昭和54年障害のある生徒さんがいずれかの学校に籍を置く制度が文部省の施策で全国的にスタートしました。それまでは、障害のあるお子さんが学齢に達しても「就学猶予」という制
度が適用される事が多かったのです。「就学猶予」言葉はいかにもやわらかいのですが、極論を言えば、障害のあるお子さんは義務教育さえ受けさせないという事を長年続けてきたので
す。これは憲法に定められた「教育を受ける権利」を国は認めない重大な憲法違反です。この昭和54年は、日本の教育の一大革命の記念すべき年と言って良いでしょう。
学生時代から障害児教育に関心のあった私は、自分の専門教科以外に障害児教育を学んでいました。幸い単位も揃い「養護学校教諭」の資格も取得していました。昭和45年新聞など
で、北海道にも多くの障害のある生徒さんの学校が開校する事を知り、私も応募する事にしたのです。しかし、上司である教頭も校長も私の特殊教育諸学校への転出に強く反対しまし
た。それはまだ教育界では、特殊教育が十分理解されていない時期でもありましたし、また、教頭や校長は私の将来について真剣に考えてくれた結果であったかもしれません。そんな訳
で、特殊教育諸学校への転出を認めてくれたのは昭和47年になっていました。
昭和57年3月29日、私は北海道八雲養護学校への赴任が決まり、新しい学校や住宅事情の下調べのため車で八雲町を訪れました。
八雲町に入った私は、八雲町の地理が全く分からず、早速144MhzでCQを出しロ−カルのハムに八雲養護学校までの道案内をお願いしたのです。平日の日中と言うことでありどなたか
らも応答が無いのではないかと思いつつのCQでした。ところが待っていたと思われるほど間髪いれず応答がありました。北海道八雲養護学校の位置をたずね道案内をしていだき、そこはハム仲間、「コーヒーでも飲んで行きませんか?」と声がかかりました。そのハムが、その後家族ぐるみで交流することになったのがJA8IOT村井OMだったのです。
その数日後、私は家族と八雲町へ引っ越しました。私たちが到着すると、八雲ローカルのハムの皆さんが来てくださっており、トラックからの荷物下ろしを手伝ってくれました。あり
がたいことです。村井さんが八雲ローカルの皆さんに知らせて下さったのでしょう。ハム仲間は本当にありがたいものです。
普通教育15年の私も養護学校では1年生です。授業の形態も40人学級から10以下の少人数学級です。指導者も殆ど2人以上の複数が入ります。八雲養護学校は、「病弱養護学校」という隣接する国立療養所八雲病院で闘病生活を続ける生徒さん(小学生、中学生、高校生まで)がその教育対象です。生徒さんの主な病気は難病の一つの筋ジストロフィ−症です。私の着任した昭和57年頃は、まだ病気の原因や治療法も確立されておらず、八雲養護学校に在学中になくなることがありました。現在は、医療もずいぶんと進歩し40代の方も元気に療養を続けておられます。病院の院長先生が学校行事で生徒さんにお話しされたことで、
「皆さん、トンネルの向こうに光がみえて来ました。生き続けてください。きっと皆さんの病気がなおる日が来ます。」私達教職員も一日も早くその日が来ることを待っていました。
私は、確かに学生時代に養護学校教諭の免許を取りましたが、いわゆるペーパーラインセスで、一度も養護学校の教育に携わった事がありませんでした。養護学校の教育を一言で表現すると「個別化」です。一人一人の障害にあわせた丁寧な教育が行われていました。私が受けたり、また指導してきた普通教育は、いかにも粗雑で、多くの個性を持った生徒さんをいっぱひとからげにしていたことが分かりました。
最近は、普通教育でも一つの教室に複数教員を配置する試みが始まっていますが、本当に良いことではないかと思っています。ところが地域の行政は、教職員組合とつるんで国が配置した複数教員を教職員の持ち時数削減、つまり教職員の労働時間の軽減に転用している場合があります。これでは国民の税金を無駄使いしていることになります。これは、教育行政と労働組合のなれ合いという実体があり、生徒さんのためという大義名分で大切な税金が使われているのです。国民は、このような事態に厳しく対応しなくてはならないと思います。
北海道は、教育行政と教職員組合の癒着のひどいところですが、このHPの趣旨には合わないので、他のところで指摘することにしましょう。
私は、八雲養護学校では、「中学部3年A組」の担任が初仕事になりました。私は、養護学校教員1年生として、この3年A組の6人から多くの事を学びました。
私は、日本人学校派遣3年間を経験しましたが、派遣期間の3年という期間はは殆ど変更が不可能です。3年間と時間を区切られたことが当初は窮屈に思いましたが、人生を振り返えってみると時間を区切られた事は実に有意義なことだったのです。最初から3年間と決められたことによって、いかに3年間を過ごすか計画的な仕事が出来たのです。これが、無期限であった場合はどうだったでしょうか。人生も同じです。有限の時間で有ることはみんな知っているのですが、時間には線引きもなければ区切りもありません。帰国後たえず自分で仕事に期間を決めるようにしました。たぶん同僚は、なんでこんなに急ぐのだろうと不思議に思っていたに違い有りません。私が急ぐことによって迷惑をかけた人もいたかもしれません。
さて、私がかってに決めたスケジュールでは、特殊教育に来たからには、特殊教育のオーソリティーになりたいと思ったのです。実は特殊学校には、盲学校、聾学校、知的障害、肢体不自由、病弱虚弱の5校種に別れていて、それぞれの専門性が要求されるのです。ですから、はやくこの5校種を経験して、特殊教育に精通したいと考えたわけです。
学校だけを生活の場とする八雲養護学校の生徒さんにアマチュア無線を通して社会とのつながりを深くするという構想があったか無かったかは分かりませんが、私の八雲養護学校への配置は、「適正」であったと思います。hi そのつもりであったのか、着任早々無線クラブを作りたいという私の願いは校長や同僚には当然のように受け入れられ、いろいろ協力して下さいました。1ヶ月後の5月には、もう校舎の屋上に7Mhzのダイポールが上がっていました。本当に学校では考えられないことに、事務長さんも私が申し出ると翌日にはアンテナ建設のためのパイプや材料を購入してくれました。学校にクラブ局を開設しようと努力されている先生はたくさんいると思いますが、とても苦労されているのです。校長や事務長の反対で無線クラブを開設できない学校がたくさんあるのです。「アンテナを屋上に上げる−−とんでもない。校舎が傷む」これがごく一般的な判断です。
ところが八雲養護学校では、管理職はじめ教職員のみなさんがみな協力して屋上にアンテナを上げてくれたのです。中にはスカートのままの女性の職員も屋上に上がってアンテナ上げを手伝ってくれたのですから驚きました。
そんなわけで、まず教室に受信機を置く許可をもらい、昼休みなどに生徒さんにさわっていただくこととしました。そのデモに早速3年A組や隣の高等部の生徒さんが興味をもってやって来ました。4月の教育課程の編成の際は、高等部授業に無線をと取り入れるため、教科名は「電気」にして教えてくれないかと誘いもあり、中学部主事の許可を求めると「学部を越えての指導は異例ではあるがやってみなさい。」とこれもありがたいお許しが出ました。このように養護学校の教育課程は、普通校に比べ柔軟であることが分かりました。
早速高等部の「電気」には10人ほどの生徒さんが受講してくれました。時間は、1週3時間だったと思いますが、これは、病院の生活時間帯の関係で1週24時間程度(普通校では、35時間程度)の中では、大きな時数となります。授業は、電池の接続やオ−ムの法則など電話級アマチュア無線技師の工学の基礎を続けました。特に経験の少ない八雲養護の生徒さんのために実験を多く取り入れるように配慮しました。さすがに電波法は「電気」の教科タイトルから授業に組み込むには無理がありました。
さて、アマチュア無線に興味を示した数人には、早速電話級のアマチュア無線技士の免許を取得する課外学習をスタートさせました。幸いなことに、北海道電気通信監理局の特別の配慮で八雲養護学校で国家試験の移動試験を実施しててくれることになりました。
試験は6月に行われ、八雲養護学校の生徒さん5人が挑戦し、私は、合格は2〜3人程度と予測していました。ところが合格は1名のみの残念な結果になりました。校長に「合格は1名でした。」と残念そうに報告すると、校長は、「0から1なんだからすばらしもんじゃないか!」と喜んでくれたのには、私も嬉しくなってしまいました。
八雲養護学校のアマチュア無線は、合格第一号の高田君(JR8NBN)が、無線クラブの基礎をつくってくれたのです。
関係報道記事 1983/04/06 北海道新聞
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免許状交付 | 開局式 | 右(原) 中央(高田君) 右(工藤先生 |
TV局の取材
TV局の取材 | 「あのう〜 そのう〜」 照れないでね | 音もバッチリ録音 |
八雲アマチュア無線クラブと交流会
八雲クラブとの交流会 JA8IOT村井さんの講義
QSL発送作業
QSL区分整理 | 箱詰め作業 | みなさんこんなにQSL出しますか? |
関係報道記事 1983/07/07 北海道新聞
1985/03/22 北海道新聞
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1990/03/25 北海道新聞