特殊学校における情報教育








1 パソコンで障害者の社会参加を願う

 私がパソコンを初めて手にしたのは、昭和46年12月、先輩のアマチュア無線仲間に勧められ、大枚10万円を投資して手に入れた8ビットマイコンでした。使い方もよく分からず、本で発表されたプログラムを入力して、こんなに便利なマシンが手に入ったことを感激していました。私の趣味の関係から、新しい物は、やはり新しい物好きの「ハム仲間」から入って来ます。その翌年の昭和57年4月北海道八雲養護学校に勤務して、パソコンが教育や仕事に本当に使えそうだと感じました。4月から中学3年の担任になったのですが、生徒さんの学力は、私が推測していたより遙かに低いものでした。
 「どうして、こんなに能力が高いと思われる生徒さんが、こんなに低い学力なのか。」私は不思議に思いました。その原因は徐々に分かってきました。それは、多くの生徒さんが、病気のために学習空白があること、つまり、長期欠席などである単元などがすっぽり学習していない場合があるのです。また、病院の生活時間や医療のために、例えば入浴日や回診の日は午前授業で、授業に参加出来ないことがあるのです。また学校の1単位時間が35分と普通学校に比べ10分から15分も短いのです。また、放課後も残して学習は出来ません。これらを総合すると八雲養護学校は、普通校の約半分位の授業時間しか無いのです。時数だけでなく教師の指導計画にも問題がないとは言えません。1人1人の学習の記録も引き継ぎが粗末で、重複した指導や指導漏れも出てくるのです。
 私が、数学の授業を受け持って、すぐ分かったのは、かけ算の九九が定着していないことでした。だから、分数計算も方程式もやり方は分かっていても答えが合わないのです。さらに驚いた事には、補欠で入ったクラスの個別指導を受けている生徒さんのノートをみて大変だと感じました。それは、課題を出しても時間がないためか、採点が全くされていないのです。私たち普通学校の教師は、生徒が40人だろうが50人だろうが出した宿題は、家に持ち帰っても添削して翌日または次のその教科の時間には生徒さんに返すのが習慣になっていました。ところがこの学校では、半年分の学習の添削がされていないのです。
ですから、生徒さんはやり方を学んでやってみます。しかし、間違いを訂正されないので定着していないのです。ですから中学3年になっても九九も間違ったままです。

 私は、早速九九の復習をさせることにしました。授業の中で今更九九を扱う分けにもいかず、パソコンとカセットテープレコーダーに任せる事にしました。休み時間にパソコンで九九のドリルをやらせます。パソコンは瞬時に正解か誤答かを表示します。81個の九九のうち何題正解を出せるかに興味を持って、生徒さんは勝手に、いえ自主的に学習したのです。

 カセットテープは、宿題です。これは、10分の短いテープを持たせ(長いテープはだめです。カラオケ用の10分テープが効果があるのです)このテープに毎日10分間病棟で九九を言わせ録音させます。この時必ず九九の印刷された下敷をもたせ、それを読ませながら録音させるのです。翌日持って来たテープを提出させます。そして、私は、二三カ所それと必ず最後を聞いて10分間全部録音されているか確認します。つまり、まじめに録音しているかだけのチェックです。その後テープイレーサーで全部消してまたこのテープを生徒さんに返すのです。このパソコンとテープの成果は、すばらしいものでした。1週間で100パーセント正確に九九を覚え来たのです。これで、不得意だった方程式もバッチリ正解です。

 同じようにパソコンは偉大でした。中3になっている私の学級の生徒さんの何人かは2年間英語を勉強しているのにアルファベットが定着していないのです。これは、パソコンで遊んでいるうちにすぐ覚えてくれました。当時のパソコンは、コマンドをアルファベットで入力しないと動かないので、すぐ大文字小文字52文字を覚えくれたのです。

 私は、ちょっとした機器の使用でこんなに生徒の学習に力が付くとは思いませんでした。これは、生徒さんの潜在する能力を支援しただけで、重い知的障害の生徒さんに当てはまらない場合があります。


2 「情報」の教育始まる

 昭和60年4月だったと思いますが、八雲養護学校高等部では、高等学校の選択教科の中に入っている「情報処理」を教育課程に取り入れる事になりました。幸い同僚の赤松拓先生、その後に赴任した小本賢二先生など若手の先生がどんどん「情報」を勉強され、八雲養護学校の情報教育は充実していったのです。八雲養護学校は、「情報教育」の先進校として、遠く本州の学校から視察に来るまでになりました。私のまとめた「八雲養護学校の情報教育」はCEC(財団法人コンピュータ教育開発センター)の発行する「コンピンピュタ活用研究実践報告書第5集に掲載されています。
 
 まず学校では、パソコンを1台も保有していませんでしたので、「情報」の授業が出来る生徒さん2人1台を目標に整備してもらうよう、学校長を通じて北海道教育委員会に要望書を提出しました。これは、学校に配分されている教材予算を使ってしまうとパソコン2〜3台で全部使ってしまうからです。プリンターも合わせると8ビットパソコン一式で100万円はする時代でした。5台の要望に対して3台の予算が付きました。これは大変ありがたい事でした。しかし、「情報」の授業希望者が多くて「情報」の授業のある日は、私物を運んで来てやっと間に合うという状況でした。
その後2年ほどで8ビットマイコンが2台こ増え、また、昭和  年には、全道の特殊学校に3年計画でリースでパソコンが整備されるまでになりました。この間ずっと私はパソコン不足を補うために授業の度に自分のパソコンを学校まで運ばなければなりませんでした。

 平成5年4月、私は八雲養護学校を離れ、北海道札幌盲学校教頭、北海道旭川盲学校教頭、北海道白糠養護学校長と異動し、平成9年再び北海道八雲養護学校長として戻りました。いずれの学校においても八雲養護学校での「情報処理」の実践経験が大きく役立ったと思いました。特に北海道白糠養護学校では、インターネット回線がつながりました。また、北海道の特殊学校の教職員で発足した「北海道特殊教育諸学校情報教育研究協議会」は、全道から200人もの参加がありました。


3 北海道特殊教育諸学校情報教育研究協議会の歩み

 北海道の特殊教育諸学校では、個々の学校で生徒さんの障害を克服するために活発なマルチメディア教育が進められ始めました。