどこかに行ってしましました。しかし、私は、1回目のダッカ訪問で、担当官にまで会えたことを感謝しました。
 私は、バングラディシュの通信省に通い続けました。最も多かった年には年間3回通いました。必ず市民や子供の生活の視察を行いましたが、「最貧の国」と言われるだけ、市民の生活は大変な悲惨なものでした。
 ある年、海外キリスト教医療協会(JOCS、使用済み切手を集めている団体)の紹介で、バングラの医療活動をされている宮崎医師を訪ねました。2日間先生に付いて歩き、先生の活動を見せていただきました。帰りに先生のお宅に寄らせていただき、奥様やお子さんとお会いすることが出来ました。奥様は、小学生の息子さんの靴下に電球をいれて繕っておられました。日本国内で、普通の医者であれば、奥様が靴下の繕いなどすることはなっかたはずです。家族を連れての宮崎医師の活動に感動したものでした。

子供の治療をする宮崎医師(左) 現地の医師を指導する宮崎医師(左)


 S21では、小梶さんのグループが免許を受けたという実績があったので、私は比較的早く免許が降りるだろうと予測していましたが、それは全く甘い予測で、12年間も通い続けなければならなかったのです。だんだん通信省の担当官とも顔なじみになる2〜3年すると新しい担当官に交代してしまい、また、アマチュア無線の説明からユニセフハムクラブの活動の説明を繰り返さなければなりません。建物も次々変わってしまいます。やっと数年後になって、年に1回くらい通信省から手紙が来るようになりました。喜びいさんで開けた手紙は、
「あなたの申請したアマチュア無線局は免許できません。」と短くタイプしてあるだけでした。
 バングラに住む在留邦人の皆さんとも親しくなりました。当時は、ダッカには日本食品や日本の商品も少ないことを知り、ダッカに出かける前には、電話やFAXで私の訪問予定をお知らせして、日本から持っていく物のくリクエストに応じました。殆どのリクエストは日本食品で、出かける前の日は東京に前泊して上野のアメ横で買い物をしました。納豆、お刺身、ラーメン、鮭の切り身、数の子、筋子、まるで昔の行商人のようでした。もちろん貧乏な私には、こんなにたくさんの日本食品をお土産にすることはできません。領収証を持って行ってしっかりお代はいただきました。hi ある正月のことです、お土産は、大晦日の紅白歌合戦のVTRテープです。私が、バンコクにいたとき紅白歌合戦を観るのはいつも3月でした。16mmの映画フイルムになって、日本人会が上映するのです。在留邦人は殆どが観に来られ、故国日本を懐かしく思い出すのです。私は、VHSとベターを用意して海外に出かけました。これが現地では好評で、とても喜ばれました。そして、リクエストの日本食品など私の荷物は45Kgにもなっていましたが、なるべく重い物は機内持ち込みとしました。アメ横でなにげなく買った「黒豆」が在留邦人にとても喜ばれました。私がお土産に差し上げた方が、更にお裾分けで知人の日本人に渡り、更に次の日本人に分けられるという具合です。ですから末端の方にはほんの一握りしか渡っていないはずです。そんなことが縁で、私と同行のJA8OW谷本さんは、全く知らない日本人家庭に夕飯のご招待がかかりました。聞けばそこにも私のお土産の黒豆が、ほんの僅か届いたそうで、そのお礼の招待だというのでありがたいものです。大変なご馳走になり、また、禁酒国のこの国ではとても高いビールをたらふくご馳走になってしまいました。 
 同じようにバングラ人もたくさん友達ができました。中に日本に留学されていた方がおられ、英語の苦手な私には大変助かりました。多くの現地の方はアマチュア無線のことを話しても理解してもらえません。しかし、日本語のできる彼、ラフマンさんはとてもアマチュア無線に興味を持っていました。それで、私と一緒に通信省行きに同行してくれました。これは助かりました。私が、訳の分からないひどい英語で説明していたのが、正確に伝わるようになったのです。
 そして、1997年4月、ラフマンさんから電話が入りました。
「通信省は、日本ユニセフハムクラブに免許を与えると言ってきました。」私は、耳を疑いました。ついにバングラデシュ政府はアマチュア無線の免許を発給してくれると言うのです。私は、猛暑の中を通信省のオフイスを探し回った日々を思い出していました。
 ついに日本ユニセフハムクラブのバングラデシュスタデーツアーは、1997年5月に実施されました。残念ながらこのときは、私は仕事の都合で参加できず、JA8OW谷本氏が団長として行かれました。
 しかし、最近はバングラデシュはじめ多くの開発途上国でアマチュア無線が合法化され、手続きさえすればアマチュア局を運用出来るようになりつつあります。それに対して、日本は相互運用協定を交わしている、ほんの一部の国の人にしか日本国内でのアマチュア局の運用を認めていません。入国を認めた外国人で、アマチュア無線従事者資格のある方には平等にアマチュア局の運用を認めるべきではないでしょうか。

参考HP 日本ユニセフハムクラブ/ユニセフペディション
 

(2) 使用済み切手運動
 日本ユニセフハムクラブの活動の中心になっているのが、この古切手の収集です。JARLのハムフェアでは、すっかりハムの皆さんに日本ユニセフハムクラブが使用済み切手を集めていることが知れわたり、毎年大量の切手をお届けいただいています。ありがたいことです。使用済み切手集めは、海外キリスト教医療協力会(JOCS)の事業です。すててしまう使用済み切手を集めるというアイデアはとても素晴らしいと思っています。これは途上国理解や援助が目的ですが、実際はあまり大きなお金になっていません。それどころかたくさんの人手のかかる大変な事業です。この運動を長年進められている海外キリスト教医療協力会(JOCS)に敬意を表する者です。この運動によって、日本人の途上国への関心やボランティア活動の啓蒙など非常に大きな成果をあげていると思います。
 日本ユニセフハムクラブは、JOCSのこの運動に共鳴して使用済み切手を集めております。

(3) ユニセフ募金
 
 国連の国際児童基金ユニセフの目的は、戦火や貧困、劣悪な環境にいる子供や母親への援助をしています。日本も戦後30年間に渡りユニセフの援助を受けていたことはご承知の通りです。私達、日本ユニセフハムクラブは、財団法人日本ユニセフ協会(ユニセフ国内委員会)の支援組織として誕生しました。日本ユニセフハムクラブは、会員や全国のアマチュア無線家にユニセユ募金を呼びかけています。皆様からいただいたユニセフ募金は、北海道文化放送に管理いただいて、ユニセフへ贈っています。これは、皆様の募金が、日本ユニセフハムクラブの活動に使われていないかなど、不要な誤解をまねかないようにするため、外部に管理をお願いしたのです。この20年間に全国のアマチュア無線家から届けられたユニセフ募金は、この北海道文化放送の口座に贈られ、実に約1,000万円にも達しています。ユニセフ協会に直接募金された方を含めると相当の金額になっていると思います。20年間活動を続けてくれた日本ユニセフハムクラブの会員の皆様はじめ、全国のアマチュア無線家の皆様に深く感謝する次第です。ありがとうございました。

(4) 広報用QSLカードの発行

 日本ユニセフハムクラブでは、会員向けに広報用QSLカードを頒布しています。毎年1回会員の皆さんにサンプルをお届けして、希望者に頒布するシステムです。それで、なるべく経費が安くなるように、一括して印刷するわけです。札幌で印刷していますが、幸い印刷屋さんでハムの方がおり、日本ユニセフハムクラブの活動にも深い理解をいただき、殆ど原価で印刷いただいております。500枚1組で、送料込みで4,000円をずっと続けられているのは、この印刷屋さんのお陰です。毎回100組5万枚以上の注文があり、20年間で100万枚以上が全国、世界のアマチュア無線家に届けられているのです。



 頒布の広報用QSLの一部



(5) JCG、JCCサービス

 アマチュア無線の楽しみの一つに、日本全国の市や郡に住んでいるアマチュア局と交信する楽しみがあります。ところがその市や郡によってたくさんのアマチュア局が運用している所もあれば、あまり運用局のないところがあります。日本アマチュア無線連盟では、市や郡に番号をつけています。私達日本ユニセフハムクラブでは、ハムがあまり出ていない市や郡に出かけて、全国のアマチュア局と交信しています。半分はユニセフのPRであり半分(もっとかな?)は移動運用を楽しんでいます。だいたいは、土曜日や日曜日に近くのユニセフハムクラブのメンバーが集まって出かけます。私は、住んでいた渡島半島をま移動運用をして回りました。この移動運用には、八雲ローカルのメンバーが多数参加してくださいました。一晩に500局も交信できるときもあれば、さっぱり飛ばす20局あまりの交信で終わってしまうことがありました。ローカルさんと出かけ、ビールを酌み交わしている方がメインで電波がさっぱり出ないとうこともありました。この移動運用は、全国のユニセフメンバーが、地域のメンバーにお願いして年に何回か実施されます。
 この移動運用を、全国規模に実施したのが、日本ユニセフハムクラブが設立して5年目に行われたJH8YDYの移動です。これは、ライトバンにアマチュア無線機材を積み込み、車ごとバトンタッチして全国を移動するというものです。この事業は、1986年12月、北海道八雲町から、メンバーのJH8BKL河瀬さんが車を運転して、一気に(と言っても3日かかりました)鹿児島まで車を運びました。よく北海道から鹿児島まで走って行ったものと今では感心しています。河瀬さんありがとうございました。
 それで、鹿児島のユニセフハムクラブのメンバーに渡されたライトバンは、次々とメンバーにバトンタッチし、翌年の10月に北海道に帰って来たのです。その間約2万局と交信、日本ユニセフハムクラブの最長のイベントになりました。この全国移動でユニセフハムクラブは、全国のアマチュア無線家に知られるようになったのです。

「モービルハム」提供のQSLカード
 

(6) ハムフェアへのブ−ス出展
 
 日本ユニセフハムクラブでは、毎年8月に開催されるJARL主催のハムフェアに1981年から出展しています。ここでは、多くの参加者に日本ユニセフハムクラブの活動を紹介する目的もありますが、全国組織である私達のクラブは、お互いに会ったこともQSOしたことも無い方が大部分です。そこで、ハムフェアの3日間で会員同士のアイボールの絶好の機会となるわけです。勿論他のブースに負けないようにジャンクを販売も頑張っています。20年間続いた「使用済み切手」も集めさせていただいております。ハムフェアの会場にはあまりマッチしない開発途上国のグッツも販売しますが、結構売れています。これらの収益は、全額ユニセフに寄付しています。
 夜は、アルコールミーティングで、活発なクラブの活動についての意見交換が行われます。

参考HP 日本ユニセフハムクラブ/2001ハムフェア