「ラジオ少年の夢」  JA8ATG 原 恒夫



 

   
 
目       次


日本海はコバルト色     5
 
ブーゲンビリアの咲く街     61
 
開陽丸が眠る町     95
 
電波が結ぶ友情     117
 
復活の日     135
  
無線で遊(スサ)ぶ     199
 
ラジオ少年の夢     231
 



 
 
 
 
 
 
  日本海はコバルト色
 
 
        初任校の大成町立太田小中学校
 
   
 海岸沿いの道路は、突然切り立つ岩が覆い被さってきた。開通したばかりの道路だとは聞いていたが、ダイナマイトをかけて岩を崩しただけの岩場に差し掛かった。日本海の荒波に削られ岩盤の道路に、私の運転するバイクのハンドルは、激しい衝撃を受け続けた。
 延々と覆い被さるような岩場の道路が続く。
 バイクを停めチェーンを覗くとすっかり伸びきって弛んでいる。二コマくらいチェーンを縮めなけらばならない。路面の凹凸に気をとられて走ってきたが、見あげると岩が切り立ち、落ちて来ないのが不思議だ。道路の端を見ると大小の岩が転がっている。大きいものは人の頭くらある。こんなのが直撃したらひとたまりもない。
 気を取り直して再びバイクを走らせた。
 
 大きく右カーブする道路を曲がり切ろうとしたとき、岩場の左手から神社らしい作りの建物が見えてきた。これまでの岩場の道路が開けゆるやかな湾になる。穏やかな波間に人家小さくかすんで見えた。
 昭和四十二年四月一日の日本海は青く穏やかな波がよせていた。
 
 朝の八時に下宿を引き払った。たいして荷物がないと思っていたが、結局バイクが乗らなかった。トラックには、引越の手伝いにきてくれたアマチュア無線仲間の後輩の長原君が同乗して函館を出発した。
 午後一時には、赴任地の十二キロメートル手前にある大成町都にたどりついた。商店で教育委員会の場所をたずねると、幸いすぐ近くであることが分かった。
 ヘルメットを脱ぎGパン姿の私は、とても辞令を受ける姿格好ではなかった。しかし対応した本間教育長はじめ事務局の皆の歓迎を受けた。
「久しぶりの初任者だよ。大成町の教育のためにがんばってくれ」
 本間教育長の歓迎の言葉に緊張した。早速辞令交付を受けたのは二人で、もう一人はどこかの町への転出だった。偶然にもその先生も「原」だった。
 
 太田は四十軒ほどの小さな漁師町であった。任地が決まったのは、函館の北海道教育大学を卒業して、二十日ほど過ぎた三月中旬であった。
 北海道教育委員会からの文書には、久遠郡大成町太田小中学校教諭とあった。「太田」という所が何処にあるかは、道南で四年間の大学生活をしていても、全く分からなかった。
 だが、「太田」という地名にわずかな記憶があった。確か無線仲間の先輩の兄さんが勤務していた学校ではなかったか。慌てて私は、バイクで五分ほどの無線仲間の佐藤先輩を訪ねた。
 佐藤先輩は、「太田」と聞いて、気の毒そうに言った。
「原君、電気がないぞ。それに道路がなくて、漁船をチャーターして引っ越し荷物を運ばんと」
「エツ、電気がないんですか」
私は、すっかり動揺してしまった。
 やはり太田小中学校は、佐藤先輩の兄がつい最近まで勤務していた学校だという。その兄も漁船をチャーターして、引っ越し荷物を運んだという。
 
 教員採用の面接試験を思い出した。試験官が質問した。
「原さんはどんな学校を希望しますか」
「私は、父が教員で、小さな学校勤務が多かったので、小規模校が良いです。離島・僻地でかまいません」
確かにそう答えたのだ。
 
 私が校長になって、一番驚いたのは、職員から人事異動調書を提出してもらうと、十人中十人が「札幌市」を希望していた。ほんのわずかだが出身地の市町村に戻りたいという希望もあったが、まれな例だ。
 だから人事異動で札幌市や石狩管内に転出させた校長は、「力がある」として職員から高い評価を得るのだ。
 こんな現実だから教員採用の面接官は、私の希望に驚いたにちがいない。願ってもない新採用候補なのだ。確かに同期の中にも北海道の郡部に内示があったので、急いで東京や埼玉、千葉などの採用試験を受け直す者もいた。
 とにかく、佐藤先輩の情報では、電気も道路もないとのことで、あわてた私は公衆電話に駆け付けた。
「大成町の太田小中学校は何番ですか」
 番号案内にたずねるとすぐに教えてくれた。交換の女性に太田中小学校への接続を頼んだ。電気がないと、アマチュア無線も出来ないのだ。
 電話はすぐにつながった。
「太田小中学校です」
「今度辞令の出た原と申します。太田には電気がきているのでしょうか」
 挨拶も早々に電気の話をしたので、電話の相手も驚いた様子だ。
「原先生、心配しないで下さい。最近になって電気も道路もついたんですよ」
「私は今回の人事移動で転勤が決まっている校長ですが、原先生のことはすでに情報が入っていて、地元の教育委員会も村の人も待っていますよ」
うれしい情報にすぐ赴任の準備を開始した。
 しかし、地図を見ると太田は遠い。江差町まで出て、海岸沿いの道路を北上していくのだ。太田より先は、道路がなく行き止まりだという。道路工事は険しい海岸線が続き、工事計画さえないというのだ。
 太田小中学校は、全校生徒六十三人、校長を含め教員は五名の小さな学校だという。学校には不満がない。いや、私の理想の学校だ。
 
 私は、小学生を過ごした幌加内町の豊富小学校を思い出していた。
 今は廃線になった深名線新富の父の学校「幌加内町立豊富小学校」は、同級生はたった六名、全校生徒三十名ほどの小規模校だった。
 
 父の転勤に伴って私たち家族もこの村落の住人になった。私が小学五年になった時の父の異動だった。地域は農業と林業に携わる農村であった。四月のはじめに移ってきたのだがまだ雪は二メートル近く残っていた。学校前のグランドも雪がおおっていた。四月の中旬になって、地域の人達が馬そりで土を運んできた。グランド中にまいてくれた。黒い土をまくと太陽の熱を吸収して速く雪が溶けるからだ。
 
 幸い五月五日には、グランドだけが黒い地面を現した。早速みんな外に出てソフトボールを始めた。私も一応前の学校で野球やソフトボールをやっていた。だが驚いたのが女子の打撃力だ。ガンガンホームランをぶっ飛ばすのだ。守備も素晴らしい。私と言えば、内野ゴロがせいぜいで、一塁にも出られない。ここでは、女子も小学五年六年になると大人と同じ農作業をしていて、腕力は男子に負けないのだ。
 
 小学校を卒業後は、隣町の政和中学校に通った。十二月に入ると積雪は四メートルを超え、深名線の汽車通学は一週間に一度来るロータリー除雪車が排雪をした日しか通学出来ないのだ。好天が続いてもせいぜい週に三日中学校に通学出来る程度だった。
 さすがに父は私の勉強の遅れを心配した。室蘭市の祖母の家に下宿して中学校に通わないかと提案してきた。
 私も都会の学校へのあこがれもあって、二つ返事で父の提案を受け入れた。三学期からは、室蘭市の成徳中学校に通うことになった。
 成徳中学校は、一学級五十名で、一学年五百名、全校生徒千五百人のマンモス校であった。
 
 成徳中学校では、私の人生を決める三人の教師に出会った。
担任の横山先生は、おおらかな学級経営をしてくれた。柔道が強く、ちっと強面の先生だが、考え方に余裕があった。
 ある夏の暑い日、誰かが「泳ぎに行くぞ」という一声がきっかけでクラスの全員が一山越えて海へ向かった。集団脱走である。何人かの男子はパンツ一丁で元気に泳いでいた。男子だけでなく女子も全員太平洋の涼しい風を満喫した。結局二時間近くして教室に戻った。私もクラスメートも担任から拳骨の一発二発食らうだろう事を予想していた。ところ 横山先生は、
「どうだ、太平洋は涼しかったか」
と言っただけで、なにもなかったように授業に入った。
 これには、私たちの方が面食らった。だが、私たちもなにもなかったように授業を受けた。
 五十人もいるクラスだ。様々な課題のある生徒もいたに違いない。だが横山先生は、個別指導を徹底していたようで、様々な非行や事件は全く私たちには聞こえてたこなかった。
 
 非行と言えば驚いたことがあった。なにかの用事で夜の九時頃に下宿している祖母の家に戻る際のことだ。暗闇にクラスメート三人の顔が見えた。
「こんな遅くになにしてるのよ」
と声をかけると、 
「これよ」
とガソリン臭い一斗缶を差し出した。
「車から抜いてくるのよ」
 なるほど。抜き取ったガソリンを売って小遣いを得るのかと私は感心した。
 
 初めてなにかの用で近所のクラスメートの家を訪ねた。彼のお母さんはすぐ部屋へ案内してくれた。勉強家の彼だ。学力テストでは彼に一度も勝てたことが無かった。部屋には、高さ二メートル近い本棚が二本あった。そこには、文庫本が何百冊と隙間無くならべられていた。私が感心して、
「すごい量の本だね」
と言うと、彼が自慢げに人差し指を曲げた。
「え、万引きしてきたのか」
とたずねると、彼はニヤッと笑った。
 これで本屋が儲からないことがわかった。全部では無いだろうが何冊かはだまってポケットに入れてきたのだろう。
 
 あるとき私と同級生だった典子(旧姓荒木)が横山先生に職員室に来るよう呼び出された。なんの用件で呼び出されたか事前に話がなかった。二人は学級の生活係りであったので、なにか仕事を言いつけられるのだと予想した。
 二人で職員室に出かけると横山先生は、
「荒木の親父も校長先生、原の親父も校長先生だろう。似た環境だから交際してみないか」
 という全く予想もしない話が横山先生の口から出た。
 私は、奥手で中三になってもあまり女子には興味がなく、多少の好き嫌いはあったが、男女を問わずクラスメートとは付き合ったつもりだ。だが、休み時間はほとんどみんなと遊ぶことなく、一人机で無線の本を読んでいた。私にとってこれが一番楽しい休み時間の使い方だった。
 その時、なんと答えたかは記憶がないが、典子のことを気にするようになった。修学旅行でも典子の写真を何枚か写している。だからと言ってその後なにかの行動を起こしたわけでもなかった。
 だが、私が室蘭の高校を転校して、岩見沢の高校に移った時から、典子との文通が始まった。きっかけは、一枚のハガキに「今度、岩見沢東高校に転校しました」という数行の便りを出した。ハガキを出したのは、彼女一人だけだった。
 その年の暮れに室蘭で中学時代のの同窓会が開かれた。帰りに始めて典子とデートをした。年末の結構寒い日であったが、室蘭の街から夜道の仏坂を歩いた。そして母恋南町の典子の家まで送った。祖母の家も母恋南町にあった。一時間以上歩き続けたがなにを話したかは全く記憶がない。ただ布団に入っても胸が息き苦しかったことを覚えている。
「これが青春なのか・・・・」
 
 成徳中学校の音楽の教師であった佐藤先生は放送部の顧問だ。あるとき私に、
「原君はラジオ作っているんだってな。放送部に来ないか」
と声を掛けてくれた。放送部の仕事は、昼休みの昼食時間帯に音楽を流す仕事、朝礼や行事の際の放送係りを受け持っていた。
 これが機会で、朝に登校しても放送室、昼食時も放送室、そして放課後も放送室にこもるようになった。レコードを聴いたり、半田ごてを握って放送器具の修理などで放送室に入り浸ることになった。
 昭和三十年代の当時の学校では、視聴覚機器も市販品を買う余裕はなく、校内にある機器の大部分は佐藤先生の手作りであった。佐藤先生の作品は、丁寧に作られていて、一見市販品に見える。だがその殆どは廃品の部品を使った完全手作りであった。
 私は、小学生の頃から父が集めていたラジオ製作の本を何冊も読んでいた。ただ実際に製作したことは殆ど無かった。知識だけではあったが、佐藤先生の話し相手にはなることが出来た。あるとき佐藤先生の作った真空管式ワイヤレスマイクが、不調になり佐藤先生が修理をしていた。このワイヤレスマイクは、まだ市販品も無い時代で、壊れたポータブルラジオの部品を使っていた。佐藤先生が組み立てたものだ。大規模校の成徳中学校では運動会などの全体指導に大活躍していた。
 このワイヤレスマイクが電池を食いすぎるというのだ。真空管用の高圧電池は、高価で、少ない学校予算ではなかなか買えないらしい。
「先生、真空管にかけているバイアス電池がなくなったのでは有りませんか」
と私が言うと、早速佐藤先生は、バイアス電池の電圧をテスターで測っていた。
「原君、君の言う通りだよ。ほらバイアス電池の電圧がほぼゼロになっているぞ」
私の予想がぴったり当たり、佐藤先生は私の知識に驚いた。真空管でラジオやアンプを作る人は大勢いるが、真空管の動作原理を理解している人は少ないのだ。
 
 私が、小学六年生の時の事だ。村の区長さんがやってきた。
「校長先生、息子さんが電気に詳しいそうだね」
と、私を指名して、村の有線放送のアンプの故障を直してほしいとのことであった。
「小学生の恒夫には直せないでしょう」
と父は、何度か断ろうとしていたが、結局とりあえず見に行く事になった。私は、父のバイクの後ろに乗り、一応手持ちの部品とテスターと工具を持った。
 
 村の有線放送は、村中の四十戸の家々との連絡をとる当時の大事な通信手段であった。有線放送のアンプは、私が初めて見る807という大きな真空管が使われてれていた。シャーシーの裏側を覗くと、その大きな真空管のソケットの近くの抵抗の色がわずかに白く変色しているのが見えた。テスターで抵抗値を計ると表示抵抗値を示さず無限大になっていた。焼け切れたのだ。幸いその抵抗値に近い抵抗を持っていたので交換した。アンプは元気に大きな音を出すようになった。 
 
 私の電気の知識は、NHKの技術者であった杉本哲氏の著書によるものだ。父が勉強しようと杉本先生の本を集めていた。小学生の私には読めない漢字がたくさんあり母によく読み方を聞いていた。しかし母も電気の専門用語で読めないことが多かった。漢字が読めないだけでなく、意味もよく分からなかったが中学生になってだんだん理解出来るようになった。
 
 佐藤先生とアンプやラジオの話をするときもほぼ対等に話が出来るのがうれしかった。ただ私の知識は、実物を見たことも触ったことない本からの知識であった。
 いろいろ教えていただいた佐藤先生だが、人使いが荒かった。私の中学卒業式の体育館の放送準備も私の担当であった。卒業生が校門から出て行く時も私は放送室で「蛍の光」のレコードをかけていた。そして、みんながいなくなって玄関前に臨時に取り付けたトランペットスピーカーの取り外しも私の仕事であった。
 
 私と佐藤先生が放送室でなにか仕事をしているとき、偶然担任の横山先生が入って来た。そして、私と佐藤先生を見て、
「原!佐藤先生が担任か。俺だろう」
と冗談半分のように言った。私はあわてて、
「担任は横山先生です」
と答えた。教師になって、担任の生徒があまり他の教師と仲良くしていると、嫉妬心が持ち上がるのは自然かも知れない。あの時の横山先生の心理が理解出来た。
 
 三人目は、中三の時に転勤してきた技術科の砂田先生だ。当時の技術科は、農業や商業という指導内容から木工、金工、電気などにカリキラムが変わった時期だった。それで、新しい授業に対応するため転勤してきたのが砂田先生だ。先生は、自動かんな、丸鋸などの大型工作機械を技術室に設置を始めたのだ。本来大型工作機械の設置工事は、業者にやってもらうものだが、当時は教育予算が少なく工作機械を買ってもらえただけもありがたかったのだ。
 教員になってわかったのだが、当時「産業教育振興法」(略称 産振法)が出来て、教材教具だけは国の予算が付いたのだが、設置費は別で市町村が負担しなければならなかった。
 
 砂田先生は、技術室の床を掘り返し、型枠を埋めてコンクリートを練って大型工作機の据え付けを開始したのだ。この大変な作業を特に手伝う教職員もなく、砂田先生一人でがんばっていた。これを見て、私たち中三男子数名が手伝うことにした。特にたのまれたわけでなく勝手に手伝いを始めた。
 
 教室の床をバリバリはいで穴をほる土木工事は結構大変であった。予想以上に土が出て運び出さなければならなかった。そして、外で砂利とセメントを混ぜ、生コンを作りバケツリレーで床に放り込む作業は思ったよりも重労働で大変だった。
 こんな大作業を教科の教師に任せっきりが当時の学校だった。
 
 黙々と作業を続ける砂田先生の姿に感銘したのだ。この砂田先生の行動をみて、いつか自分もこんな教師になりたいという思いが強くなっていた。
 
 何日目かの放課後の手伝いの時であった。砂田先生の担任のクラスの一年生の女子が二人がこの工事を見学にきた。この二人の女子は、特に手伝うわけでもなく遠くから見ているだけであった。
 
 手伝っていた一人が、
「腹減ったな なにか食いに行くぞ」
と誘ったので、私も付いて行く事にした。すると二人の女子が、
「お土産買ったきてよ」
という声がかかった。
「なんも買ってこんよ」
 私たちは、街へ出かけおやき屋に入った。私も二個のおやきを買って食べた。腹のへっていた私たちにとってはご馳走だった。私は、ふと二人の女子を思い出した。
「お土産かってきてよ」
の声である。
 だが私は、あれは冗談だと思った。祖母の家に下宿している私には、両親はある程度余裕のある小遣いを渡してくれていた。数個のおやきを買うことは容易なことであった。
 
 技術室に戻って再び作業の手伝いを始めた。するとさっきの二人の女子待っていた。
「お土産は」
と催促の声がかかたった。とっくに帰ってしまったと思った二人の女子が、お土産を買って来ることを期待して待っていたのだ。なにも買って来なかった私たちに、予想以上に落胆して二人は帰って行った。
 その後、私は、きっと二人はまた現れるだろうと思い、ポケットには、おやきが五、六個買える小銭を用意していた。だが、ついに卒業まで二人の女子に会うことはなかった。この二人には、弟や妹にせがまれたように思ったのだ。
 
 私が、教育大学受験で、「技術科」を第一志望に書いたのは、砂田先生の黙々と生徒のために作業をしていた姿をみて感動したことにあるように思う。
 また、小言ばかりを言うのではなく、おおらかな学級経営をする横山先生が教師の魅力に思えたのだ。どんな教師に会えるか、会ったかが人生を変えるようだ。
 ちなみに大学受験で「技術科」を第一志望と書いたのは私一人で、皆は数学、理科など主要教科を希望しいた。
 私以外は、調整されてやむなく「技術科」に籍を置いたというのだ。
 だが、人生は不思議なものだ。希望しないで回された技術科で工作の基礎を学び、木工加工や金属加工で腕をみがいた。その後、日展などで工芸作品が次々と入選、全国で活躍している仲間もいるので面白い。
 
 
 太田小中学校は、小中合わせて生徒は、六十三人だ。教職員は、校長を含め教員五名であった。数年前の大雨で校舎が流された。新築校舎で外構やグランドは、まだブルトーザーで荒く整地したままであった。教材教具も入ったばかりでまだ梱包のままのものもあった。
 二十代の女子教員一名、二十二才の私、三十代の男子教員、四十代の男子教員、そして、四十代で若くして昇任されたばかりの野口校長の五名である。
 早速職員会議が開かれた。私の学級担任は、四年、五年、六年生の小学部高学年の担任と校務分担は保健体育係りに決まった。
 四年生、五年生、六年生のように三学年が一クラスで学習する、「複々式」と言われる学級だ。
 経験の無い方は、一クラスに三学年も入るクラスはどんな学級か理解出来ないかもしれない。私の小学生時代は、正にこの複々式学級で勉強した。このような学級を指導するには、一学年当たり十五分程度の細切れに指導していくか、三年間を見通して一年毎に今年は六年生の教科書、次の年は五年生の教科書、次の年は四年生の教科を指導というようにローテーションを組んで指導するのだ。
 いずれにしてもかなり無理な指導法で、指導する教師も授業を受ける児童生徒も大きな負担とロスが発生する。
 メリットも無いわけでない。同じ教室で、別な授業も行われている訳だから、教師の声も聞こえ板書も見えている。いつのまにか指導していない学年もその授業に参加しているのだ。私などは、手を挙げたくてそわそわしていたことが何度もあった。それを察して、教師が学年違いの私を指名してくれた事もあった。
 
 この複々式学級で六年間授業を受けていた私には、それほど負担にはならなかった。だが、恐れていたことがあった。校長を含め五人の教師は、中学部の英語の免許所有者がいなかったのだ。野口校長の原案では、中学部の英語の担当に原と記載してあるではないか。中学、高校、大学で通算八年も英語の授業を受けたのだが、成績はさっぱりのびず、結果嫌いでかつ不得意な教科になっていたのだ。新任者が、「英語は不得意です」と言えず、中学部のそれも一年から三年までの英語を指導することになってしまった。
 
 その他、校務の分掌の担当では、「保健体育部」となった。「部」と言っても、部員は新米の私一人なのだ。仕事の内容は、「児童生徒の健康管理、校内の衛生管理、校内の環境整備」などとなっていた。
 
 大規模校も校務分掌はほとんど同じ仕組みであったが、大きく異なるのは、一つの分掌に教員が五人から十人が配置されていて、年長者の部長がまとめている。
 学年も複数学級あると「学年主任」というまとめ役がいて、各担任の意見を集約して組織的に動く。今週は、国語は教科書の五ページから八ページまで進む等の打ち合わせがある。
 ところが、校長以下五人の超小規模校では、たった一人の部長が原案を作成し、それを職員会議に提出して了解を得られるとすぐ実行出来る。
 
 早速一学期が始まった。入学式PTA総会、歓迎会などがまとまって一斉にスタートした。入学式と言っても小さな体育館に六十人ほどの生徒、五人の教師、新一年生の父兄数名、PTA会長とこぢんまりとしている。新任の私の紹介や挨拶もあったがなにを話したかは殆ど記憶にない。
 
 初めての担任である小学部高学年の教室に入る。生徒は四年生、五年生、六年生の計十五名だ。学級の中に四年生と六年生に野口校長の娘さんがいた。最初は、私の学級指導や授業が伝わり野口校長に批評されるのはないか心配した。しかし、それは私の思い過ごしで、二人の娘さんから伝わっていたかもしれないが、野口校長は、私の学級指導や教科指導に特段の注意をすよるうなことは一度もなかった。
 二人の娘さん達は、明るくクラスメートとすぐ打ち解けた。学習面でも優秀であった。一学年が四・五名という小さな編成だが、村の子ども達の学力は高く、また学習態度もよかった。
 学級指導も教科指導も子ども達は、素直に参加してくれた。新米教師のへの思いやりだったかも知れない。
 
 五月の連休に入った。慌ただしく過ごした四月から、わずかに余裕が出来た。元校長住宅であった古くて広い住宅の清掃や函館から持って来た荷物を整理するのにはありがたい休日だった。
 一通の手紙が舞い込んだ。つい二ヶ月ほど前に卒業した函館教育大学の教授からであった。
 封を開いて、驚いたのはその内容であった。
 「就職したばかりなのににすまないが、大学の助手として戻ってくれないか」
と言うのだ。
 確か、三年生の時に主任教授から、大学に残ってくれないかとという打診を受けたことがあった。私は、ありがたい誘いだと思ったが、この話は断った。理由は特になかったが、現場の方が良さそうに思えたからだ。
 同じ技術科の別の教授からの誘いであった。教員として着任わずか一ヶ月後の事である。
 早速、婚約している典子に電話をかけた。彼女も今の田舎での生活を予想していたので驚いた。両親にも相談して意見をもらうとのことで、電話は切れた。
 数日して、典子から速達が届いた。父親は大学に戻ることに大反対だということだ。理由は、「教員として僻地の教育にがんばるとつい最近宣言していたにもかかわらず、大学に戻りたいとはなにごとか。大学に戻るなら婚約は解消だ」というのだ。
 後で聞いた話だが、父親の師範学校の同級生が大学に残り、結局教授になれなかったそうだ。万年助手で過ごすより、教員としてがんばった方が前が開けるというのだ。妻の父親も教員で、苦労している仲間を多数見てきた。たいした能力のない私を心配しての発言だったのだと思う。
 結局この誘いを断り、五月の夢はあっと言う間に消えてしまった。 
 
 連休が終わり、再び授業が始まった。校舎が完成したばかりで、教材教具は殆ど入っていないので、中学部の技術科の授業に困ってしまった。それで、野口校長に相談して、校舎回りの環境整備を技術の授業で行うことにした。保健体育部長としても良い教材だと考えた。
 校舎の回りとグランドは、ブルトーザーで整地しただけの荒削りで、草一本生えていない殺風景だったからである。一応、技術科の授業らしく生徒には校舎前の花壇を二面と池を一面作る設計図を三角図法で書かせた。
 花壇の枠を作るコンクリートブロックと池を作るためのセメントの購入は野口校長が手配してくれた。
 これが大規模校であれると、私が起案して保健体育部から職員会議を通過、管理職の決済、事務での予算化等々実際花壇が出来るまで少なくとも二年や三年ははかかる。即決出来るのは、小規模校の特権だ。
 
 この作業は、技術の授業だけでは時間が足りず、放課後にも作業をすすめた。十人ほどの中学部の男子も一生懸命で汗を流してくれた。花壇の土は、学校の裏山から腐葉土をかき集め、敷き詰めた。腐葉土はよい肥料となり植えた花は元気に育った。理科の観察に使う朝顔などの教材用の花も予想以上に良く育った。
 
 池は、大きな岩石にぶつかり難工事であった。野口校長自ら作業に参加してくれ、なんとか一メートル近くを掘り進める事が出来た。コンクリートの型枠は、校舎建築の際に出た廃材をかき集め作った。驚いたのは、技術科卒業の私顔負けに野口校長の木材加工技術が素晴らしいのだ。小さな学校の教員は、用務員も兼務しなければならないことが多い。ちょっとした工作技術は必携なのである。
 コンクリートを打って一週間ほどが過ぎた。枠木をはがしいよいよ水を入れることになった。幸い水道の塩ビパイプは校舎の前に埋設されていて、野口校長が池まで塩ビパイプを引いた。
 なみなみと満たされた水に生徒たちは歓声をあげた。すべての作業に中学部の男子の手が加わった作品が完成したのである。そして、どんな魚を入れるかなどそれぞれの夢を語った。
 
 その日の夕食は、野口校長が誘ってくれた。池の完成祝いなのだ。校舎の左端にある校長住宅は、風当たりも強いが、見晴らしも良い。
 テーブルには、奥さんの手作り料理が並んだ。カレイの唐揚げは、村の前浜で釣れた新鮮なものだ。他の職員も混ざり宴は夜遅くまで続いた。
 
 翌日、完成して水を満たした力作の池をみて驚いた。水位が大きく下がっていた。
「校長先生、使ったセメントは防水用でしたね」
「そうだ。高かったんだぞ」
 登校してきた生徒達ちも池を覗いてさわいでいた。
 
 ちょうど隣町からパン屋が今日の給食のパンをバイクに積んでやってきた。
 水の抜けた池を見て、
「大丈夫、防水ペイントを塗ると水もれは防げるよ」
とアドバイスしてくれた。野口校長は早速隣町の雑貨屋に防水ペイントを注文してくれた。
 
 数日後に防水ペイントが届き、生徒と一緒に青い防水ペイントを塗った。ペンキの乾燥を確かめ、水を満たし翌日を楽しみにした。パン屋の助言のとおり、池に満たした水はほとんど減っていなかった。
 池に魚を入れるため、一月ほど水道の水を流し、ペンキの油成分やコンクリートの灰汁を抜いた。
 川から山女魚を二十匹ほどすくいこの池に入れた。特に水質に問題がなかったようで、魚たちは元気に泳いでいた。それもそのはず、水道の水は近くの川の水をそのままパイプで引いてきていた。魚にとって川の水には変わりなかった。
 
 二学期の始まる頃には、二面の花壇の花が咲き始め学校の花壇らしくなった。小学部低学年の朝顔の観察も出来る。村の人が自宅の庭で育った花を持ってきて、花壇は賑やかになった。
 池に入れた水草は、魚が食べたのか、いつのまにか見えなくなってしまった。魚たちは、鯉の餌で元気に泳いでいる。これで蛙が来て、おたまじゃくしでも泳いでくれると良いと思ったが、蛙はその後見かけたことはなかった。
 
 保健体育部長の大きな仕事がすぐやってきた。運動会の企画と運営だ。前任者の資料を参考に運動会計画書を職員会議に提案した。小規模校を卒業している私にはこの学校の運動会の様子が想定出来た。そして、室蘭の成徳中学校での放送係としての経験も大いに役立った。
 小規模校での行事運営のポイントは、いかに保護者の協力を得られるかだ。運動会企画書に予め手伝ってもらう保護者の人数を記載した。
 ダンスや組み体操などは、先輩の先生方がしっかり指導してくれた。
 それにしても、計画書は、わずか五部作れば良いのだ。だが初めて体験するガリ版の原稿作りは大変だった。もともと悪筆の私の癖のある字は謄写印刷には合わない。見かねた野口校長がガリ版の原稿作りを指導してくれた。ヤスリの目に合わせ鉄筆での原稿作りにはかなり苦労した。しかし、野口校長のガリ版での作業を見て大いに参考になった。結局時間をかけて丁寧に書く以外に上達の道はないことが分かった。
 
 謄写印刷の達人の野口校長だが、十二月のある日、教材屋が新発売の「ファックス」という原稿を作るマシンをデモに持って来た。その機械は、鉛筆書きした原稿を回転する筒に取り付けると、隣の筒に巻いた薄いプラスチックシートに転写され、謄写版の原稿が出来るというものだった。現在電話機に付いているFAXと同じ原理だ。手書きのものが、文字であれ絵であれ五分ほどで謄写印刷用の原稿が出来てしまうのだ。
 野口校長は、このマシンに大いに興味を示し、結局購入を即断したのであった。確か価格は二十万円前後だった。現在の物価にすると百万円位になると思う。今でも小規模校で百万円の機器を購入することは大変なことだ。
 このマシンが入って、一層野口校長の印刷技術は向上した。私も学級通信などの印刷物に内容に応じたカットを野口校長に描いてもらった。
 このマシンが入って、私のガリ版印刷の原稿作りはわずか数ヶ月で解放されたのだ。多分このファックスの導入は、北海道内の学校でも最も速かった思う。多くの学校に普及し始めたのは数年後だった。
 
 
 九月には、典子との結婚祝賀会を室蘭の成徳中学校の横山先生のクラス会が中心になって開いてくれた。すでに女子の中には結婚している者もいたが、男子としては最も早かったのではなかったかと思う。勿論媒酌人は、横山先生ご夫妻であった。
 中学三年の秋に職員室に二人が横山先生に呼び出され、
 「君たち達付き合って見ないか」
と言われて八年後のことであった。
 
 結婚式の後の太田までの帰路が新婚旅行であった。
 もと校長住宅ではあったが数年前の水害で浸水し、補修をしてあるものの廃屋に近い。典子は驚いたに違いない。
 台所もよく見ると壁の板の隙間から外が見える。絶対ガス中毒をしない構造である。雨の日は、部屋の何カ所かに雨漏りがするので、雨が降り始めると桶などをならべた。
 一度、天井でネズミを追いかけていたドラ猫が、天板をやぶって妻の前に降ってきたという。落ちてきたドラ猫もなにが起こったか理解出来ず、しばらく妻とにらみ合い、正気に戻って慌てて外へ逃げ出たということだ。
 
 村の近所の人達も妻を歓迎してくれた。
「よくこんな田舎に来てくれたね」
と感心する人もいたとのことだ。
 典子は、
「私が外に出ると、近所のおばさん達が私のことを『かあさん』て呼ぶのよ」
と言っていた。「ねえさん」くらいに呼んでくれれば良いんだがと私は思った。結局「原先生のかあさん」で落ち着いた。若い女性でも結婚すれば、「かあさん」と呼ぶらしい。  
 村の人は親切だ。私の独身時代も捕れたてのイカやカレイ、ホッケなどを運んでくれた。妻が来てからは、その頻度が多くなった。妻がなれない手つきでイカをさばき外で干していた。物干しに三段も縄をはり干している様は、おかしかった。
「漁協に納めたらどうだ」
と私が冗談を言うと、
「漁協じゃなくて、室蘭に送るのよ」
つまり、両親のところに送ってやるというのだからしっかりしている。
 
 典子とこんな平和な時間が来るとは思っていなかったが、現実だった。あの高校の同窓会以来、典子とは八年間の文通が続いた。その間、会えたのは三度か四度だった。
 二人だけで食事をしていると、本当にこれが現実なのだろうかと疑った。だが現実なのだ。なにか気恥ずかしい気持ちで、典子の顔を見ることが出来なかった。
 
 やっと仕事に余裕が出来たのでアマチュア無線を再開することにした。電波管理局に新しい大成町太田に設置場所変更届けを提出し、住宅の裏山にアンテナを上げた。アンテナ上げには中学生の男子が手伝いに来てくれた。
 昭和四十二年十月の時点で、檜山支庁管内四局目のアマチュア無線局だ。一人は、江差町の梅津氏、そして、瀬棚町の杉村氏、厚沢部町の寺田先生、そして私が大成町だ。
 十二月、最初のボーナスの半分は、新しい無線機を買ってもらった。さすがに結婚してすぐの無駄遣いには自分自身抵抗があったが、典子は全くいやなそぶりは見せなかった。私の道楽を中学生の時から彼女は知っていたからだ。
 
 幸いにも十二月には、学校に行く坂道の空き地に教員向け住宅が新築された。私たちに新築住宅が与えられた。いままでのボロ屋ととは大違いの新築住宅に私たちは感謝した。海辺のボロ屋住んでいたときは、海が荒れると波の音が聞こえていた。岩陰のた新しい住宅までは聞こえてこなかった。その代わり夜になると狐なのか動物の鳴き声が良く聞こえた。
 
 週に三日ほど夜間に校舎の見回りをする日直が回ってきた。夜はゆっくりしたい先輩の先生方は積極的に受けようとしない。結局一番下っ端の私が多く引き受けていた。多分一夜の見回りの手当は百円位だったと思う。それでも家計に役立っていた。
 新築校舎だからそれほど怖いと思ったことは無かった。だがアルコールが入った夜は、さすがに見回りは大儀であった。そんな夜道で空を見あげると、澄んだ空に星がふるように鮮やかに見えていた。
 月給は、手取りで三万円弱だと思ったが、この夜の見回りと、まとめて三学年の担任をしている多学年担当手当、僻地で最高ランクの僻地五級の手当を合わせると四十才くらいの教員の収入だと先輩の教師が教えてくれた。
 それに村人からの魚や野菜の差し入れも大いに助かった。生徒のいない家からもお世話になった。
 
 沢山の差し入れをもらったことで思い出す。私の道楽が役だったのだ。
 テレビをはじめ家電の修理だった。街の電気屋は十二キロ離れている。太田地区では、修理を頼んでもなかなか来てくれないのだ。そうかと言って大型のテレビや家電を車で持ち込むのも大変ことだ。
 PTAの役員や父母に私の趣味がアマチュア無線だと言うことを話したことがきっかけで、家電の修理の依頼が舞い込むようになった。手持ちの部品もだんだん増えてきた。テレビでは殆どのメーカーの部品が揃ってしまった。修理には部品代はもらったが、公務員だからと言って手間賃はもらわなかった。
 すると忘れた頃に、
「先生、これ食べれや」
と新鮮な魚やアワビ、ウニ、野菜などをいただいた。妻にたのんで、酢飯を作ってもらい寿司屋の職人よろしく見よう見まねで寿司を握った。
「ウニやアワビは高くて寿司屋で頼んだことは無いぞ」
と言うと、典子も笑っていた。それを何貫でも食べる事が出来た。
 
 一度、街の電気屋に寄って、私が太田小中学校の教員で、村の家電の修理をやっている。商売に迷惑をかけているのでは無いかと問うた。すると予想外の返事が返ってきた。
「太田はねえ。出来ればあの海岸道路は走りたくないんだ。つい最近も落石で、タクシーの運転手と太田の人が死んでるのを先生も知ってるだろう。原先生には感謝してるんだ」
全くの予想外の答えだった。
 ただ、年末の私もゆっくりしたい時期にも緊急の修理依頼が舞い込んだ。NHKの大晦日の番組「紅白歌合戦」を観たいからだ。
 あるときは、漁船の発電機が調子が悪いから観てくれという依頼があった。あのいか釣り船の超でっかい電球を点けている発電機だという。結局見に行く事になって、初めて船室の大きな発電機を見た。エンジンから太いベルをかけられ、ゴウゴウと回っていた。
 私は、それを見てあまりの大きさに驚いた。しかたが無いので、十個以上も付いているヒューズボックスを一個毎に開いて眺めてみた。
 一個のヒューズが切れていることを発見した。予備のヒューズの箱から適当に選んで取り付けた。メインスッチを入れると船上のランプが輝いた。だがヒューズが切れたのにはなにか原因がある。
「久遠の港に入って、業者に見てもらって下さいよ」
 私は、念を押した。
 しかし、この家電の修理の経験は、後にバンコク日本人学校に赴任して大いに役立ったのである。
 言葉のことで想い出した。函館教育大学に入学したとき、研究室の殆の仲間が函館か函館近郊の出身者で、いわゆる「浜言葉」であった。最初私は、皆がなにを言っているのか良く理解出来なかった。しかし時間と共にだんだんわかって来た。そんな時、
「原、お前、いいふりこくな」
と仲間から言われた。
 それは言葉のことだった。私は、北海道の中央部の田舎に住んでいた。確かに北海道弁という多少の方言はあったがかも知れない。だがほぼ標準語を使っていた。それが研究室の仲間から、「いいふりこいてる」と批判されたのだ。そこで私も函館弁を出来るだけ話す努力をした。
 
 それは、十一月三日文化の日に開催の学芸会の前日のことだった。中学生、そして舞台美術の得意だった野口校長指揮のもと、舞台装飾のために様々な小道具作りの作業を進めていた。だが、舞台照明のために赤や青のセロハンフイルムが必要だということになった。午後二時近くだった。私と中三のS君とでバイクで久遠の街まで買いに行くことになった。隣町の久遠までは片道十二キロ、飛ばさなくとも一時間あれば往復出来る計算だ。
 行きはなにも感じなかったが、帰りの海沿いの道路にさしかかかって驚いた。波が山のように覆い被さり、道路は海水に洗われていたのだ。
 後ろのS君が、
「先生、波は三枚目が大きいんだ。三枚目が引いたときに進んで、岩陰で三枚目をやり過ごして下さい」
さすが漁師の子どもである。
 S君の言うとおり、三枚目の大波が去ってすぐアクセルを回し、そしてさっと岩陰に入る。また、三枚目をやり過ごすしながら太田目指して帰路を急いだ。
 ところが隠れる岩がないところで大波を受けてしまった。どっと返す波にもまれ、車輪が波にさらわれた。必死に二人は足を踏ん張った。車輪がほとんど海水に浸かっているのが見えた。目の前が青々とした海なのだ。海草も見える。瞬間、私は
「駄目だ、波にさらわれる」
と思った。バイクは返す波に押し流されて海の方へずるずると動いた。幸いなことに二人の体重と本田のバイクCB300の重量二百キロが一メートルほど海側に引っ張られたが踏み止まった。
 その時バイクの排気音は全く聞こえなかった。
「エンジンが止まった」
 私はそう思った。だが奇跡が起きた。スロットルを回すと海水をかき分けるように音もなくバイクは動いたのだ。
「やった! S君しっかりつかまれ。スピードを上げるぞ」
 バイクは、ボコボコという排気音を響かせ海岸淵を突破したのだ。 
 
 太田での初めての冬がやってきた。海は鉛色に変わり、毎日大きく荒れるようになった。村の漁船は、船を出すことが出来ず、何処の家も漁具などの手入れをして、静かに過ごすようになった。
 そんな時に、村の青年団からラジオ製作会の講師依頼があった。会場は、旧我が家の隣の水害にあって大破した旧太田小中学校の校舎である。冬になるまで若い人達は、朝早くから漁に出かけ、私とは全く生活時間帯が違うので会う機会はなかった。PTAの誰かが私の事を紹介してくれたようだ。
 青年団と言っても十代から三十才近い独身の男性ばかりの五人であった。学校の技術科のペンチや半田ごてなどの工具を借りて、真空管ラジオの製作にとりかかった。五人は熱心に作業に取り組んだが、毎夜二時間ほどの作業で完成には一月ほどを要した。ただ青年達の目的はラジオ作りの他にもう一つ大事な目的があった。そう。飲み会だ。
 私たち教員は、それほど大きな収入もないサラリーマンだが、彼らはかなり裕福に見えた。だから普段私が口にしていない一級酒が振る舞われた。そして、漁師には高収入にもかかわらず、なかなか嫁が来ない事などが話された。安い給料でも漁師を辞めて都会に出て行く若者が多いというのだ。
 このラジオ製作会で、やっと村の若者との関わりが出来たことは私にとってもありがたいことだった。
 この完成したラジオだが、昼間は殆ど聞こえず、夜間は大陸の放送が強力で、日本の放送は小さくしか聞こえなかった。
 
 太田小中学校での教員生活は、私にとっては実に楽しい毎日だった。それに対して典子は、ショッピングも出来ず、また、年の近い女性の友達も出来ず、つらい単純な生活だったにちがいない。買い物も私のバイクの後ろに乗って、十二キロ離れた久遠の街に食料や日用品を求めに行く程度であった。
 そこで、家計にはかなり負担であったが中古の軽自動車スバルサンバーを購入した。これも函館の無線仲間が経営する会社から安く譲り受けたものだ。これで、買い物が楽になった。スピードは出ないが函館までや妻の実家の室蘭にも出かけられるようになった。ただ、当時の軽四は力が弱く、中山峠の坂ではエンジンがあえぎながら登っていた。坂の下では時速六十キロだったものが、坂の八合目近くではアクセルを踏んでも三十キロまで落ちてしまう。私の車が、この村で二台目の自家用車になった。 
 
 夜の校舎見回りの帰り道に海を眺めると、水平線に漁り火がきれいに並んで見えた。八月に入ると三日間も臨時休校になった。子ども達がイカ干しを手伝うために動員されるため学校を休みにするのだ。私は、農村地区で育ったので農繁休暇を経験していた。稲刈りのために子ども達が動員される。
 子どもと言っても中学生くらいになると大人顔負けの仕事をする。太田地区でもイカ漁の最盛期は、子ども達の手が必要なのだ。
 ただ、それも昭和四十年代後半に入ると、漁港の冷凍工場の整備がすすみ、スルメイカではなく、生のまま冷凍をしてしまうようになり、臨時休校も無くなった。
 このスルメイカの天日乾燥で太田の村は一面どの家にもイカのすだれが出来た。私たち教員は、特定の家の手伝いは出来ないので、生徒の来ない学校に勤務した。 
 春は、遠くカムチャカ方面に漁に出るマス漁が始まる。村には、何艘かの大きな船があり、一ヶ月近くも遠洋漁業に出かける。村の漁師にとって大きな収入源になる。船が帰って来ると乗り組み員一人ひとりに何匹かの鱒や鱒子が渡される。
 それが、
「先生、食べてけれ」
と私たち教員にも分けられる。何軒かの父兄からもらうと結構な量となる。この時期の鱒は脂がのって実に旨いのだ。また、上手に醤油漬けされた鱒子も旨い。こんな贅沢は、都市の教員には経験出来ないことだ。
 ただ、私たち教員にも義務があった。村では毎年のように新造船が造られ、私たち教員も造船祝いに招待された。その際、なにがしの祝儀を包まなければならないのだ。
 
 野口校長に新米の私が提案していくつかを実現した。野口校長は、私の提案に反対したことは記憶にない。
「よし、おれも手伝ぞ」
と、提案した私以上に積極的に行動してくれるのだ。
 その中で、私が提案して失敗したと思ったのが、グランドに作ったスケートリンクであった。荷が重すぎたのである。
「太田は、冬の遊び場が全くないので、スケートリンクを作りませんか」
と私が提案したのが事の始まりであった。
 そんな話の後の一週間ほどしたことである。
「原先生、スケートリンクの木枠を確保したぞ。今度の日曜日に取りに行こう」
と言うのである。私のスケート歴は、大学時代に友達に誘われ、函館の室内リンクで数回練習しただけで、全くの素人だった。だが、野口校長はもうリンクの構想をすっかり固めていたのである。噴火湾沿いにある落部という町がある。そこの木材製材会社に勤務する親戚が、合板を製造した際の規格外品を大量に分けてくれると言うのだ。
 早速次の日曜日に小型トラックを借り、私がトラックを運転して野口校長、私、そしてもう一人の男子教諭と三人運んで来たのだ。初めて運転する小型トラックは、カーブを曲がる度に大きくゆれて怖かった。
 当時の太田は、道南にもかかわらず冬は強い北風が吹き、連日零下十五度まで下がった。
冬休みに入る直前、グランドには幅二メートル一周百メートルのビニールを貼る作業に入った。職員と中学部男子が総出で作業を始めたが、風の強さには閉口した。
 十人くらいでビニールを押さえ、固定するための杭を打ち込もうとしてもアット言う間に吹き飛ばされてしまうのだ。もう日が暮れて気温もどんどん下がって来た。
「校長先生、今日はあきらめましょう」
と私が言うと、
「そうしよう」
と野口校長も片付けを始めた。
「原先生、今晩一杯やるぞ。残念会だ。奥さんも娘さんも連れて来なさい」
 ありがたい誘いだ。私たちは、野口校長の誘いに応じて、家族で校長住宅にお邪魔した。
 
 テーブルについて、開口一番野口校長が口を開いた。
「原先生が止めようという前から、私も中止判断をしてたよ。これ以上原先生が続けようとしたら『職務命令だ!中止だ!』と叫ぼうと思っていた」
というのだ。
 皆は笑ったが、風の力には驚いた。ビニールシートを持っていた十人があっと言う間に吹き飛ばされたのだ。それを数回繰り返したのだ。
 難航したビニールシート張りも風の無い日を選んでなんとか終わった。心配なのは、本当に氷が張るのかだ。
 幸い気温はどんどん下がり、毎夜零下十五度近くが続いた。ビニールパイプとビニールホースを使って水を入れた。そこで分かったことは、水がたまった所は氷が出来ず、地面が少し高い所の水は凍っていたのだ。水を貯めても凍らない。少しづつ水をまいて氷を厚くしていくしかないと判断した。
 それからは、夕食後に野口校長とグランドに水まきをすることになった。幸い毎夜気温は下がり、雪も降ったおかげで日増しに氷が厚くなった。
 この日のために函館の知人にたのんで中古のスピードスケートやフィギュヤのスケートを二十足ほど送ってもらっていた。この中古スケートのエッジたても苦労した。本を見ながら専用の砥石で修理をした。
 十二月三十日、ついにリンク開きが出来た。生徒達は、すぐに滑られるようになり楽しんでいた。わずか一周百メートルなので、競技は出来ないが楽しむことが出来た。
 ただ氷が強い風によってやせていくので毎夜の水まきの作業は続いた。いや続けざるを得なくなったのである。幸い五十日間リンクを維持できた。
 このリンク作りは、私がバンコク日本人学校に転勤するまでの三年間続ける事になってしまったのだ。さすがに体力に合わない仕事は作らない方が良いことが分かった。
 
 この記録では、私がどんな授業をしていたか本職の学習指導の話が少ないが、一応教員としての教科指導もがんばっていた。小規模校で多くの教師が苦労しているのが多学年学級を指導する、複式、複々式授業だ。私は、小学生の六年間この授業を受けたから最初からベテラン教師のはずだが、やってみるといかに大変な事かということが分かった。父もこの複式、複々式授業を空知管内で三十年間続けていたのだから、今更ながらその偉大さに気づいた。
 幸い太田小中学校には、時代の最新式教具のOHPとリコーの録音教具マイティーチャーが揃っていたのだ。マイティーチャーは、わずか八分程度の録音が出来て、表面に文字や絵を書き込めるシートになっている。音質は、それほど良いとは思えないがなんとか使える教具だ。色々視聴覚教育の本を読んで見ると、その使い方が紹介されていて、参考になった。だがこれらの一番の難点は、既製の教材が少ないことだった。
 わずか八分とは言え一枚のシート録音に結局一時間近くかかる。そして、文字面の作成にも時間がかかるのだ。只でさえ仕事の多い複式・複々校にとってこれらの教材作りは難しいのだ。
 私も国語、算数で何種類か作ってみたが、とても授業に間に合わずギブアップしてしまった。どうも開発した会社は、手作り教材を想定していたのではなく、完成した教材シートを使うことを想定していたのではないかと思う。ところが現場は、既製のシートを購入する費用がなかったのだ。
 教材を作ってみて、正答を出した生徒は次の問題に進めば良いが、間違った回答をした生徒に対する指導がないのだ。生徒は間違ったまま次の問題に進んでしまう。ところが現在のパソコンには、これをちゃんと補正するプログラムが付いていて、生徒の間違いに応じた指示が出るようになっている。
 OHPでは、教師が生徒に提示に使う教具としてではなく、生徒や教師の情報交換に使うという発想に転換をした。これを研究会で発表したことがあり、多くの教師から評価を得た。教具は教師と生徒、生徒と生徒の双方向の情報交換機能がないといけないと思っていたが、パソコンはそれを実現してくれた。
 
 これは、低学年の組の教師のリクエストだった。複数学年のうちの一学年にだけテレビを見せたいのだが、数本イヤホンの線の取り扱いが面倒だ。無線にしてほしいという要望だった。
 私は、無線だと送信機と受信機があればすぐ実現するが大きな経費がかかるので、電磁ループを使って無線を実現した。テレビの音声出力にループになる線を教室の隅に張り回し、それを簡単な磁気受信機を作り個々の児童の机の上に置きイヤホンで聞かせた。これは、送信はビニール被服線が十五メートル程度と磁気の受信機はトランジスタ一石で五百円程度で出来た。
 
 あるとき典子の兄からリクエストが来た。檜山支庁に勤務する兄の部局で、小中学生の発明工夫展を開催することになったというのだ。だが、新事業のため管内の学校からの参加見込みは少ない。ついては太田小中学校で参加してくれないかと言うのだ。
 そういえば、そんな案内が教育委員会広報で流れてきていたことを思い出した。
そんな誘いを受けたことを野口校長に話すと、
「いいじゃない。参加しょう」
と早速許可が出た。
 実は、野口校長の日常を観察すると、小規模で予算の少ない学校なので、廃品などを使ってなんでも作ってしまうのだ。教具も野口校長の手作りが沢山あった。そうして始まった発明教育だ。私は朝の学級指導の中で児童がちょっとした工夫をしたことを発表する時間を作った。それまでの朝の会は、私からの連絡や児童の係りからの連絡などで、やや時間をもてあましていた。
 それが、発明工夫の発表の時間を組み込むと、時間が足りないほど発表が白熱した。ただ思いつきを発表だけではなく、定型の用紙に記録するようにした。
 
 私は、札幌に出た際には「発明工夫教育」に関する図書を探した。だがほとんど見あたらなかった。やっと一冊、東洋大学の恩田彰教授の著書「創造の科学」を見つけた。恩田教授の提案のように、教室に鉋や鋸などの木工工具、ペンチなどの電気工具などをいつでも使えるように置いた。
 そして、私が毎日朝の会でやっていたのは、ブレインストーミングと言って、職場などでアイデアを出す良い方法だと記述されていた。
 五月から七月までに児童の発表した工夫は二百を超えた。夏休みは児童と技術室で考えたアイデアの作品作りに励んだ。
 発明工夫展に出品した作品は、三十点近くで、檜山管内の小中学校からの総出品数約百展の三分の一を占めていた。
 九月の新聞発表を楽しみにしていたのだが、なんと十賞ほどの入選作品の八賞を太田小中学校が独占したのだ。無論学校賞もいただいた。
 このことが北海道新聞に大きく紹介された。以後毎年太田小中学校が入賞を独占した。新しい伝統を作ったのだ。
 私がバンコク日本人学校に赴任した後もこの伝統は続き太田小中学校が賞を独占していた。私が三年経って、同じ檜山管内の江差小学校に勤務した際もこの発明工夫展に児童を参加させた。結果入賞はほぼ二校が独占した。太田小中学校児童数六十人の知恵に対し、江差小学校児童千数百人の知恵で対戦しても簡単には負かすことが出来なかったのであった。伝統こそ力なのだ。
 
 三学期が始まった。私にとって初めての卒業生が三月には卒業していく。今年の卒業生は全員本州に就職する。卒業生の担任ではないが、なにか彼らのためにお祝いをしたいと思った。なにか良いだろうと考えていたとき閃いた。太田中学校では、卒業記念アルバムがないということを聞いた。そうだ卒業記念アルバムはどうか。早速、野口校長に打診した。
「校長先生、ここの学校では卒業アルバムが無いそうですね」
 野口校長は、私の提案にのってくるだろうことを想定しての提案だ。
「作ってやりたいね。でも五部や十部では業者は作ってくれないんだ」
「そしたら手作りしませんか」
 私の提案にすぐ野口校長は乗ってきた。私は卒業アルバムの構想を話した。
「私のところに写真の引伸機もあるし、フイルム現像も出来ます。複写レンズも持ってます。写真は私が準備しますので、校長先生には、写真説明やカットをお願い出来ないでしょうか」
 私の提案は通って職員会議でも賛同を得られた。経費もPTAから出してもらえることになった。早速学校の写真アルバムから卒業生の九年間の写真を選びだした。記録されている写真は結構あって、良く九年間の卒業生の学校生活を記録していた。私は最近の学校生活の写真を撮り始めた。野口校長、卒業担任、そして私で二十ページほどの卒業アルバムの構想を練った。
 結果、九年間の写真の複写が三十種、最近の生徒の学校生活の写真、教職員との集合写真など編集計画がまとまった。職員分も含め十二部のアルバムの製作だ。複写する写真は相当の枚数になった。暗室がないので、娘が寝てから我が家の居間で写真の現像と焼き付けをすることになった。
 台紙の写真説明やカットは野口校長が一手に引き受けてくれた。
 私は、典子を助手に写真の複写や焼き増し作業を進めた。
 野口校長は企画にしたがって、丁寧に説明文やカットを書いては最新のファックスで印刷原稿を作った。
 卒業アルバムはなんとか卒業式までに間に合った。卒業生は、遠く離れた本州で、このアルバムを見て、故郷や太田の学校のことを思い出してくれるだろうか。
 
 
 太田小中学校での勤務も三年目を迎えた。新採用の私のいろいろ新し提案を受け入れてくれた野口校長と職員の皆には大いに感謝している。私にはもう一つ大きな企画を持っていた。学校アマチュア無線クラブの開局ある。昭和二十八年から再開したアマチュア無線は、個人の開局から新しい学校や職場に免許を与える社団局という制度が出来た。昭和四十年代には、全国の大学、高校、中学校にアマチュア無線局が開設された。電子立国日本の電子産業における人材育成政策であった。
 私は、少し違う方向で考えていた。僻地の子ども達が広い視野にたってほしいという願いだ。修学旅行以外に旅行の経験もほとんどない僻地の子ども達である。
 野口校長に相談をもちかけていた。
「生徒にアマチュア無線をやらせたいんですが・・・・」
 言っている私もちょっと無理だなと思いながらの提案だった。すると野口校長は、
「原先生、私もアマチュア無線をやりたかったんだよ。どうするんだ」
 なんと積極的にやりなさいというから提案した私も驚いた。
 アマチュア無線連盟に問い合わせると第二級以上の資格が講師に必要で、どんな地域でも講習会を開けるというのだ。私は、第三級相当の資格だったので、早速勉強して第二級を取ることにした。
 モールス符号の試験では自信がなかったが、工学や法規の試験は自信があった。札幌で国家試験を受け、無事第二級アマチュア無線技士の資格を得た。
 
 もう一人の講師が必要だと言うことで、厚沢部町の小学校校長の寺田先生が一級を持っていることが分かり、講師を依頼した。書類審査では最低二人以上の講師が必要だが、実際には一人の講師が法規と工学の二科目のを兼務して指導しても良いことが分かった。寺田校長には、私が体調不調の場合は講師をしていただくようお願いした。
 ただアマチュア無線の初級とは言え、工学では四則計算は勿論、分数計算、ルート計算も出題された。法規二十時間、工学二十時間、計四十時間の授業は大きな負担だ。
 
 アマチュア無線資格取得の講習会開催の手はずは整えたが、生徒は受けてくれるか心配はあった。ところが募集を開始すると小学部の四年生以上の殆どが応募してきた。そして、野口校長までが受けるというのだ。
 多くの生徒が無線の資格取得に応募してきたのは、殆どが漁師の子弟で、どこの家の船にも無線機が付けられていて、無線に対する意識が高かったと思われる。
 昭和四十五年三月末、春休みを利用して四十時間の講習会が始まった。生徒二十六人、そして野口校長が受講者だ。新卒三年の私が校長の前で授業をするのは緊張した。教員として大ベテランの野口校長は、私の板書一つでも一言指導したいと思ったにちがいない。ただ、最後まで私の授業に対する評価は一言もしなかった。受講生に徹してくれたのだ。
 幸い生徒も全員合格点をとったようで合格通知が届いた。
 
 六月には、学校アマチュア無線局コールサインJA8YIMが開局した。何度か新聞記事として、太田小中学校のアマチュア無線局開局について報道された。おかげで多くの北海道のアマチュア局から部品やアンテナが届いた。開局申請中に国内のアマチュア無線機器製造会社にも無線機やアンテナの寄贈をお願いした。
 開局申請料などの経費は、野口校長のアルバイトの資金を提供してくれた。野口校長は、本来校務補がする煙突掃除や冬期間の校舎回りの除雪などやっていた。地域の人にたのんでも時給が安すぎて誰も来てくないのだ。やむなく野口校長自らが校務補の仕事をこなさなければならなかった。
 幸いメーカー各社から機材の寄贈の申し出が続き、無線機とアンテナが揃った。
 中で困ったのが、短波のアンテナの支柱だった。久遠の町の農協に頼んで長さ八メートルほどの孟宗竹を二本注文した。だが配達はしないという。やむなく車二台で中学生六人を乗せて運び、孟宗竹を二本を十二キロの海岸道路を担いで持ち込むことにした。幸いその日は天気がよく二本の孟宗竹は太田小中学校に無事届いた。
 
 まだ小学生を含むクラブ局がなかったので、生徒が電波を出すと、全国から交信の声がかかった。交信は、私が生徒の横について昼休みに電波を出した。交信相手は、子ども達は勿論、私も知らない全国の市町村から声がかかった。この地域からほとんど出たことが無かった太田小中学校の生徒が、電波で全国とつながった。
 
 当時、瀬棚町の消防署の署長であった杉村氏(JA8BQE)は、毎日のように声を掛けてくれた。ある時、杉村氏が新しい消防車を本州からフェリーで運んで来た。そして、船上から生徒達に電波で声をかけてくれたのだ。
 この交信が縁で、交信カードは東日本海フェリーの会社から絵はがきが寄贈された。そのカードにコールサインを印刷して、交信相手に送った。当時まだカラー写真のカードなど珍しい時代だった。 
 太田小中学校は、山に囲まれほとんど海は見えなかった。山間から見えるのは、わずかに奥尻島の一部であった。山に囲まれているので、超短波は殆ど何処とも交信出来なかった。
 ある日、中学生の一人が百四十五メガヘルツという超短波帯で呼び出しをしていた。超短波は見通し距離しか届かないのである。高い山に囲まれた太田では何処にも届かないと思っていた。突然函館の局が応答してきたのだ。
「すごい、函館だぞ」
 私は驚いて、屋根上の八木アンテナを覗いた。函館とは全く方向の違う奥尻島に向いているではないか。
「そうか奥尻島の反射波を拾っているんだな」
 長年アマチュア無線をやってきた私も奥尻島からの反射波の強さに驚いた。
 
 そこで今年の夏休みの活動として、太田小中学校からの電波の伝搬(電波の伝わり方)をテーマに研究することにした。システムは簡単で、学校から電波を出し続け、太田からの電波が何処まで届いているかを調査研究するのだ。
 私と中学生二、三人が車で移動して八木アンテナを回して、どの方向から電波が届いているか軌跡を記録するのである。私も長年アマチュア無線をやっていたが、このような研究は初めてであった。そこで私は、NTTの江差無線中継所の無線仲間に研究の助言をもらった。NTTの場合も、中継局を建設の際は、厳密な電波の伝搬状況を調査するのだという。測定したデーターの処理の仕方などプロがやっていることを指導してもらった。
 夏休みにほぼ檜山管内を回りきった。
 
 百四十五メガヘルツ帯のビーコン信号は、自動送信でモールス符号の試験電波の略符号「VVV」の連続で太田小中学校のアンテナから送出された。私たちは移動場所でどの方向からどの位の強さで信号が受かるかを調べデーターを記録した。時々、野口校長が自動発信を止め、マイクを握って声を掛けてくれる。
「今どこに居るのかな、どうぞ」
「はあい。こちらはJA8YIM現在地は江差町の鴎島です」
などとのんびりした交信が続いた。
 
 それは、キャンプがてら松前町江良の海岸でテントを張った早朝のことだ。太田の電波を聞くため八木アンテナを一本砂浜に建て、朝食の準備をみんなでしていた。そこへ警察官が血相を変えて飛び込んで来たのだ。
「お前らなにしてるんだ」
そう、当時この松前の浜の周辺には、北朝鮮のスパイが上陸して、何人かが行方不明になっている事件が発生していたのだ。アンテナを見て不信に思った住民が、警察に通報したのだ。
「私たちはキャンプをして、アマチュア無線をやっているのです」
と答えるとスパイではないとわかり、
「お前達、こんなところでキャンプしたら北朝鮮に連れて行かれるぞ」
と注意された。
 確かに当時、このあたりの人が行方不明になったというニュースは知っていたが、危ない所に生徒を連れて来なければ良かったと反省した。
 このことを朝の交信で野口校長との交信で報告したが、事故が起こらなくて本当に良かった。
 この奥尻島の反射電波の伝わり方に関する研究は、プロの助言を得てまとめ、読売新聞社主催の「日本学生科学賞」に応募した。北海道では常連の有名高等学校を押さえて第一位に入賞した。全国では、残念ながら第三位に止まった。東京での表彰式への招待状をもらったが、学校行事の関係で生徒も私も出席出来なかった。
 
 昭和四十六年十二月二十八日、冬休みに入り急ぎの仕事もなかったが、職員室で野口校長と二学期の残務をしていた。昼過ぎに郵便が配達された。何通かの封書を開けていた野口校長は、
「原先生、応募してみないか」
と一通の北海道教育委員会からの文書を私の机に置いた。「第一回海外日本人学校募集要項」とある。そこには、外務省が海外にある日本人学校の教員を募集するとの通達であった。私も東南アジアで活躍している日本人アマチュア無線家と何局かと交信していたので、かなりの数の日本人が海外で仕事をしていることは承知していた。だが自分には全く関係がないことだと思っていた。
「日本人学校ですか」
 そのとき私が思ったのは、日本人学校で教鞭をとるということよりも、外国で電波を出せるかも知れないという不純な思いが強かった。外国で電波が出せるという魅力は私の心の中で強くわき上がって来た。
「校長先生、本当に行ってもいいんですか」
 まだ決まった訳でもないのに野口校長に問いかけると、
「学校はなんとかなる。受けてみなさい」
 実にありがたい言葉だった。新採用から五年が経過、やっと一人前に近く育あげてた教員を手放すのは勇気のいることだ。
 募集要項を持って住宅に戻り、この話をすると典子も考え込んでいたが、
「あなたが行きたいなら付いて行くよ」
とありがたい答えだった。実は、妻は妊娠三ヶ月で身重になっていたのだ。選考試験に合格するなど思っていなかったのかも知れない。とにかく正月が終わったらすぐ役場から住民票を取って、履歴書に貼る写真も揃え、早々に北海道教育委員会に書類を提出しなければならない。
 書類を提出して一週間もしないうちに札幌での面接通知が届いた。車で面接に出かけた。丁度冬期オリンピックの最中で、道沿いに真駒内アイスアリーナが見えた。
 面接は至極簡単な質問だった。面接官は五人、質問はほとんどが派遣された場合を想定した質問ばかりであった。例えば、
「何処の国への派遣が決まっても辞退しませんか」
「家族は、海外に行くことを反対しませんか」
等であった。
 二月の末には、私の海外派遣が決定したという通知が届いた。派遣先は、バンコク日本人学校であったが、すぐその位置を思い出せず世界地図を開いた。応募者は全道から三百人近かったという事だったが、英語や社会の教員免許が多く、技術は私だけだったらしい。北海道からは六人の派遣が決まった。
 
 三月末、私と典子、三才の長女は、五年間の太田の生活を終えることになった。妻の手には、何本ものカラフルな紙テープが渡され、私達の車は生徒や村の人々に送られ太田を去った。
 
 後日談であるが、檜山教育局は、太田小中学校アマチュア無線クラブを維持するため、ベテラン校長のアマチュア無線の資格のある寺田功先生(JA8ASC)を配置したのだ。寺田先生は、奥尻島の学校をはじめ檜山管内の僻地校に長年勤務され、最後の三年だった。当然これまでの長年の実績に報いるため、最後の勤務校は檜山管内の中心校に異動が予想されていた。
 なんと最後の任地は、僻地五級の太田小中学校であった。
 私が、小中学校のアマチュア無線クラブを、全国的に有名にしたために、指導の出来る
寺田先生を配置したのだ。
 
 
 
 
 
 
ブーゲンビリアの咲く街
   
 
     タイで生まれた泰美といっしょに
 
 
 
 昭和四十七年、四月十四日、私たち家族は、バンコクのドムアン空港に着いた。典子が一個、私が一個の大型スーツケース二個だけの引越荷物だ。長女幸枝はまだ三才だった。
 羽田空港の滑走路をDC9はアクセルをふかした。私たちは加速の重力で体が椅子に押しつけられた。典子は眼をつぶって言葉を発しなかった。なにを考えていたのだろうか。出産の心配かもしれないし、未知の生活のことを考えていたのかも知れない。
 
 私は、昨年十二月二八日から今日までの長かったようで短かった日々をを思い出していた。横浜での派遣前の研修、東京外務省のシャンデリアの輝く広間での壮行会、保健所での何種類もの予防注射など慌ただしい日々を過ごした。これらが頭の中で混ざりあった。
 
 機内は退屈であった。私は、太田小中学校での五年間を思い出していた。新米教師の私を指導してくれた野口校長やなにも言わずに協力してくれた先輩教師達のことを思い感謝した。五年間が一瞬の夢の出来事のことのように思えた。
 
 初めての機内食は旨かった。長女も今までに見たことのない洋食に喜んだ。ワインやビールも出された。私はワインをスチワーデスに注いでもらった。心地よい酔いが回った。
 
 バンコクドムアン空港到着の案内アナウンスがあった。地上を見ると一面の水田が広がっていた。所々に群生する椰子の木がなければ、日本の水田風景となにも変わらなかった。
 飛行機は、大きな逆噴射音を響かせバンコクドムアン空港に着陸した。飛行機のタラップに出た瞬間、どっと暑さが襲った。これまで経験のしたことのない蒸し風呂のような湿度だ。そして日本とは全く異なる空気の臭いが鼻を刺激した。
 空港は、裸電球が薄暗くともり、なにもかにもが古びて汚れていた。人々は、薄暗い中で忙しく動いていた。
 入国と通関は以外に簡単だった。初めて接するタイ人が予想以上に手続きをテキパキとすすめた。グリーンのオフイシャルのパスポートのお陰だったかもしれない。無論税関でひっかかるような物はなにも持ってはいなかった。
 税関のの出口を出るとポーターが何人も荷車を押して寄ってきた。みな旅行者の荷物を奪い合うように荷車にのせた。私たちの二個の大型トランクも荷車に乗せられた。
 ゲートを出ると、人垣の中に「原先生」と大きな紙を掲げた人物がすぐ目に入った。日本人学校の教員仲間が迎えに来てくれていた。ポーターには、いくら渡して良いか相場がわからなかった。千円札を一枚渡した。後日分かったのだがタイの物価にたいして千円は相当高額なチップだった。 
 私と典子と長女は、日本人学校のスクールバスに乗って、市内のホテルへ向かった。窓からの景色は、これまで見た事のない南国の植物だった。背の高い椰子の木以外は、名も知らぬ植物ばかりだ。私も、典子、そして長女も、見慣れぬ風景や無秩序に走る三輪車やタクシーに見入った。
 
 私たち家族は市内のアマリンホテルに着いた。案内された部屋には、バナナや名前の知らない果物が迎えてくれた。
 すでに先着の何人かの派遣教員家族が泊まっていた。
 
 夕食は、先着の教師の家族と、ホテルの一階の焼き肉レストランで取った。小さい皿毎に、牛肉、豚肉、鶏肉、野菜などが盛りつけられていた。それらを好みに応じて鍋にのせ焼くのだ。付けだれの他に何種類もの香辛料が用意されていた。私や典子、娘の幸枝は、キッコーマンの醤油を使った。
 新しく派遣された八人の教師のうち、幸いにも北海道からの派遣の三家族がいた。すでに横浜の研修で情報は得ていたが、今回バンコク日本人学校に派遣される八人の教師の中で二十七才の私が最年少であった。
 
 アマリンホテルは空調が効いて快適であった。ホテルのロビーには、日本の新聞が用意されていたが、二日遅れで届くとのことだ。
 このホテルには、日本人が多く利用するとのことで、私や家族も時々このホテルのロビーを利用した。全く知らない人達だが、日本語の会話が聞こえ、安心できるのだ。日本への電話も、このホテルでかけた。
 
 着任二日目は、住宅さがしであった。日本人学校のスクールバスに八家族が乗り、十数軒の戸建てやマンションを回った。ガイド役の教員が説明していた。今でこそ日本人学校の教員も立派な戸建てやマンションに入れるが、少し前までは、クーラーもないタイ式ハウスを間借りして生活していたという。
 丁度ベトナム戦争が終わり、アメリカ軍の家族が入っていた住宅の空きが出始め、日本人学校の教員も住宅難から解放されたのだ。
 見学したマンションも戸建ても想像以上に立派な物件ばかりであった。エレベーターが付き、プールもあった。家具もソファー、テーブル、ベット、クーラー、台所の冷蔵庫、ガスコンロなどが整備され、今日からでも住むことが出来た。
 何軒かを見終わって、大きな古いマンションに案内された。築年数が三十年以上経っているとのことだ。小路の名前のソイトンソンにちなんで、「ソイトンソンのプリズン」(ソイトンソンの刑務所)と言われているとの解説があった。
 皆は笑っていたが、私はそのマンションの左右の幅を目測で測った。そして、このマンションに決めた。私は、アマチュア無線でアンテナ建てるには最適だと思ったからだ。後日、大家の許可を得てマンションの屋根に短波のアンテナを張った。私の目測はかなり正確で、長さ八十メートルのアンテナを余裕を持って張れた。
 
 翌日は、バンコク日本人学校の入学式であった。校内見学を早々に、職員会議が始まった。学級担任や校務分掌が発表された。私の履歴書の情報からか小学部三年の学級担任と視聴覚部所属がすでに決まっていた。私は、この校内人事に特に意見はなく、原案を承諾した。
 職員室にはクーラーが数台設置され、ゴウゴウと音をたて白い水蒸気をあげていた。この職員室は以前日本大使館で使っていた建物で、小部屋の壁をはずし改築していた。そのため何本もの柱が立っていた。柱が遮り校長や教頭の席がほとんど見えなかった。
 
 午後からは、屋根の架かった風通しの良い中庭で入学式が準備されていた。紅白の幕がかけられ、日本の入学式を演出していた。ただ、周りにはブーゲンビリアの花が咲き誇り、南国の雰囲気があふれていた。
 
 バンコク日本人学校の児童生徒数は、小学部と中学部合わせて八百人ほどだ。戦後の日本の産業が復活し、海外との交易も盛んになった。当初は日本からの現地への派遣は単身赴任が多かった。だが、徐々に夫婦の派遣が多くなり、昭和三十年代に入ると子どもを連れて赴任する事も珍しくなかった。
 当初はインターナショナルスクールや現地の学校に通わせ、土日だけ国語を中心に指導する日本語教室が細々と始まった。指導は、現地タイ人と結婚した日本人女性や商社に派遣された者の中に教職免許を持った者がボランティアとして邦人子女の教育に当たっていた。しかし、徐々に日本の教育に準じた教育を受けさせていという親の希望が強くなった。
 日本大使館では、この要望に応え、日本大使館の一室を開放、日本語による教育がスタートした。これは、バンコクだけでなく世界の日本人社会に波及し、徐々に日本の教育を海外で実施するようになた。
 昭和四十年代に入り、日本の産業の発展と海外との交易が一層活発になった。海外勤務者とその家族はさらに拡大、子女の人数も増加した。
 外務省は、これらの邦人子女の教育のために、日本国内の国立大学に依頼、世界の日本人学校や日本語補習学校に教員の派遣を要請した。このシステムでバンコク日本人学校は東京学芸大学が担当し、同大学の教員を期間を限って派遣していた。
 しかし、大学からの派遣教員だけでは対応出来ず、現地人と結婚した教員免許のある女性を雇用したり、または、学校独自で日本から教員を呼び寄せた。その後、ますます日本人学校の児童生徒の人数は増え、従来の方策では対応出来なくなった。
 昭和四十七年、日本の外務省は文部省や各都道府県の協力を得て、全国の小中学校教員から海外日本人学校教員を募集した。
 
 上司であった野口校長がその募集要項を私に見せ、日本人学校教員を薦めてくれた。私がこの募集に応募して、話が予想以上に順調にすすんだ。私と家族は、ほんの数ヶ月前には予想もしない現実を迎えたのだ。
 
 小学部三年は、各クラス三十人前後の人数で、四クラスあった。学年主任は、日本語教室時代からのベテラン女性教師、鎌倉ヒルダ先生であった。バンコク日本人学校の生き字引で、学校の歴史をすべて知っていた。
 小学部一年から三年くらいまでは四クラス編成であった。しかし、学年が進につれ三学級、二学級と学級減となる。最後の中学三年のクラスは数名になってしまう。理由は、進学を心配して、母親と共に帰国する、あるいは親戚を頼って日本の中学校に通うのだ。
 学力の低下を心配することもあるが、文部省の規則にも問題があった。殆どの高等学校の入学試験要項には、国内の中学三年生では、「三月三十一日卒業見込みの者」に受験資格がある。しかし、海外の日本人学校に対しての受験資格は、「在外教育施設を卒業した者」となっていた。
 つまり、日本人学校卒業生はこの条文からすると、前年度に卒業していることが条件になる。また、県によっては、日本人学校の卒後生の受入を明文化していない。そこで、バンコク日本人学校では、卒業式を早め二月中旬に実施、卒業をさせたて対応していた。これで日本国内の高校受験資格を得ていた。
 私は、三年目の校務分掌で進路指導を担当した。そこで、不安定な国内の日本人学校受入状況を国内四十七都道府県を調査した。結果は、約半数の都道府県が具体的な受入について決めていないことが分かった。
 この調査結果を文部省の発行する月刊誌「文部時報」に発表した。その結果、多くの都道府県が、海外日本人学校中学部の卒業生の受入を明文化した。
 
 私が最初の年に担当した小学部三年生は、国内の児童と変わらず明るく元気であった。皆真っ黒に日焼けして健康そうに見えた。日射が強から顔の色も日焼けして真っ黒であった。顔の皮膚の色と唇の色がほとんど同じに色になっていた。
 教科指導は、殆ど日本国内の同じ教育課程であったが小学部五年生以上には、週に一時間だけタイ語があった。タイに長い児童はタイ語もタイ人の習慣もマスターしていた。着任したばかりの私にあれこれと教えてくれた。
 ある時私が、
「タイのバスの運転手さんは親切だ。停留所で無くとも手を挙げると止まってくれる」
と感心したことを話すと、タイ生まれの児童の一人が、
「先生、つい最近まで、バス停がなかっかたんだよ。バスに乗るには手を挙げれば止まって乗せてくれたんだ」
と教えてくれた。
 
 教科指導で困ったのが、理科の植物の指導だった。朝顔も向日葵も鳳仙花も季節に関係なく花を咲かせている。そして、実も付けている。やむなく私は、
「日本では、春に種を植えて芽が出て、夏に花が咲くんだ」
と説明しなければならなかった。
 
 バンコクの四月は暑かった。毎日四十度を超える。クーラーの付いた教室もあるが、小学部の校舎はタイ式で、壁面から風がはいるように工夫されていたが、四十度には変わりがない。最初は暑くて大変だったが数ヶ月後にはなれた。かえって職員室のように強くクーラーがかかっているところでは、不快に思うようになった。
 十二月に入って、最高気温が二十度前後になると、腕の皮膚に鳥肌がたっていた。人間の自然に慣れる機能に感心した。
 
 三年生の学級の指導と共に、私の専攻教科の中学部の技術科の担当も受けた。技術室は、昔の大使館のままの部屋であった。工作台が三台置かれていた。工具は鉋が一丁だけだった。
 これで技術の授業をせよと言っても無理だった。やむなく太田の学校でやったように製図から始めた。校舎の平面図を巻き尺を持たせながら進めた。幸い中学部の一学年は、数名であり指導は容易であった。
 
 一学期は、なんとか製図指導で時間をつないだが、二学期からが困った。教材は、年に一度新学期をめがけ文部省や日本人学校を整備している海外子女教育振興財団から送られてくるというが、一年間は工具はなにもないのだ。
 そこで、やむなく事務長にたのみ、半田ごて、ペンチ、ドライバー等の電気工具を購入してもらった。
 これで、簡単な電気の授業が出来るようになった。
 
 この授業のための工具や教材を買うためタイ人の公務補にバンコクの電気街を案内してもらった。日本人学校からは、スクールバスでも一時間近くかかる中国人街のバムモーロードであった。
 ここは、大小の電気屋が並び、秋葉原の数倍の面積があった。授業に使う教材はすべてここで揃った。私のバムモーロードとの付き合いはここから始まった。
 
 バンコク日本人学校は、日本の文部省から管理監督される公立学校的性格と毎月児童生徒から授業料を徴収する半官半民的な性格があった。だから教員も外務省から派遣された教員と学校が採用した現地採用教員とが分かれていた。
 国内から派遣される教員は、都道府県により多少の身分や対応が異なっていた。休職対応の地域もあったが、幸い北海道は研修扱いであった。研修中なので、北海道から支給される給与と外務省から支給される在留手当の二重が支給された。
 
 一丁だけあった技術室の鉋を使ってみた。入手できたチーク材に鉋をかけて驚いた。あっと言う間に鉋の歯がぼろぼろになった。そして、クーラーもなく密室になっている技術室は蒸し風呂であった。なにも作業をしなくとも汗が流れ出た。
 
 事務長にたのみクーラーの設置を願った。幸いすぐに三台の大型クーラーが取付られた。大型クーラーはかなり高額であったが、毎月授業料を徴収している日本人学校の資金は潤沢なようであった。これで技術室で快適な授業が出来るようになった。
 半年もしないうちに激しい雨が降った。まさかと思ったが翌日技術室に行ってみると床上三十センチ近くの浸水であった。数日で水は引いたが教室の湿度は高止まった。こんな時は、クーラーが威力を示した。クーラーをかけておくと湿度はどんどん低くなった。
 ある朝、なにげなく技術室のドアを開けた。一瞬前が見えなくなった。白い煙が吹き出したのだ。
「火事だ」
と私は驚いたが、煙は熱いのではなく冷たい風が吹き出して来たのだ。そう、火事ではなくクーラーが効いて零下の水蒸気が充満していたのだ。私が昨日の帰りにクーラーの電源を落とすのを忘れたことが原因であった。壁の室温計を見ると零下二度を示していた。
 
 中学部のクラブ活動がスタートした。既設のクラブにこだわらず新設クラブも可ということだったでので、私は「電子工学クラブ」を提案し認められた。電子工学クラブと言っても、簡単なラジオやアンプを作るクラブだ。八人の生徒が応募して来た。例のバンコクの秋葉原「バムモーロード」でパーツを購入した。クラブの生徒は熱心に製作に取り組んだ。
 
 私は、バンコク日本人学校にも学校アマチュア無線クラブをつくろうと当時アマチュア無線の養成課程講習会を実施していた日本アマチュア無線連盟に手紙を出した。在タイ日本大使館の敷地内である日本人学校でアマチュア無線の講習会を開催し、日本のアマチュア無線資格を取得させようと計画したが、やはり出来ないとの回答が来た。
 ところがアメリカFCCの仕組みは異なっていた。試験官の資格者がいれば、世界何処の国においてもアマチュア無線の資格試験を実施出来るのだ。あれから五十年が経過しているが、日本の制度は変わらず日本国内でしかアマチュア無線の資格取得出来ない。
 一方、アメリカ系のバンコクインターナショナルでは、アマチュア無線クラブを持っていた。この学校の指導者はアメリカのアマチュア無線の免許を持っていたようだが、生徒は無免許だった。だが日本人学校とインターナショナルスクールとは、タイ政府からのステイタスが違っていた。相手は、タイ政府から正式に認められた学校であるが、わが日本人学校は、日本大使館に付属する非公式な学校なのだ。
 低い地位にある日本人学校から無免許の生徒たちが電波を出すわけにはいかなかった。
 
 分掌の仕事として割り当てられて視聴覚担当の仕事も忙しかった。校内を一回りしてみると豊富な視聴覚機器が日本から送られてきていた。ただ、どの機器もモーターが回らなかったり、電球が切れていて動作するものが少なかった。
 原因は、タイの電源は二百二十ボルトで、うっかり日本製の機器を壁のコンセントに差し込むと一瞬にして壊れてしまうのだ。
 そこで私は事務長にたのみ、ランプの交換出来る機器は全部二百二十ボルト球に交換した。モーターが入っているものは、小型の二百二十百ボルトを百ボルトに変換するトランスを機器の内部に取り付けた。これで、校内のすべての機器が動作出来るようになった。この電圧変換工事には、一学期中かかったが、校内すべての視聴覚機器が二百二十ボルトで安全に動作するようになった。
 放送機器もよく調べてみると、操作卓の電源を切っても、メインのアンプの電源が切れず二十四時間電源が入りっぱなしに設定されていた。これでは只でさえ高温のバンコクでは、火災の危険さえあった。
 早速、回路を点検して、メインスイッチも切れるようにした。放送器具も多数あるがいずれも故障したものが多くメンテランスをして、正常に動作するようにした。
 
 当時日本の学校でもなかなか購入出来なかったビデオデッキに「故障」の張り紙がされていた。さすがに私もビデオデッキは触ったことがなかった。電源を入れ、モニターを付け視聴してみるが縞模様ばかりで画像が出ない。
 マニアルを読んで分かった。電源電圧だけでなく電源の周波数が合わないのだ。合わせ方は簡単で、モーターの軸についている小さなリングを外すだけだった。
 この小さなリングを外すとビデオテープの速度が遅くなり、画像がきれいに現れた。
 
 放送部の指導も担当した。放送部の生徒の仕事は、これまでは昼食時に音楽を流すだけであったが、曜日毎に番組を組むよう提案した。生徒は、優秀ですぐ番組を企画、昼休みの放送は大幅に充実した。
 ピアノやバイオリンなど楽器の得意な生徒が多数いることを知った私は、放送部員にこれらの児童生徒の家庭を訪問し演奏を録音し、昼休みの番組で紹介させた。
 この企画は、訪問した児童生徒や保護者からも良い評価を得た。放送部員からも人気があがった。理由は、訪問した家庭で大歓迎され、お菓子やケーキの接待を受けたことだ。
 この番組は、さらに発展して、進出の日系企業訪問番組となった。普段見た事もない日系企業の奥深くまで案内され、インタビュー番組を作った。この日系企業訪問にも工場で生産した品がお土産として放送部員や私に渡された。例えば味の素の工場訪問では「味の素セット」が、帝人では洋服一着分の「生地」、私には「背広一着分」がプレゼントされた。
 
 タイの日本人学校の六年の担任の時に修学旅行があった。隣の二組と合わせて五十人ほどの団体旅行であった。行く先は東北部のチェンマイであった。
 二ヶ月ほど前に私と通訳の二人が下見に出かけた。下見は、車をチャーターして出かけた。チェンマイまでは、約八百キロほどあった。車の運転手は、滅茶苦茶にスピードを上げた。私は、「チャーチャー(ゆっくりと)」と言っても、すぐスピードをあげ百三十キロから百四十キロもぶっ飛ばすのだ。結局八百キロを六時間で走りきった。それも三十分近くの昼食タイムを取ってのことだ。
 計画した順路を回ったが、山岳民族の村まで行く道路は、すごかった。粘土質の土で出来た道路は、ところどころ深くえぐれ、車は大きく揺れた。バスでの移動は、無理だと判断し、生徒は小形トラックに分乗させることにした。
 
 実際の修学旅行は、汽車で出かけた。まだ、薪を燃やして走る蒸気機関車時代であった。児童は、ポアランポン駅に集合し汽車に乗った。寝台車はたぶん日本で走っていた古い車両が使われていた。夕方五時に出発した寝台車は、朝早くチェンマイに着いた。バンコクに比べ数度気温が低く気持ちが良かった。
 計画したコースを無事周りホテルに入った。ホテルでの夕食の後は、中庭で民族舞踊の鑑賞だった。大きな太鼓が、空気を振るわせ異国情緒を児童と満喫した。児童達は疲れたのか意外に静かにベットに入ってくれた。往復の車中泊を含めなんのトラブルもなく、無事バンコクに戻ることが出来た。
 
 私は、日本人学校の児童生徒と現地の学校の児童生徒との交流の機会がないのが物足りなかった。折角海外にいる絶好の機会だと思った。大人は工場や会社でタイ人との交流があるようだ。休日には、ゴルフなどでも交流が盛んなようだった。
 それに比べ、日本人の子ども達は、平日は日本人学校に通っているが、土日はアパートに缶詰になっていた。日本人の子ども同士の交流も学校以外では難しい。お互い住んでいる地域が大きく異なるので、学校から帰ってからは事実上交流がむずかしい。
 日本人学校は、非公式な学校でタイ政府から認めれれていない。言わばもぐりの学校だ。現地採用の先生方に聞いても現地の学校のとの交流は難しいとのことであった。
 
 せめて土日の交流だけでも出来ないか私は考えた。日本人会に子供会のようなものを作り、休日の日本人同士の交流やうまくいけばタイ人の子どもとの交流の場が出来るのではないかと考えた。
 学校の日本語の印刷物を一手に引き受けている石井印刷があった。ここの息子さんが学校に良く仕事で出入りしていた。日本人学校の卒業生でタイの事情にも詳しいということだ。
 私は、この石井青年に日本人会に子供会のようなものは出来ないか訪ねた。すると石井青年は、私のアイデアに賛同してくれ、
「日本人の青少年は、バンコクのインターナショナルスクールにもいるし、世話役として手伝ってくれそうなバンコク在住の若い人もいるよ」
と助言をしてくれた。
 早速、インターナショナルスクールに通う日本人の高校生やバンコク在住の若い日本人との会議を持った。
 そして私の提案した「バンコク青少年サークル」の設立に皆の賛同を得られた。幸い母体となる日本人会からも賛同を得られ、日本人会の中に「青少年部」が新しく出来ることになった。日本人会が参加してくれたことによって、指導者の募集や活動資金の目途がたった。
 
 このことは、日本大使館領事部にも相談、賛同を得られた。青少年サークル設立総会は日本大使館の講堂で開催された。予想以上に速い動きに、私は安堵した。
 参加した日本人学校とインターナショナルスクールの日本人高校生の希望と指導者の目途がたちサークルの立ち上げが決まった。
 
 このサークルの事務局というか世話役に私と現地の石井良一青年、それにバンコク在住の原田穣治氏が決まった。また、各サークルの指導者にそれぞれの知り合いに依頼した。バンコクには、当時七千人の日本人が住み、その中には、様々な資格を持った人がいてサークルの指導者を受けてくれた。
 私たち世話役はサークルの活動会場を探し借用契約をした。土日の朝は、私たち世話役が一番先に会場に到着し、指導者や会員を待ち受けた。外国での児童生徒の活動は事故が絶対起こらないよう慎重に対応しなければならなかった。
 タイ語の出来る石井氏や原田氏には大いに助かった。ある日、バレーコートを借りるため国立競技場(サナムキラー)に私と石井氏が出かける事になっていた。しかし、突然石井氏に仕事が入り、私一人で出かけた。競技場の受付に行くと奥まった偉い人の部屋に案内された。タイ語も英語も自信のない私は旨くコートの借用にこぎ着けるかはなはだ心配であった。
 私は、下手な英語で、バレーコートを日本会の青少年が借用したいと申し込んだ。幸い通じたようで許可が出た。会場費の話をすると無料で良いという。
 アジア大会で使われた立派な施設であった。結局バレーコートとテニスコートを使わせてもらった。指導者もこの競技場の中にある体育大学の教師が引き受けてくれた。
 タイの体育大学の先生を運動サークルの指導者に迎えたことで、タイの学校との交流の橋渡しも願った。
 早速、男子バレーボールと女子バレーボールの試合が実現した。タイ人のコーチの先生方は、サークルの生徒の実力を高く評価したのか、タイの高校で準優勝したような力のある学校のチームを紹介した。そのため日本のサークルのチームは苦戦したが、楽しい交流の場が得られた。
 この競技場を使わせてもらったお陰で、タイの学校との交流試合も実現出来た。
 日本の伝統の茶道や華道のサークルも出来た。茶道は、日本料理屋を営んでいる女将が引き受けてくれた。華道とボーリングは、私の学級の母親が引き受けてくれた。
 
 私が日本人学校の教職員に青少年サークルの運営や指導は積極的に協力を求めなかったことから、当初は参加指導してくれる教員は少なかった。幸い徐々に協力者が増えて来た。特に音楽サークルの指導者の坂下先生は熱心に指導してくれた。その成果を発表するためズシットタニホテルで演奏会を開催した。会場には日本人会の方々や交流していたタイの生徒、日本人学校の父母等五百人が来場した。予想外の盛会に私たち世話役は安堵した。
 
 青少年サークルでは、年に一回連休などに小旅行を計画した。行事名は「研修会」で、バンコク近郊の名所旧跡を見学した。また、ホアヒン等の海水浴場に出かけた。修学旅行と違い、小学五年生から中学三年までの異なる学年の交流を目的とした。この小旅行には、日本人のサークル指導者やタイ人のサークル指導者も参加した。
 クワイ河の日本軍が建設した鉄橋も見学した。全員徒歩で橋を渡り、捕虜として建設に従事したイギリス兵や日本兵のことを思った。私達は、二度とこのような戦争が起こらないことを願い記念碑に献花をした。
 この小旅行は、年齢学年を超えた会員の交流の場であったが、さらに日常活動では出来なかったタイ人指導者と日本人指導者の交流の場でもあった。
 タイ人指導者からは。タイの青少年にも青少年サークルのような活動をさせたいという希望が話された。この小旅行には、典子も参加させてもらい石井氏や私がどんなことを考え実行しているかを知ってもらう良い機会となった。
 すべてが、石井氏、原田氏、インターナショナルの生徒、日本人会々員等によって順調に運んだ。日本人学校の児童生徒の参加も当初は五十人程度であったが、次々に増えていった。
 この青少年サークルは、私が帰国した後も一層充実し、五十年後の現在も継続され、会員数も八百人を超えているという。半世紀もの活動を維持した石井氏や日本人会に心から敬意を表する。
 
 住宅探しで、短波アンテナの長さに対応出来るマンションを決めた。確かに古く設備も整っていないマンションだった。しかし、日本人学校にも徒歩十分以内で通える距離にあった。また、わずか徒歩一分の所に日本料理屋があった。まだ、調理器具などが揃わない二日間ほどは、この日本料理屋を利用した。
 典子には、先輩の日本人学校の教員の奥さんが市場などを案内してくれた。台所用品や寝具など一通り生活に必要なものをそろえることが出来た。
 また、家政婦(アヤ)の紹介もあり、人生初めて家政婦を雇うことになった。妻が身重であまり外出も出来ない状況なので家政婦は助かった。ただ、私や典子の家政婦への対応がまずかったので、三年間で四人も家政婦が入れ替わった。
 原因は私達が、家政婦を民主的、つまり人権や労働への配慮をしすぎた結果であった。長くタイに済む日本人から「主従関係を崩してはけない。例えば夕食が余っても絶対分けてやるようなことはしてはならない。余ったおかずはゴミ箱にすてなさい。一切家政婦に持たせてはいけない」
等とくどく指導された。
 だが私達家族にそれが出来なかった。おかずが余れば、持たせ、ご飯があまれば持たせた。
 結果、三年で四人の家政婦が入れ替わることになった。だが、四人目の家政婦は、長く日本人家庭に勤め、日本人の民主的な労使関係を理解していた。長女は、一階の家政婦の部屋に出入りし、かわいがってもらった。妻は変わらず買いすぎて傷みそうな肉や魚、作りすぎたおかずなどを気前よく家政婦に分け与えた。 
 
 四月にバンコクに着任、八月二十一日に次女が誕生した。入院した病院は、長くバンコクに住んでんで出産経験のある日本人女性からの紹介であった。
 クリスチャン病院と言って、設備も良いし、欧米で研修した医師も勤務しているとのことであった。典子は、幸い安産で次女を出産した。
 この病院では、食事はタイ食か洋食を選ぶことが出来た。毎日の食事は、ホテルのように豪華であったと典子の報告だ。
 次女の名前は、漢字の泰(タイ)と美しいを組み合わせ、「泰美(ヒロミ)」とつけた。泰美にはタイ国籍が与えられたが、日本大使館にも出生届けを出した。これで、二十歳になった時、日本の国籍を選ぶことが出来た。
 バンコク日本人学校の入学式を終え、数日後の夜のことだった。一本の電話がマンションにかかって来た。電話の声は、
「私は日本人学校のPTA会長の西野ですが」
とのことだ。日本人学校の最も下っ端の私にPTA会長から電話がかかるなど何かの間違いと思った。電話の声が続けた。
「原先生がアマチュア無線をやっていると校長から聞いています。私もタイで電波を出しています」
とのことだ。
 私は、入学式を終えて、何日もしない放課後に日本大使館の領事部に出かけた。日本人学校の職員に聞いても情報がなかったので、大使館で相談してみることにしたのだ。領事さんはあきれたように言った。
「そんな危険な趣味は止めなさい。アマチュア無線に関する情報はないよ」
とのつれない回答であった。それでも、
「無線室に行って見なさい。電信官がタイの無線事情に詳しいから」
と二階の無線室へ行くよう促した。早速二階に行くと、無線室には、大型ロッカーに入った無線機が整然と並んでいた。テレタイプの音が響いていた。
 対応した電信官が、
「原先生の事は息子から聞いていたよ。息子が三年二組なんですよ」
 偶然にも電信官の息子さんの担任だったのだ。やはり領事の情報のようにタイでは、電波の管制が厳しくアマチュア無線は許可していないらしいとの話であった。ここで私の海外から電波を指す夢は消えてしまった。
 
 そんな後のPTA会長の西野氏からの情報を聞いて驚いたと同時に喜んだ。西野氏の話によると、タイの電波法にはアマチュア無線が規定されていないが、陸軍の将軍のカムチャイ氏が会長になっていてるタイアマチュア無線連盟の会員になると電波が出せるとの情報であった。会員は、極少人数に制限されていて、タイ人が二十五人、外国人が二十五人の枠だという。ベトナム戦争が終わり、バンコクには様々な情報収集活動をする外国人がいて、電波は厳しく管制されているとのことであった。
 西野氏は、
「確か外国人枠が何人か空いているはずだから、タイ無線連盟に確認しておきますよ」
とのありがたい話であった。
 間もなく、タイ無線連盟に私と典子の加入が認められた。私がHS1AHM、典子がHS1AHNのコールサインが付与された。
 その後、西野氏と会うことが出来た。西野氏は、東大からバンコクの大学に教授として招かれ、タイ人だけでなくアジア各国からの学生を指導していた。
 西野先生の奥さんもタイ無線連盟の外国人枠で電波を出しているとのことであった。もう一人バンコクで電波を出している日本人がいて、私達三家族は異国で交流することになった。異国で同じ趣味の仲間を得て本当にありがたく思った。
   
 タイアマチュア無線連盟は、毎月一回、我が家の近くのエラワンホテルで、ランチミーテイングが開かれていた。マンションからわずか十分ほどの近間のホテルであったので、欠かさず毎月この集会には典子と参加した。
 タイ無線連盟の会長は、軍人で将軍の地位にあった。軍の放送局の局長でもあった。何度かカムチャイ氏の放送局を訪問した。
 あるときカムチャイ氏から、
「局の工場を見てみないか」
と放送局の裏へ案内してくれた。驚いたことに放送局の裏は立派な工場になっていた。この工場でタイの軍隊の通信機器を作っているという。   
 二年ほど過ぎた頃、カムチャイ氏の放送局を訪ねた際に、私は、
「カムチャイさんお願いがあります。私達日本人の青少年の音楽サークルの演奏を放送いただけないでしょうか。」
と願ってみた。
「いいですよ。放送は何曜日の何時を希望しますか」
と聞いてきた。私は予想しない返事に喜んで、
「毎月の第一日曜日の午前八時はお願いできますか」
と言うと、問題ないというのだ。
 早速、決められた朝の三十分間の音楽サークルの録音を編集し、カムチャイ氏に届けた。放送時間は何分かずれ込む事があったが「日本人の青少年の音楽」といタイトルで放送された。この番組は、一年間十二回継続して放送された。
 
 ある日、日本人学校の中学部職員室に中学生の女子が入って来た。私の席に来て、
「原先生の声が、私の家のテレビに入るんです」
とのこと。そういえば、エレベーター塔の上にアマチュア無線のアンテナを設置した際、すぐ二メートルくらい離れたところにテレビのアンテナがあったことを思い出した。私は、あわてて、女子生徒の部屋を訪ねると、同じマンションの我が家の二階上に住んでいるとのことだ。ただめったにテレビは見ないので声が入っても問題は無いと言う。
 私は、父親の職業を尋ねて驚いた。
「父は、タイの大学で教えています。日本では、電波監理局に勤めていました」
とのことであった。アマチュア無線をはじめ、日本国内の電波の管理監督をやっている「郵政省電波監理局」からの派遣だった。この家族は、私が帰国する一年前に日本に戻った。
 私は日本に帰国して驚いた。なんとこの女子生徒の父親の徳田修造氏が北海道電波監理局長となって札幌に赴任していたのだ。世界は狭いことが分かった。
 
 タイのアマチュア無線仲間も増えた。それぞれなかなかの地位にいる人ばかりあった。タイ無線連盟の行事で小旅行にも我が家は家族で参加した。
 
 帰国後、何度かタイ無線連盟会長のカムチャイ氏宅を訪問する機会があった。あるとき私が、
「あの一生懸命電波を出していたレックさんは元気ですか」
とカムチャイ氏に尋ねると、レックさんの会社の電話番号を教えてくれた。私は、久しぶりにレックさんに会いたくなって電話をかけた。
「レックさんにつないで下さい」
と頼むと、すぐレックさんは電話に出た。そして、
「原さん。今夜会おう」
と落ち合うレストランと時間を約束した。
 約束の時間になると、レックさんの同僚だというタイ人が現れた。
「レックさんは、急な仕事が入って一時間位い遅れるから、先に一杯やっていて下さい」
との伝言だった。
 その後に二人の女性が現れた。同じくレックさんの同僚だという。私達四人は、幾皿もの料理やビールを取り、宴会を開いていた。そして、一時間半ほど遅れてレックさんが現れた。私とレックさんが顔を見合わせた。お互い知らない人なのだ。後でこの話を無線連盟の会長さんに話すと、レックさんという名前の人は、会員に三人もいたのだ。そして、レックさんには、「ハラ」と言う商社の日本人の知り合いがいて、そのハラさんだと思ったと言う。
 この場は笑い話になったが、全く知らないレックさんに散々ご馳走になってしまった。 
 
 長さ八十メートルの大アンテナは大いに活躍した。タイからこのアンテナの周波数に出ているアマチュア局はなく、私だけが出ていた。そこで、日本国内からの交信リクエストが続いた。ただ交信出来る時間帯が日本時間の午前五時から六時頃で、バンコクでは午前三時から四時頃であった。さすがにこの時間帯に電波を出すのは大変であった。しかも交信出来る時間は、わずか十五分ほどであった。電波の伝搬が急激に変化した。
 
 帰国して、数年後に私が提言して、アマチュア無線の社会貢献活動に一環として、「ユニセフハムクラブ」という全国組織を作り二十五年間活動した。その活動は、バングラデイシュ、ネパルールでの活動が中心であったが、中継点のバンコクでタイアマチュア無線連盟の会長のカムチャイ氏夫妻には、大変お世話になった。
 
 バンコク日本人学校から帰国して数年語の事である。夜遅くに一本の電話が入ってきた。
「バンコク日本人学校で原先生の担任だった林弘の家族のものです。弘が帰国して祖母の家から高校に通っていましたが、昨夜喘息が悪化、亡くなりました」
と言うのです。まだバンコクの会社に勤務していた弘君の父親が、原先生の電話を調べて連絡してほしいという依頼だった。
 私が帰国する際、バスで出発する私たち家族に元気に手を振る弘君の顔を思いだした。弘君を担任したのは、六年生の一年間であった。弘君の出会いは、私が提案して作った「電子工学クラブ」の最初からのメンバーであったから三年間の付き合いだった。おとなしいが、電気工作が大好きで、様々な作品を仕上げていた。
 父親によると私が帰国した後も、私との思い出を何度も話していたとのことだった。以後、バンコクに行った際は、弘君の位牌にお参りをさせてもらった。
 弘君の父親は、長年日本の建築会社のバンコク支店長を務めた。定年退職後もバンコクに夫婦で止まっていた。私は、バンコクに行く度に林さん夫妻に会って弘君の思い出を語った。元気に日本の高校に通い、将来を期待していたご夫妻の悲しみは、私にも想像できた。コロナウイルス感染が拡大、ここ二年間は林さんご夫妻にお会い出来ていない。高齢のご夫妻はお元気に過ごされているだろうか。
 
 私の人生の中で、時間的には三年間と短かったが、日本人学校の教員仲間や児童生徒との交流、タイの無線仲間との交流は貴重な時間であった。
 
 
 この海外派遣で私は大きな勉強をした。どのような国の施策でも、魅力的仕事には、「定員」という枠がある。私が参加した「海外日本人学校派遣教員」にも各都道府県には五から六名の派遣枠があった。派遣には、多額の経費が必要である。応募者すべてを派遣する訳にはいかない。
 だから、書類選考や面接試験など「人選」という作業が必要だ。では、この「人選」は厳正に実施されたのだろうか。私が日本人学校で側聞した事実には驚いたことが有った。かなりの派遣教員が、教育委員会トップに近親者がいたのだ。つまり私のように教育委員会に縁者のいない者が選抜されたのは、正に幸運としか言えないのだ。
 私も、もう少しバンコク日本人学校に勤務したいと北海道教育委員会に派遣の延長願いを提出した一人だ。だが、結果は、北海道教育委員の幹部の肉親だけが一年間の延長が認められた。
 最後の日本人学校の研修旅行の酒席で延長を認められた彼に、
「実は、私も延長願いを出したんです」
と話すと、酔っていたのか、彼は、
「原さん、世の中そんなに甘くはないよ。ちゃんとルート持っていない者の希望が叶う訳がないだろう」
と言い放った。この彼の一言がこの派遣で最も勉強になった。
 
 
 
 
 
 
 
開陽丸の眠る町
 
 
        江差小学校アマチュア無線クラブ
 
 
 昭和五十年三月十四日、私と典子。長女幸枝、次女泰美は、羽田空港に到着した。出発から帰国で、三年と一日のバンコクの生活であった。
 すぐ必要な衣類や日用品、そして、親族への土産など九十キロほどの別送荷物を空輸してあった。別送荷物の引き取りは、空港裏の倉庫で迷路のようなところにあった。たいした税金は支払う必要がなかったが、国内便のカウンターとはかなり離れていた。数個のダンボールを空港カウンターまで運ぶことは無理だとわかった。
 倉庫の回りを一回りした。一台の大きなキャスターを発見した。当然どこかの会社の所有だとは思ったが、勝手に押して荷物の受け取り口に横付けにした。保税倉庫の係員はなんの問題もなくこの大型キャスターに荷物を載せてくれた。この荷物引取作業で、すでに朝から三時間近くが経過していた。無論勝手に借りたキャスターは元の場所に返した。
 保税倉庫の荷物は、専門の業者に頼むと税金の他に九千円の引き取り手数料が必要であった。航空会社カウンターまで運ぶキャスター等の運搬道具が必要であり、引き取りまでにかかる時間や手間を考えると業者に任せた方が良かった。
 
 すっかり咽がかわいたので、空港の売店で牛乳を買った。驚いたのは一本の牛乳の価格だ。昭和四十七年出発の頃は、牛乳は一瓶十円だったものが四十円だというのだ。
 午後は、外務省の担当部局に出頭して、航空券の半券を手渡した。
 担当官の
「暑い国でお疲れ様でした」
の一言に、緊張していた三年間の疲れが吹き飛んだ。お役人も帰国教師への対応を考えていた。
 
 バンコクの日本航空で予約した東京のホテルに一泊した。深呼吸すると確かに日本には日本の空気の臭いがした。懐かしい臭いであった。
 
 翌朝、ホテルのレストランで朝食を注文して、ここでも驚いた。和朝食が一人前千五百円だというのだ。確か三年前は五百円前後だったのだが。それでも懐かしい日本のご飯と味噌汁がうまかった。
 
 午後には、出国した時と同じ二個の大型トランクを持って、羽田空港から千歳空港に向かった。苫小牧上空をすぎ千歳空港に飛行機は近づいた。下界は残雪と枯れた木々だけが見えた。
「死の世界だ」
と私は思った。バンコクの豊かな緑がなつかしかった。
 
 室蘭の典子の実家に戻った。三才でバンコクに行った長女は祖父母のことをしっかり覚えていた。次女は祖父母と初対面だ。典子の両親は、我々家族の無事帰国を喜んでくれた。
 典子の両親にしてみれば、娘が嫁にいった先は、僻地で生活に苦労するだろうことを心配したと思う。そして、次は予想もしない海外派遣など、困った婿だと思ったに違いない。
 
 妻の両親に日本の物価の大幅値上げに驚いたことを話すと笑われた。とにかく最近の物価の値上げに、庶民は苦労しているとのことであった。
 
 数日は妻の実家で休み、私は、元勤務校の太田小中学校に向かった。だが三年の間に殆どの教員仲間は異動し、一人だけが残っていた。学校の様子を聞いてみると無線クラブや発明工夫などは続けているとのことであった。スケートリンクは、最近気温が上がり上手く凍らなくなったので中止したとのことであった。
 
 午後から私を海外に送り出してくれた野口校長を訪ねた。野口校長は、今金町の学校に転勤、以前と同じようにがんばっていた。私の帰国を夫婦で喜んでくれた。とにかく今日は泊まって行きなさいとのありがたい言葉だった。その夜は、懐かしい野口校長夫妻の用意してくれた夕食と酒を馳走になった。そして、懐かしい太田小中学校の思い出話が続いた。
 
 私の帰国後の赴任校は、すでに北海道教育委員会から連絡を受けていた。檜山管内の中心校の江差小学校であった。
 典子と二人の子どもを連れて江差町へ赴任したが、住宅事情が悪く、昔の道立病院の看護婦寮であった。寮を改築し教員住宅としてあてがわれた。細く急な階段を上がって狭い住居部分があった。窓から辺りの景色を見ると、江差港が眼下に見えた。景色は良いがバンコクのマンションとは全く比較にならないボロ屋だった。
 
 江差小学校は、一学年四クラス、それに特殊学級が二学級の計二十六学級の地方としては大きな学校であった。私の学級担任については、事前に校長に一任していた。ところが私の担任決定で職員会議でもめているというのだ。なにか事情があって職員団体が特殊学級学の担任を拒否していたという。事情の分からない私は養護学校教諭の免許も持っていたので、特殊学級担任で良いと応じたことが混乱の原因だった。 
 だが私が喜んで特殊学級担任を引き受けたということで、この混乱も終息した。
 
 日本人学校では、受け持った学級をはじめ心身に障害のある児童生徒が徐々に増えてきていた。普通学級の中で障害のある児童生徒を指導する困難を体験してきた。私は、障害のある児童生徒の教育について大いに興味関心があった。だから江差小学校での障害児クラスを受け持つことになんの抵抗もなかった。  
 
 障害のある児童との毎日はとても楽しいものであった。生徒は五年生と六年生の六人である。私の観察では運動機能の面では、問題がないと判断した。また、知的障害も四人は軽く、普通学級での指導も十分可能であると思った。ひょっとしたら障害児学級を作るために犠牲になった子ども達ではなかったと疑った。 
 
 私は、特に国語の漢字の読み書きに力を入れた。教科書の音読も繰りかえさせた。実力を付け、可能な児童は普通学級に戻したいと考えた。六人のうち四人は、国語、理科、社会などの教科書を上手に読めるようになった。特に五年生の児童の一人は、漢字の読み書きは良くできた。ただ、不思議なことにその漢字の熟語の意味をほとんど理解していなかった。そして、やはり算数の計算はなかなか定着しなかった。しかし四則計算、かけ算の九九は徹底的に指導を続けた。
 
 私は、クラブ活動の指導で、「発明クラブ」の発足を提案し認められた。クラブ活動の教室は私の学級にして、普通学級の児童が日常的に自由に入室出来るようにした。障害児学級に用意されている糸鋸盤など工作機械も自由に使わせた。その結果、これまで孤立していた障害児学級に多くの普通学級の児童が出入りするようになった。また、普通学級の児童と遜色なく活動、学習出来る体育の授業やクラブ活動などは普通学級に戻すことにした。
 
 担当した発明クラブでは、全道の発明工夫展に作品を出品した。幸い普通学級の児童と遜色なく障害児学級の児童も入選した。徐々に学校内での障害児学級の活動が認められるようになった。
 
 障害児学級の作業学習と発明工夫教育のため、木工や金工の工具をそろえてもらった。技術科のような大型電動工具の購入は無理であったが、工作工具はかなり対応出来るようになった。他の教師もちょっとした教材作りに工作教室として活用した。
 大物の工作があった。中庭の百葉箱だ。学級の児童に毎日の「お天気調べ」の観察で、折角測定するなら正確に気温を計測させようと、足が朽ちて横になっていた百葉箱を修復した。技術科免許の私にとってたいしたことのない作業であった。しかし、補修して白ペンキを塗った百葉箱は新品と間違うような仕上がりだった。復旧し立ち上がった百葉箱を見て同僚の教師や父母が感激した。
 
 速くも一年が過ぎ、新年度の学級担任や分掌の希望調査があった。私の希望に対し校長からの呼び出しがあった。私の希望に反し、普通学級担任を命じるとのことであった。私はやっと障害のある児童の指導にわずかに光が見えてきた時期だけにせめて後一年障害児学級の担任をやらせて欲しいと願った。だが、校長だけの考えではなく、教育委員会からの指導もあったという。私の願いは却下され普通学級担任が命じられた。
 
 海外研修には、派遣手当など大きな費用を国が負担している。帰国後は多くの児童生徒の教育に還元してほしいという願いは、私も良く分かっていた。結局校長や教育委員会の期待に答えることとした。私が海外研修後すぐに障害児学級を担当させたことに対し、校長は厳しく教育委員会から指導を受けたのだ。だが、校内では、職員団体が障害児学級の担任を拒否する運動を展開していたのだから、私の人事は校長だけの責任ではない。
 
 結局二年目の担任は、五年生の学級を担当することになった。五年生は、四学級あり、授業の進度も毎週学年部会で調整があり、私にとってはやりにくい一年であった。
 普通学級では、教科指導に加えて、日常の学級会活動があった。例えば生活係は日常の学校や学級の生活の決まりを作るのだ。定番の「ハンカチ検査」「爪検査」などが係りの活動は決まったパターンだった。
 私は、もっと創造的な活動はないか考させえた。例えば生活係りは、生活を明るく楽しくする活動を児童と考えた。学級花壇の整備、花作り、金魚の飼育などが発案された。私は、以前太田小学校で実践した日常生活や学校生活の中で使う道具の改良などの発明工夫もやってみてはどうかと提案した。
 
 江差小学校では、委員会活動が学級単位で決められていた。私の学級は、放送委員会を希望し給食時の校内放送を受け持った。活動内容は、給食時間に放送室に出かけレコードをかけるという単純な活動であった。
 一学期が始まり何日もしていないある日、私の学級の真下の一階に放送室があることに気づいた。
「そうだ、教室をサテライト放送室にしよう」
と思った。
 設備は、運動会に使う中継器を教室に設置、マイク、レコードプレーヤー、テープレコーダーを教室に用意する。学級の給食時の騒音が入るので、面積一平方メートル、定員一名のアナウンス室を教室内に置くことにした。このトイレスタイルのアナウンス室には、ドアにガラスをはめ、プロデューサー担当の指示がみえるようにするのだ。
 教頭にこの計画を話すと、この校舎は二年後に解体して新校舎に建て替えられるから、天井に穴をあけケーブルを引き込んでも良いと許可が下りた。ただ私の天井に穴をあけるという大胆なアイデアに驚きあきれていた。 
 
 レコードをかけるだけだった給食時の校内放送は、曜日毎のプログラムにしたがった充実した校内放送になった。学級の三十人全員が、曜日毎の番組を作り、創意工夫した放送内容の活動になった。
 
 江差小学校の児童の学力は、檜山支庁などの官公庁の出先の職員の子弟が多かったためか、かなり高いと感じた。ただ、学級活動などの特別活動に対しては、殆ど重きを置いていないようであった。私は、保護者会で特別活動の重要性と協力を呼びかけた。幸い授業の後の毎日の教室の掃除当番ではサボって逃げ帰る児童も少なくなった。掃除当番をサボって帰ってしまった児童にサボった理由を聞いて驚いた。保護者が、
「塾が大事だから、掃除はサボれ」
と言ったというのだ。   
 
 教科指導は、国語の教科書だけでなく他教科でも満足に音読出来ない児童が多いのが気になった。低学年で習った漢字も読めないのだ。そこで私は、朝の学級指導の大部分を使って国語の教科書の漢字テストを続けた。必ず前日には、翌日の出題範囲を示した。五年生の上下の国語の教科書の漢字は全員が読み書きが完璧に出来るようになったので、六年生の古い教科書を集め漢字の読み書きテストを継続した。これも完璧なった。小学生で学習するすべての読み書きが出来るようになると、算数はじめ他教科も確実に学習が定着するようになった。公文式学習法の何年か前の実践であった。
 
 発明工夫も朝の会で継続したことで多数のアイデアが出た。夏休みは、児童のアイデアを製品化するため児童と一緒に製作した。
 五年、六年が参加するクラブ活動でも「発明クラブ」を立ち上げ多くの児童が参加した。
秋の発明工夫展では、元の勤務先の太田小中学校と入賞を二分した。太田小中学校は長年の発明工夫の伝統が力になっていた。
 
 次年度も同じ学級の持ち上がりであった。何人かの檜山支庁関係の児童は父親の転勤で転校していった。代わりに新しく檜山支庁他の公務員の子弟の転入があった。
 地方の学校であるが、檜山支庁の公務員や会社の支店などが多いためだ。 
 
 六年生になっても朝の漢字テストは継続した。父母の報告によるとこの漢字ドリルが家庭でも定着して、毎日必ず机に座って予習復習をするようになったとの報告があった。
 
 私の提案で、「国際交流委員会」という新しい委員会が職員会議で認められ、発足した。海外日本人学校勤務者は、帰国後に国際理解教育に力を入れる義務があった。北海道でも一回目に海外日本人学校に派遣された教員が中心になって、「帰国教師の会」が結成された。当時の教育長の気境氏の肝いりでの発足であった。この帰国教師の会では、これまでの派遣教員と今後派遣者希望の教員が集まり、学校での国際理解教育を研究していた。私もこの研究会の一員として、国際理解教育を研究していた。
 しかし、北海道の小さな町で外国人との交流も難しく、なかなか国際理解教育を実践出来なかった。そんななかでの実践探しであった。
 
 私は、海外にある日本語補習校に目をつけた。海外で生活している日本人子女が、日常は現地の学校に通い、土日などに日本語を勉強させる日本語補習学校の児童との「文通」であった。確かに日本人同士の文通ではあるが、江差の児童には、日本語で海外の情報が入る。そして、日本語補習校の児童にとっては、日本語の読み書きの学習の助けになると期待しての文通の企画であった。
 
 まず、国際交流委員会で、
「日本人学校の友達と文通しよう」
と、全校児童に文通希望者を募った。受付は、国際交流委員会である。すると低学年から高学年まで、五十人ほどが応募してきた。
 世界の日本語補習校には、
「江差小学校と文通しよう」
と募集をかけていた。
 すると数校の日本語補習校児童から文通の応募があった。早速補習校児童と江差小学校児童との文通が始まった。期待どうりに海外での生活をしたためた航空便が届きはじめた。中には、手紙の他に、写真や絵はがき、シールなどが入って来た。海外との文通が始まった。航空便の宛名書きは、小学生には難しいので、私がタイプで打って十枚ずつ渡した。文通を始めた児童は、海外日本人補習校の児童から来る返信を待っていた。
 航空便とは言え、返信は一ヶ月近くかかっていた。だが、返信のあった児童は大いに喜び学級でみんなに自慢して見せた。
 
 そこで、私は、子ども達の了解を得て、廊下に届いた手紙を掲示することを思いついた。児童に届いた海外からの手紙を一週間ほど借りて掲示板に展示した。封筒、手紙、そして同封してきた写真などである。文通コーナーは大人気で、多くの児童が見ていた。
 
 この文通は、すぐに全校に広まり低学年から高学年まで百人以上の参加にふくれあがった。北海道新聞には、この日本語補習校との文通は大きく掲載された。
 地元、江差郵便局には、年間一千通以上の外国郵便が出され、江差郵便局初めての出来事だと驚かれた。
 
 当時、郵政省の本省から来ていた江差郵便局の松浦局長の薦めで郵政省の主催する「手紙作文コンクール」に参加しないかとの誘いを受けた。早速二十名ほどの児童が、日本語補習校に送った手紙を清書して、このコンクールに応募した。すると応募者の半数が佳作入選、一人が上位三賞のうちの「日本郵便友の会協会長賞」を受賞した。
 松浦局長さんからは、
 「この手紙作文コンクールには、全国から十万人以上の小中学生が応募している」
との説明があり、また江差小学校の大量入賞に驚かれた。
 この後もこの手紙作文コンクールに参加を続け、最高賞の文部大臣奨励賞まで受賞したのだから私も驚いた.
 この日本語補習校との文通は、封筒の宛名書きや新しい文通相手の紹介など結構手間と時間を要した。私が江差小学校に勤務していた間、児童の文通をフォローした。たった一人ではあったが、何年か続けた文通の後、帰国した文通相手と会うことの出来た児童もいた。
 
 国際交流委員会の活動として、使用済み切手集めやユニセフ募金にも参加した。国際交流委員会から全校児童に呼びかけると、さすが千人の学校、ユニセフ募金もすぐ十万円が集まった。また、使用済み切手も大量に集まった。江差小学校でのユニセフ活動が認められ、当時の校長だった上元校長、そして、私が日本ユニセフ協会の広報普及委員に任命された。
 これらの途上国支援活動は「開発教育」として、外務省が発行する海外向け情報誌等に紹介され、世界の日本大使館ほか在外施設に送られた。
 
 世界の日本語補習校との交流がきっかけであった。ヒューストンの日本人子弟が通っている学校の教員が二週間ほど江差小学校を訪問した。
 これは、現地日本人会が日本人子弟を通学させている小学校の教師に、日本の教育を経験させたいという企画で実施された。日本の教育を見て、受け入れている日本人子弟の教育の指導の参考にしてほしいという願いがあった。
 
 このヒューストンの小学校の教員のホームステイは、我が家と教頭が一週間ずつ受け入れた。このアメリカの教師との交流も望外の交流であったが、児童の文通がきっかけの交流であった。この交流では、江差小学校の教師も参加した国際交流となった。
 
 発明工夫展にも毎年江差小学校の児童が参加し、多くの作品を出品した。出品数も入賞もさすが江差小学校一千人と太田小中学校の五十人とは多勢に無勢で、入賞は江差小学校がだんせん優勢になった。学校賞も江差小学校が受けるようになった。
 
 元々は、学級の生活係がやっていた菊の鉢植えだった。私は菊を育てた事がなかった。幸い校長が趣味として菊を栽培していることを聞き、校長に育て方を聞くよう児童にアドバイスした。すると校長は、本格的な菊栽培を学年全部の生活係りに指導した。
 校長の指導は年間続き、秋には大量の立派な菊の花が咲いた。この立派な菊花は町の菊花展で「江差小学校児童作品」として展示された。菊栽培家の老人達に高い評価を得た。校長室の校長が、児童のすぐ側にいたことに児童達も満足した。
 
 そのころ江差小学校から見下ろせる江差港に沈んでいる江戸末期の軍艦、「開陽丸」の遺品引き上げが始まった。これを機会にに国際交流委員会の活動に「開陽丸」の研究が始まった。
 一年間かけて国際交流委員会で集めた資料を基に文集「開陽丸」を発行した。
この冊子は、手作りの質素なものであったが、地域の図書館、江差町内の歴史研究家などを回り、多くの資料を集め編集したものだ。
 後日、江差小学校を卒業したこの学級のクラス会として四千冊を活版印刷し、町内の本屋で頒布した。この冊子は、二年間で完売した。
 
 開陽丸の研究者との交流や開陽丸を造船したオランダドルトレヒルト市の小学校との交流が始まった。
 国際交流委員会では、「ドルトレヒトの学校にカレンダーを贈る運動」を展開した。生徒の家庭からは二百部以上のカレンダーが集まった。集まった日本のカレンダー二十部を航空便でオランダに発送した。カレンダーの絵柄は、日本の風景や生活を扱ったものを選んだ。
 するとドルトレヒトの小学校からも地域の様子がよく分かるカレンダーが送られて来た。言葉の交流は難しかったが、カレンダーの写真をとおしてお互いの国を理解できた。小さな国際交流であった。
 
 
 ある日の午後、私とクラスの児童はソフトボールの授業をしていた。その授業を遠くから四、五人の男達が見物しているのが見えた。
 授業が終わるとその男達が小走りにやって来て、私を取り囲んだ。NHK函館放送局のテレビ取材のクルーだった。確かにその日の午後、取材の申し込みがあったことを思い出した。グランドの立ち話であったので、校長も待っているので校長室での待機をたのんだ。
 この取材クルーが立ち去るとクラスの児童がやってきた。
「先生、今の人達怖い人達だったでしょう」
「先生が殴られるじゃないか心配したんだ」
 そういえば、ちょっと強面の五人が走り寄って、私を取り囲んだ様子を見ていた児童には、怖そうな兄さん達に見えたかも知れなかった。
 
 NHKの相原氏ほか五人の取材クルーは、校長室で待機していた。校長室には、町の教育長も来ていたので、私はそっと、
「相原さん、お願いです。今、町の教育長がいるので、教育長からコメントをもらって、ワンカット画面に入れてくれませんか」
と頼んだ、
 すると相原氏は、
「私たちは、原さんと児童の国際交流活動を取材に来たので、教育長など画面に入れたくない。原さんと児童は、誰もやったことのない国際交流活動をやっているのだから自信を持って取材に応じなさい」
とつれない返事であった。
 私は、一人でも多くの人が国際理解教育を理解し支援してくれることを願っていた。マスコミの人は、取材の前に既に構想をがっちり固めているようで、その構想を少しでも変えさせることの難しさを実感した。ただ、相原氏の自信を持って活動しなさいという言葉に励まされた。
  
 
 小学生時代を担任したクラス会でも国際交流を続けてくれた。カモメ島でのユニセフ募金活動、ユニセフのTシャツの販売などである。
 中でも女子が特訓を受け、江差の民謡「江差追分踊り」を東京のユネスコの大会で発表した。このユネスコの大会には、男子も参加し、総勢二十一名が上京した。予算の関係で、全日空には函館・東京間を特別運賃で乗せてもらった。
 
 このクラスの小学生から高校生までの国際交流活動が認められ、昭和五十八年六月北海道科学文化振興財団より「青少年科学文化振興賞表彰」を受けた。
 この受賞式は札幌で行われたが、わざわざ江差町の石橋教育も出席してくれた。
 江差町での国際交流が円滑に進んだのは、こうして勤務校だけでなく、町の様々な組織からの応援があったからだ。
 
 バンコク日本人学校から帰国して七年間、江差小学校での国際理解教育は、学級で、学校での実践が出来た。学校だけでなく地域の人々や教育委員会の協力も得ての実践であった。
 
 ところが私が養護学校教諭の資格を持っていることとアマチュア無線の資格をもっていることで、病弱養護学校から声がかかった。私は、国際理解教育を続けてきた江差小学校の教育にも未練があったが、趣味として長年続けてきたアマチュア無線で声がかかたことがうれしかった。
 昭和五十七年四月、スカウトのあった北海道八雲養護学校に転勤を決めた。



電波が結ぶ友情
 
 
 
 
    北海道八雲養護学校アマチュア無線クラブ開局

 
 昭和五十七年三月二十九日、私は赴任校の実態や住宅の下見のために四月から勤務する北海道八雲養護学校に車で向かった。私にとって、四校目の勤務校だ。新しい学校に行く時はいつも心が躍る。なにか良い事が待っているように思えるからだ。
 私は、国道五号線沿沿いにある八雲町を何度も車で通過していた。だがこの町に立ち寄ったことがなかった。八雲町内に入って道路地図を頼りに探したが、八雲養護学校は見つからない。こういう時は、車に付けているアマチュア無線機が頼りになる。
「CQ CQ こちらはJA8ATG、ただ今八雲町内移動中、どなたか町内の道案内をお願いします」
平日の日中の呼び出しに応答してくれる局があるか心配したが、
「こちらは、JA8IOT村井です。道案内します」
早速の応答があった。
「八雲養護学校への案内をお願いします。どうぞ」  
「現在地を教えて下さい。どうぞ」
「役場を超えて百メートルほど山側にはいりました。どうぞ」
「私の家のすぐ近くです。回りを見てアンテナが見えませんか」
「ありました。青い屋根の家ですね」
「詳しく教えますので、我が家に寄って下さい」
 こんな交信で、初めて訪れた八雲町のアマチュア無線家、村井氏のお宅にお邪魔することになった。無線仲間は有り難いものだ。村井氏は、深夜勤務明けで幸い自宅の無線機の前に居たのだ。
 これが初めての村井氏との交流であった。コーヒーをご馳走になり八雲養護学校の位置を教えてもらった。後々、村井氏とは様々な活動で支援を受けた。
 
 八雲養護学校に着いた私は、教頭の案内で校内を一周した。一学級十人程度の学級編成であるとのこと。普通学校と異なる一回り小ぶりの教室が続いた。
 校舎は、国立療養者八雲病院に廊下でつながっていた。何人もの患者が電動車椅子で散歩をしていた。かなり重度の肢体不自由の患者がいた。体から頭までコルセット固めていた。これまで私が会ったことのなかった重い障害の人々だった。
 
 校長室に案内された。校長は、
「原先生のことは何度も新聞の記事で読んでいる。是非本校の隔離された生活の中でアマチュア無線を使って外の人との交流を実現してほしい」
とのことであった。私は、四月一日の赴任を約束して江差町に戻った。
 妻には、かなり重度障害の児童生徒が通学していることを知らせた。学校の事が気になって、すっかり教員住宅の間取りを聞くことを忘れていた。外観からみて今の住宅とたいして変わらないだろうと推測した。
   
 四月一日朝、荷物は大型トラックで、私と家族は自家用車で八雲町に向かった。荷物をおろす準備をしていると、村井氏が声をかけてくれてのか十名近い八雲町内のアマチュア無線家が、荷下ろしの手伝いのために集まってくれた。学校の職員の手伝いもあり、引越荷物は短時間で住宅に運び込まれた。
 私は、荷物の中から超短波の無線機を取りだし仮設のアンテナで八雲町での初電波を出した。噴火湾内は勿論、室蘭市からも応答があった。引越荷物のダンボールの山の中から電波を出している事を話すと皆笑っていた。
    
 四月七日、八雲養護学校新年度の職員会議であった。私は、中学部三年の担任と教務部の担当であることが決まっていた。養護訓練など私が初めて経験する教科もあった。大学で養護学校教諭の免許は取得した。と言っても小学校教諭免許に数単位の養護学校教諭に必要な数単位を取ったに過ぎない。また養護学校での教育実習もわずか二週間ほどであった。
 免許教科の中学部の技術科、そして、中高合同のクラブ活動はアマチュア無線を指導できるよう週三時間も設定されていた。 
 八雲養護学校の教育課程は、重度重複学級と普通学級に大きく分けられ、さらに小学部、中学部、高等部に分けられていた。
 主な障害は、筋ジストロフィー症という年令が上がるとともに体中の筋力が低下する病気で、未だに治療方も改善する薬もない難病だということだ。小学生入学当時は、ほとんど気づかれないが、三年生頃から歩行中の転倒が多くなるという。筋肉の検査をすると筋ジストロフィー症であることが発見される。小学生高学年になると歩行が困難になる場合が多い。また、全身の筋肉、特に心臓の筋肉もおかされ短命であった。
 北海道八雲養護学校の前身は八雲町立八雲小学校と中学校の分校として、国立療養所八雲病院の中に発足した。しかし、昭和五十四年の養護学校義務化に伴い北海道八雲養護学校が開校した。
 病弱養護学校としての開校であるが、隣接する国立療養所八雲病院が対応している筋ジストロフィー患者の教育を中心にしている。このため全道各地から筋ジストロフィー症で入院している学齢児童生徒が北海道八雲養護学校に通学している。
 
 職員会議から二日後、新学期が始まった。普通学校と同様に入学式、始業式が行われた。全校児童生徒八十名ほどが体育館に集まった。八割近くが車椅子であった。重度の肢体不自由の児童生徒はバギーで寝た状態での参加だ。
 校長の式辞、そして、児童生徒が入院している国立療養所八雲病院の院長が祝辞を述べた。院長は、
「皆さん、トンネルの先に明かりが見えてきました。新しい薬が研究開発されています。治療が始まるまで、皆さん頑張って下さい」
と激励の挨拶をした。
 
 ある時、病院で某有名大学の教授の最新医療の講演があるとのことで期待して出かけた。講演の内容は、母親が妊娠した際、筋ジストロフィー発症の多い男子の場合であれば中絶するというものであった。私達聴講者は、新薬でも開発されたのではと期待していたが、残念な内容に落胆した。
 
 私の中学部三年のクラスは生徒八名で、七人が車椅子、一人が多少不安定だが歩行出来た。そして、新採用の女子教員が副担任で配置された。数人の生徒に二人の教員配置に驚いたが、排泄などの介助をしなければならないので、必要なのだという。
 そして、技術家庭科には、指導者の私と補助教師、それに実習助手と介護員がついてくれた。数人の生徒に四人のスタッフが付くことになる。私は、
「授業参観みたいだ」
と思った。
 普通学校では、校内の職員の職種は、校長、教頭の他、教諭と養護教諭、そして校務補と少ない。だが養護学校では、その他の職種に、実習助手、介護員がある。外部委託であるが、ボイラー技師、校内清掃員などが勤務していた。
 
 まだ授業が始まって一週間もしない放課後、事務長に呼ばれた。
「原先生、アマチュア無線のアンテナの資材を購入するから、必要な資材のリスト作ってくれないか」
 私は確かにこの養護学校の生徒にアマチュア無線の資格を取らせ、電波を出させる任務で呼ばれたが、こんなに早くアンテナ材料を用意してくれるとは思ってもいなかった。
 高等学校などでアマチュア無線クラブを作るのは簡単だ。だが屋上にアンテナを上げたいなどと言うと、事務方から許可が出るには半年や一年、いやもっと年月がかかるのだ。コンクリートの校舎の壁にケーブルを引き込む穴をあける等と言うと大反対される。  
 早速簡易アンテナの材料リストを作成、事務に提出した。鉄パイプなどの材料は次の週に業者が玄関前に運んで来た。
 そして、月末には、屋上に二本の鉄パイプにステーを張って立ち上げた。立ち上げた鉄パイプ間にアンテナ線をはり、立派な短波用のアンテナが完成した。この作業には、女子教員も含む二十名ほどが屋上にあがり手伝ってくれた。  
 このアンテナで、クラブ活動の時間に早速受信練習を開始した。
 
 新規に立ち上げてアマチュア無線クラブには、中学部と高等部から十二人が希望してきた。早速、アマチュア無線の国家試験を受験するための法規と工学の勉強を開始した。
 勉強を始めてみるとテキストの漢字を読めない者が多かった。だんだん分かってきた。病気のために長期に入院したり、転院を繰り返えすなどほとんど学校に通えなかったらしい。まずテキストを読めるようにすることや、九九や掛け算、割り算、分数の数学の基礎を復習することにした。
 
 もう一つの原因に、養護学校の教員の姿勢にある。たとえば、普通学校であれば、四則計算、九九など教科で最低定着させなけばならない指導内容は、児童を泣かせてでも徹底的に指導をして定着させる。だが、将来就職が難しいと思われる児童に対する指導は、どうしてもあまくなる。
 有るとき休んだ教員の補欠として算数の指導に入った。児童のノートを見ると数十ページにわたり丁寧に四桁の足し算が計算されていた。結構間違いがあるのに全く教師の点検の後がないのだ。
 
 幸い六月末に、八雲養護学校でアマチュア無線技士の国家試験の移動試験をやってくれることになった。定期的に函館市で実施してる総務省の国家試験の帰路に立ち寄っての実施だ。
 アマチュア無線の勉強を始めてわずか二ヶ月弱のであったが三名が受験した。結果は高等部三年のA君一名の合格であった。
 一名しか合格しなかったことを伝えると、山本校長は、
「原先生、ゼロから一名を合格させてたのだから立派なものだよ」
と喜んでくれた。
 
 幸い以後一年に二回の国家試験を八雲養護学校で実施した。A君を含め四人の合格者が出たのを機会に昭和四十八年七月北海道八雲養護学校アマチュア無線クラブJA8YFIを開局した。
 
 北海道教育委員会特殊教育課の力の入れ方に感心した。担当官が派遣され、児童生徒の実態把握と、私が提案したアマチュア無線のアンテナ設営計画などが検討された。
 直ちにアンテナ建設のための事務方と工事業者との打ち合わせが行われた。養護訓練室に無線設備を設置、高さ十メートルの鉄塔が校舎屋上に建設されることになった。これらの充実した設備によって、無線クラブの活動は一層活発になった。
  
 その後、国家試験の移動試験が難しくなったため、学校で二十時間の講習会で免許を取得できる総務省認定の講習会を誘致した。この講習会によって、児童生徒、学校職員、病棟職員、八雲町民がアマチュア無線の免許を取得した。私が八雲養護学校に勤務した十二年間で約四百名がアマチュ無線の資格を得た。
 講師は、町内の講師資格のある村井氏と私、そして、世話役の管理者を典子が担当した。典子は、この講習会で初めて重度の障害のある生徒の実態を見て驚いた。その後典子は、持っている保母免許を生かして、病棟の保母に応募することを決心した。典子の病棟での保母勤務は、八雲を離れるまで続けた。
 
 八雲町には村井氏が会長を務める「八雲アマチュア無線クラブ」があり、八雲養護学校アマチュア無線クラブとの定期的な交流会を持った。日頃電波で繋がっているアマチュア無線仲間が集まって、ゲームなどを楽しんだ。町民と直接ふれあうことのなかった生徒達であったが、アマチュア無線によって地域との交流が実現した。
 
 村井氏が会長を務める八雲アマチュ無線クラブでは、八雲養護学校の生徒と国立療養所八雲病院に入院しているアマチュア無線仲間のために、超短波を使った「中継機(レピーター)」を小高い丘に設備した。八雲アマチュア無線クラブ会員が、資金を拠出しての開局であった。中継局のコールサインは、総務省から偶然JR8WCが付与された。その局舎が丁度公衆トイレのようなデザインだったので、皆で局舎にぴったりのコールサインだと納得した。
 この中継機によって、八雲町内のハムは勿論、半径二百キロメートルのハムとも容易に交信出来た。八雲養護学校の生徒だけでなく入院しているハムは、ベットの上からハンデー無線機を使って、広範囲のハムと交信を楽しんだ。
 現在の携帯電話と同じ機能を二十年以上も前に使用していた。父母の中にもアマチュア無線の資格を取得して、入院している息子と連絡を取り合っていた。アマチュア無線が親子の絆を深めていた。
 
 高等部重複障害のクラスに在籍の女子Sさんがアマチュア無線の資格を取りたいという要望があった。重い小児麻痺のため言葉を話すことは出来なかった。しかし、パソコンを使って文字で会話したところしかっかりした内言語があることが分かった。
 私は、アマチュア無線の資格を取得出来ると判断した。試験の実施方法は個別に実施、解答は代筆で行うことを準備した。
 幸い二十時間のアマチュア無線の講習会を無遅刻無欠席で受講したので、終了試験を個別に実施した。Sさんは、問題なく優秀な成績で、第四級アマチュア無線技士の資格を取得した。
 しかし、言葉を発することが出来ないので、文字通信(パケット通信)でアマチュア無線家と交信することを計画した。Sさんのパソコンでの文字入力スピードは遅いが、文字通信の交信に成功した。はるか何百キロも離れた本州のアマチュア無線家との交信成功だった。
 最近の携帯電話を使ったメールの送受信をアマチュア無線の電波を使って二十年も前に実現していた。
 
 幸い国立八雲病院の医師や看護師もアマチュア無線の資格を取得、生徒と電波を通じて交信した。生徒の方が何年も前から資格を持ち運用していた。免許取り立ての医師や病院職員に、無線機の使い方や交信のマナー等を指導していたのは頼もしかった。
 
 昭和六十一年八月からは翌年北海道で開催される高校総体のPRをアマチュア無線年の電波で実施した。八雲養護学校が音頭をとって、北海道内十五校の高校アマチュア無線クラブとの連携活動であった。広報活動の実績が認められ、札幌での高校総体開会式に招待されたことはうれしかった。
 
 道内外のアマチュア無線家も八雲養護学校を訪問し、無線クラブ児童生徒と交流した。名古屋の高校生もお見舞いに来てくれた。残念ながらお見舞いに来ていただいて数ヶ月のしないうちに生徒は亡くなった。亡くなったY君は、無線クラブの部長であった。高等部三年になって、呼吸が難しくなって授業には出席出来なかった。無線クラブには、酸素吸入のボンベと看護婦さんを伴ってほんの十分ほど参加した。彼の全力を出しての出席であった。
 
 悲しいことに私の教え子達は、二十才を迎えることはほとんど出来なかった。彼らはどんなに悔しい思いでこの世を去って行ったのだろうか。
 
 私がこの学校で初めて担任をした三年生のクラスのことだった。ある日、一人の生徒が欠席した。私は、同じ病棟のB君に、
「C子さん体調悪いのかな」
するB君は、
「家に帰ったんだよ」
と言った。
 かなり症状の進んだC子さんが退院するなど考えられなかった。午後になって病院から連絡が入った。亡くなったというのだ。
 
 昨夜遅くC子は、集中治療室に移された。看護婦や医師がバタバタ廊下を急ぐ足音で入院患者は、C子が危篤状態にあり、もうすぐ天国に行くことは皆知っていた。だれも彼女の遺体にお参りも出来ないままそっと裏口から実家に帰っていったのだ。誰かが、C子の事を訪ねると、
「昨日、家に帰ったよ」
というのだ。
 C子の死亡は、病院から午後に教頭へ連絡があった。私は、この学校に長く勤務する学部主任に訪ねた。
「学級の生徒が亡くなった時は、担任はお参りに行かないのですか。そして学級の生徒の対応は」
 主任は答えた。
「なにもしない」
たったの一言であった。
 
 次の朝、私は、学級のみんなに言った。
「C子さんが亡くなったんだね。一時間だけC子のことを思い出して語ろうよ」
 生徒は驚いたように下を向いた。七人の生徒はぼそぼそと語り出した。
 「生徒会の生活部で頑張ってたよ」
 「そうだ、古切手を集めようて朝会で、きんきら声で言ってたな」
 「学校に子どもの頃使っていいたエレクトーンを寄付したいと言ってたよ」
 C子の小学四年から中三まで六年間の闘病生活をみんなは語った。
 児童生徒の死を病院が公表するようになったのは、それから数年後のことであった。クラスメート、そして学級担任が霊安室でのお参りが出来るようになった。
   
 一方私は、児童生徒と教職員のパソコン利用についての活動を開始した。医学の発達で健康を回復し、養護学校卒業後の趣味や通信、仕事に使える時代が来ることを予測していた。高等部の授業の中での教材として、アマチュア無線クラブでの通信の分野で、そして教職員の多岐にわたる事務作業の効率化などにパソコン利用が予想された。
 空き教室に高等部生徒のためにコンピューターを五台を事務の理解を得て導入した。専用電話回線(ISDN回線)の一回線を村井氏の勤務するNTT八雲局の協力を得て設備した。五台のコンピューターはLANを組み生徒や職員が使いやすくした。
 この設備で、簡単なプログラムの組み方や、ワープロ、表計算の使い方を高等部生徒に指導した。
 この指導には、若い赤松教諭が熱心に教材研究をして、高等部の情報教育に貢献した。
 
 これらの活動に加え 国際電信電話株式会社(KDD)から海外との回線がテスト提供された。この回線は、企業や商社が海外との通信に使用され、従来のテレタイプに代わる高速文字通信であった。この回線の掲示板に八雲養護学校との交流相手を募集したところ、イギリスの小学校から交流の申し込みがあった。
 この回線の無料使用期間に小学部六年生の二名が一年間簡単なメール交換を続けた。現在のような画像も送れる通信システムではなかったがコンピューター通信の先駆けとして注目された。
 
 私や八雲養護学校の教職員が中心になり、障害児者のコンピーターの活用を研究する、「北海道特殊ゥ学校情報教育研究会」を平成七年九月に立ち上げた。この研究会では高等盲学校の岡崎校長が会長を引き受け、私は事務局を担当した。会員は、北海道の特殊学校の教員五十名ほどが入会した。年一回の研究会には、会員他、コンピーターを使った教育を研究している大学教授や障害者向け教材を製造販売しているメーカ社員等が参加した。    
 
 私は、十二年間の勤務で一度八雲養護学校を離れたが、平成四年四月校長として再勤務した。
 八雲養護学校のコンピーターを活用した教育に対しては、文部省から高く評価され、多額の研究資金が提供された。
 私は、この研究費を使用して、二十室ほどあった八雲養護学校全教室及び職員室にLANを組み、インターネット接続や校内の教材や事務の共有システムを構築した。全校のLAN回線は、千メートルほどのランケーブルを購入、私と職員で校内にケーブルを張り回した。正に手作り回線だ。 
 
 
 
 
 
復 活 の 日
 
      肝臓移植40日後
   
 
 私は、三年間のタイのバンコク日本人学校勤務が終了して北海道の小学校に戻った。そして、三年ほど過ぎた昭和五十三年秋に青年海外協力隊に応募した。すでに子供も三女が生まれ三人となり、単身赴任の海外協力隊に参加するには不安もあったが、今度は開発途上国の皆のためになにか役立ちたいという強い願いを典子も理解してくれたのだ。
 
 一次試験は札幌であり、二領域で受験できるとのことで、「日本語教員」「理科教員」で受けてみた。幸い二次試験の面接までこぎ着けられた。東京西早稲田のJAICA(国際協力事業団)には、沢山の若者が集まり、集団面接、個人面接、英語の面接、健康診断、制服の採寸などと進み、私の心はすっかり海外に飛んでいた。
 
 ちょうどこの派遣を心に決め受験の準備をしていたところ、北海道新聞のコラムに外務省経済局のS局長のインタビュー記事が掲載された。北海道の出身というこの局長は、
「北海道の青年協力隊参加者が少ないのは残念」
とあり、
「北海道の青年が協力隊に応募するなら、不安なことなど相談にのる」
と呼びかけていた。
 
 実は、私も青年海外協力隊に応募するに当たって、心配なことがあった。北海道の教員としての身分を残して行きたい。無給でいいから籍だけ残したいという願いだった。勤務先の校長からは、
「北海道教育委員会に相談してみなさい」
とまで言ってくれた。
 年休を取って、その北海道教育庁総務課法制制度担当というところまで出かけた。
「実は、こういうことで相談にきました」
「あんた、なに言ってんだ。だいたい今日は、どんな身分で来たんだ」
「年休です」
「年休、あんた教員になるとき誓約書を書いたろう。仕事を一所懸命やるって誓約しただろう。今日は、勤務日だ。仕事はどうなってるんだ」
「・・・・・」
「職務専念義務違反だ」
「ところで、あんたどこの学校から来たの」
「檜山管内江差小学校です」
「そうか。おれも江差学校卒業生だが・・・・」
 やっと私の話を聞いてくれることになったのだが、
「海外青年協力隊・・・・前例がない」
 この担当では、結論は「前例がない」ということで、私の願いは実現しないようであった。
 もう一押ししてみることにして、以前日本人学校派遣で世話になった研修係を訪ねた。研修係はやはり前例がないので、小中学校課長に相談してみてはどうかと助言した。教職員課長は係長より遙かに若い三十代そこそこに見えた。衝立の向こう側にいるだが、なにやら大きな声をあげて、書類の束を放り投げていた。私のような平教員の話を聞いてくれるような雰囲気ではない。
 だが係長は、めんどうな話なのでこの文部省派遣の課長に回したのかもしれない。この横柄な態度の課長は、面倒くさそうに私の話を聞いたが、「青年海外協力隊派遣希望」と聞いて、態度は変わった。
「そうか、北海道の教員も国の事業に参加したいのか。考えてみよう」
 予想もしない展開となった。
 その後、何度か研修係長を訪ねてた。しかし、当てにしていた文部省派遣の課長は、何ヶ月もしないうちに本省に戻ってしまった。それでも、私の執拗な願いに、昭和五十三年夏に、
「休職で海外青年協力隊参加を認める方向で検討するから、試験を受けても良い」
と内々の連絡を受けた。
 
 こうして昭和五十三年秋の海外青年協力隊の試験を受けるまでにこぎ着けた。受験票には三年間のタイでの政府派遣教員の経験、帰国してからの国際理解教育の実践などを記載した。日本語教員と理科教員を受験した。二年近い時間があったおかげで勉強する時間が取れたので、試験には自信があった。残していく家族の事だけが心配であった。
 
 北海道新聞で青年海外協力隊参加を呼びかけていた外務省経済局のS局長に「北海道の原と言います。この度、勤務先の理解を得られて協力隊を受験します」と手紙を出した。 すると、すぐ返事が届き、「上京の際は、寄るように」と書いてあった。幸い札幌での一次試験に合格、二次試験を東京で受けることになった。外務省のS局長を訪ねてみることにした。外務省経済局長室には、秘書室があって秘書を通してのS局長との面会になった。
 S局長は、道産子と言ってもさすが外務省で活躍しているだけあって、洗練された高級官僚のセンスが漂っていた。
「どうして、協力隊に参加しようと思ったのかな」
「日本人学校勤務の時代は、あまり現地の人と交流出来なかったものですから・・・・」
 三十分ほどの面会で、
「試験をがんばってきなさい」
と激励を受け局長室を出た。
 外務省を訪ねたのは日本人学校の派遣の際、ほんの数年前のことであった。当時の福田外務大臣名の辞令の交付を受け、シャンデリアのある講堂で派遣教員の壮行会が開かれた。いよいよ日本を離れるのだという自分でも信じられない現実を実感していた。
 
 協力隊の二次試験は、予想よりも簡単で、派遣の意志確認のために行われていたようだった。制服の採寸まで行われた。健康診断では、日赤病院が担当していた。当時としてはあまり普及していなかった血液検査も行われた。
 
 そして、待ちに待っていた合格発表の日がやって来た。午後一時、予定のとおり合否の電報が配達された。
 「アナタハ、コンカイノセンコウデハ フゴウカクトナリマシタ」コクサイキョウリョク ジギョウダン
 私には信じられない電文が印字されていた。
 急に目の前が真っ暗になり、目を覚ました時には六時間も過ぎていた。典子の話では、死んだように眠っていたとの事であった。私は、どうしても不合格が信じがたく、その理由を外務省のS局長に調べてもらった。すると数日して、S部長からの手紙が届いた。
「原さん、残念だが君は、血液検査の結果オーストラリア抗原に犯されている。前回の海外勤務での感染だと思う。青年海外協力隊員で派遣先での死亡原因の多くがオーストラリア抗原による肝臓障害だ。だから、君は二度と海外派遣は無理だ。開発途上国の援助は国内からも出来る。国内での活動を考えてみなさい。私も応援するから」
 S局長の優しい励ましの手紙だったが、「オーストラリア抗原」なるものがいったい何なのかという知識もなかった。
 
 私は、すぐ町立病院を訪ね診断を受けた。医師は、
 「GOT.GPTも四十程度と正常の範囲だから、今は特に治療の必要がない。ただ、感染から二十年後位に肝臓障害が起こると言われている」
 感染源として、思い当たることは、タイに派遣されていた時代に毎年数回破傷風はじめ各種の予防接種を受けていたことであった。ある時は、日本人医師のいる病院で、ある時は警察病院だった。なんの不安もなく市民と一緒に予防接種を受けていたのだ。日本人医師のいる病院だって、注射針は回し打ちで注射針が切れなくなるまで使っていた。
 
 これが私の「オーストラリア抗原」現在の「B型肝炎」と呼ばれているウイルスとの付き合いの始まりだった。
 
 
 早朝二階の寝室からトイレへ立った。トイレから出てドアを閉めようとしたとたんに意識を失った。二月ころから風邪症状が続き、町医者に行ったところやはり「風邪」と診断され、風邪薬を飲んでいたが一向に良くならない。そのうちに人事異動が発表され、以前勤務していた北海道八雲養護学校へ配属となった。引っ越し荷物づくり、送別会、転勤と三月中旬から多忙を極めた。
 八雲町に引っ越してきて荷物をかたづけを続けた。息切れがして二階に荷物を運び上げられない状態になり体調の異常に気づいた。
「体調がおかしい」
と感じるようになり、近くの医者に診てもらった。血液検査の結果は、肝機能の数値も正常内であるとのことであった。八雲養護学校はそんなに大きな学校ではないが、平屋の校内一回りするとほんの百メートル位しかない。だが息切れがして疲れを感じた。
 
 トイレの前に倒れた私は、不吉な予感に起きてきた典子に支えられ、何分もしないうちに意識を回復した。すぐ典子の運転で八雲町総合病院に運ばれた。医師は食道静脈留出血を疑い、内視鏡検査に入った。後で分かったのだが、内視鏡のレンズやチューブには、いろいろな太さやサイズがあるようで、この時の設備は、太く大きかった。たぶん数分の検査だったと思うが苦しさは大変なものだった。。
 検査の結果は、今は出血はしていないものの食道静脈留がはっきりとカメラはとらえていた。実は、二つ前の職場の時、平成七年八月に旭川の病院で胃カメラを飲んだ。カメラを操作していた医師が、カメラを食道に入れたとたんに、
「この人は肝臓障害だ。静脈留が見える」
と言ったのだ。その後の診断で医師は、
「命に関わる。手当をしなければ」
と注意してくれた。
 しかし、私は、教頭職を努めボランテア活動を毎週の土日にやり、北海道内、本州各地はおろか発展途上国にも年間二回は出かけてた。体は、快調でその医師の言葉を信じる事が出きなかった。苦しい内視鏡検査の中で、旭川の医師の言葉を思い出していた。
 
 検査入院を続けた。その後は黒い便や下血はないものの強度の貧血状態にあるとの診断であった。念のため腸の内視鏡検査もする事になり、病室から検査室に行った。準備室には、数名の患者が待っており、看護婦さんより下剤の入った二リットルの水を飲むようにとの指示があった。患者の一人が以前のこの病院で腸の内視鏡検査を受けたことがあり、
「苦しいの何のって、大変な思いをしたよ」
という経験談に、私を含め、残りの患者は青くなって、二リットルの水を飲んでいた。
紙の下着を付けさせられ、検査が始まった。
「入れます」
と医師の声で、内視鏡が肛門から入れられた。
 多少ごそごそという感じがしたが、全く痛くも苦しくない。あの苦しかった胃カメラを予想していた私は拍子抜けがした。これは個人差なのか。さっきの患者がオーバーに言って脅かしたのかも知れない。同じように札幌医大でも腸の内視鏡検査は、苦しいものでなかった。いずれの病院でも腸からの出血は発見できなかった。
 この時の入院の治療は、毎日の強力ミノファーゲンの注射、造血剤や栄養剤の点滴、数日おきのタンパク質の点滴であった。みるみる私の健康状態は回復し、約一ヶ月の入院で退院出来た。
 退院後は、通院し強力ミノファーゲンの注射を受けるよう医師の指示が出た。入院中は、毎日教頭や事務長が見舞いに来て、学校の様子を話してくれた。本当にありがたいことであった。幸い病室に電話回線があり、これを使ってインターネットで肝機能障害に関するホームページをみて、知識を得た。肝移植経験者のページもあり、まさか自分が一年ほど後に移植手術を受けることになるとは予想もしていなかった。このころまだ病院ではパソコンの持ち込みを想定しておらず、総婦長さんに願って許可を得た。
 
 この入院を期に典子や親戚は、私の病気に対しての不安を強くした。そして大きな病院での検査を強く薦めていた。私も自分の健康状態に自信がなくなっていた。八雲の病院の主治医に家族や親戚が心配しているので札幌医大での検査を受けたいと申し出た。
 
 札幌医大に予約無しで受診したところ、初診は第二内科の教授がみてくれた。そして、胃カメラの予約が出来、予定の日に検査を受けた。胃カメラは八雲の病院でとても苦しかった経験があったが、ここはそれほどでもなかったように思う。物差しを当てて測った訳でないが、八雲の病院の胃カメラに比べ小型で、チューブも細く感じた。
 余談だが、この胃カメラの消毒は病院によってちがい、カメラから色々な病気に感染するというのだ。消毒液に所定の時間浸けて殺菌するとの事だが、病院によってえらく管理が違うとのことだが本当だろうか。
 
 やはり食道静脈瘤があり、すぐ治療を勧められた。いつパンクするか分からない静脈瘤に不安のあった私は、その場で入院を予約した。入院は、学校が冬休みに入ってすぐの十二月二十二日からで、典子と共に朝一番の寝台列車に乗り札幌医大に着いた。入院する数日前からまた体の不調が始まった。
「ひょっとするとしばらく帰ってこられないかもしれない」
そんな不安がよぎった。
 
 札幌医大では、食道の「硬化療法」で治療をすることになった。冬休みの間に三回は治療したいという計画で、私の食道静脈留への治療が始まった。内視鏡を使っての治療は、X線のモニターをみながら静脈留に硬化剤を注入していくというものだ。一回目の治療が始まった。
「また苦しい胃カメラを飲むのか」
と覚悟をして手術室に入って。X線のモニターが何台もあり、コンピユータのファンか響いていた。
「治療をする医師の○○です」
「同じく医師の○○です」
「レントゲン技師の○○です」
「看護婦の○○です」
 皆さんが自己紹介された。私も、「患者の原です」というのがいいのかとも思ったが、なんかへんなようで、
「よろしくお願いします」
と挨拶を返した。
 胃カメラの先端からは、青白いまぶしい光が輝いていた。まず、のどの麻酔シロップ、局部麻酔の注射、次々に準備は進んでいった。
「はい、麻酔を入れます」
と医師の一人が点滴のチューブに麻酔薬を注射器で送り込んだ。ほんの数秒もしないうちに私の意識はなくなった。
 
 私が病室のベットの上で気がついたのは、数時間後の夕方になっていた。長い時間目覚めない私に典子は心配したとの事であった。頭が麻酔のためにボーッとしているのを除いて、痛みもなく典子から治療は終わったと聞いても半信半疑であった。
 今回の治療では、気管に水が入りずいぶんむせて治療に時間がかかったとの事であった。一時間半も胃カメラが入っていたとの事で、もし麻酔なしだったら大変な苦しさだったと思った。
 
 食事は、食道の治療の後のため一週間かけて普通食に戻った。当日、一日目 絶食、水はほんの少しだけ飲んでも良いとのことだった。
二日目 朝、昼、夕食ともにおもゆ
三日目 おもゆに米が何個か発見できた
四日目 おもゆに米が少し増えた
五日目 もうおかゆと呼べるほど米が増えた。おかずも白身魚などがつくようになった
六日目以降 おかゆ。おかずはもう普通食と変わらなくなった
 
 札幌医大入院一日目に、医師より点滴の準備をするので、処置室に来るようにとの指示があった。すぐ出かけると、腕の静脈に点滴をすると動いたり手で触ったりしてして傷口が広がったり、感染症の細菌が入ったりする恐れがあるので、鎖骨の静脈から点滴するとの説明であった。
 局部麻酔のあとプラスチックの針が埋め込まれた。そして、その針の向きが正しく入ったかをX線で確認した。私は、この時初めてプラスチックがX線に写る事がわかった。骨が写るのだから、プラスチックも写るのだ。この針は一〜二ヶ月間もつとの事であった。この処置のお陰で、その後マスキングをするだけで、シャワーや風呂に入れたのは大変ありがたかった。
 
 病院の生活は、時間の経つのが早く感じた。例年の今頃は、開発途上国にボランテア活動に出かけている頃だが、今は治療に専念しなければならない。十二月二十四日、クリスマスイブがやって来た。
 札幌医大のクリスマスイブは、先生方がサンタクロースやトナカイのぬいぐるみを着て、患者にプレゼント配って歩くというものだった。企画はいいが、ぬいぐるみを着せられて汗をかいている先生方には大変申し訳ない事だ。看護婦からの激励のメッセージも届いた。
「やっぱり医師もサービス業なのかな」
と妙に私は感心した。
 
 クリスマスを過ぎると、同室の患者は、一時帰宅が認められ帰省する人が多くなった。私の場合は、万一の食道静脈瘤からの出血の心配があり、札幌市内での外泊ならOKとなった。折角外泊の許可が出たので、大晦日だけ市内のホテルに泊まることことに決めた。
 典子と大晦日のホテルに泊まるなど結婚して三十年なっかたことだ。それどころか私は、この十五年くらい年末年始に家にいたことがなかった。
 札幌駅前のホテルに行く前に近くのパソコンショップを覗いた。まだ入院して十日ほどしか経っていないのに、何年ぶりかで街を散策したようで、健康のありがたさをつくづく感じた。ほんの三十分ほどで散策してホテルに入った。
 夕食は、娘と約束していたボーイフレンドとの会食であった。娘とボーイフレンドがホテルまで車で迎えに来てくれた。大晦日の夜に開けているレストランなどあるかと心配したが、居酒屋があいていた。妙に緊張したボーイフレンドは、口数も少なく、私や典子が訪ねたことをぼそぼそと答えた。
「きっと昔、典子の家を訪ねた時、私もこんなもんだったのかな」
と自問した。
 年の違う若者と五十歳代の夫婦では、今いる環境も考え方も全く異なっていいる。共通の話題などほとんど無い。居酒屋で夕食、ウーロン茶、たいした大晦日にはならなかった。娑婆の空気を吸えた事で私は満足出来た。
 病院のカーテン一枚、約一坪の生活空間から、ホテルの十坪ほど、十倍の面積がなんともゆったりして、あずましいかった。
 二十一時の消灯もなく、十年以上も観たことのなかった紅白歌合戦を終わるまで観た。久しぶりに日本で大晦日を満喫した。
 
 元旦は、ホテルのバイキング形式のお正月料理であった。
「大晦日にビジネスホテルに泊まっている人なんていないだろう」
と昨夜典子と話していたが、なんと結構な人たちが朝食会場に来ていた。
 私は、典子に、
「おい、こんなに年末年始に仕事をしている人がいるのか・・・・」
と感心して話しかけた。もちろん典子も年末年始のホテル泊は初めてのことで、人の多いのに感心していた。雑煮のほか正月料理もありバイキングとはいえ楽しめる料理が並んでいた。
 
 午後には、現実の世界である札幌医大の病室に向かった。さすがに正月、私の六人部屋の皆は外泊して誰もいない。
「早く帰り過ぎて職員さんに迷惑をかけたかな」
と思うほど、第二内科の病室は、各室共にがらんとしていた。典子も八雲に戻って行った。大きな部屋にたった一人で過ごすのは寂しい。
 
 正月も終わりかけた一月十日、私の二回目の治療が行われる事にななった。医師の話では、私は麻酔が効きすぎるので、今度は麻酔を軽くかけるとのことだ。私は、八雲での胃カメラの検査の苦しさを思い出し、
「先生、ちゃんと麻酔をかけて下さいよ」
と主治医をはじめ担当の研修医、看護婦さんにも願った。先生方の返事は、
「分かりました」
と言ってくれたが、これは全くのリップサービスであった。一回目の気管へ水が入ったのは、麻酔の効きすぎが関係したようで、二回目の治療では、ほとんど麻酔を効かせていなかった。私は、のどに内視鏡が入っているものだから、
「苦しい」
とも伝える事が出来ないのだ。もちろん脂汗をにじませている私を観て、医師団は私の苦しさを理解していた。麻酔は追加されることなく食道静脈瘤の治療は続けられた。
「もうすぐ終わりますよ」
 看護婦から三回位聞いたように思う。
「はい、終わります。抜きますよ」
という医師の声のうれしかったこと、そして、静かに内視鏡が抜かれて行くとき体中から力が抜けていった。
 やはり今回も一時間半ほど内視鏡をのんでいたのだ。治療中の体力の消耗は大変なものだと思った。手術台から降りるときもふらふらでとても自力で立てなくなっていた。三回目の内視鏡での治療も決まっていたが、当日の朝の体温が三十七度八分ほどあるため中止になった。私が、
「先生、やってくだい」
と申し出たが、医師団は慎重でやはり体調の良いときに治療した方が良いという結論であった。私は、自分の職場の人事協議が本格化する次期になったため、今回は退院することにした。
 
 三回目の食道静脈瘤の治療を札幌医大に予約していた。入院の調整をしているのは科の総婦長だそうだ。平成十一年七月のある日、職場に婦長から電話がかかってきた。
「八月十日に入院して下さい」
との事だ。
 三回目の入院とあって、覚悟も決まっていた。私の希望のとおり夏期休業中の入院としてくれた。夏休みと言っても生徒は休みだが、我々教職員は勤務日だから、土日の休みを除いて傷病休暇や年休を取らなければならない。また身辺の片付けをして、入院準備に取りかかった。
 
 八月ということで、典子の運転する車で札幌医大へ送ってもらった。いつものように典子は心配していた。札幌医大のありがたいところは、入院患者用の駐車場が用意されていることだ。
 三回目ともなるとさすがに顔が知れたのか、看護婦や清掃の職員も名前を覚えていてくれいた。主治医の先生もすぐ来て、新しい研修医の紹介があった。札幌医大は、三ヶ月毎に研修医の科を変えているとのことであった。
 また、一週間に一度教授回診があった。教授が、科内の医師や研修医を連れて病室を回るのだ。カルテを見ながら一人の患者にほんの三分程度だが問診をする。主治医が最近の病状、データーを報告したり、教授が患者から直接体調などを訪ねる。そして、教授が主治医に治療の指示を与えていく。
 これは良いシステムだと思う。教授の経験から的確な治療の指示を出し、また、一週間後に経過を確認している。学校にこのシステムを導入すると成果が期待できそうだ。
 ただ教育の現場ではなかなかこのシステムを導入しづらい部分がある。教員は、「鍋ぶたの社会」と言って、教員すべてが平等という意識が強く、たとえ校長と言えども学級経営や教科経営には、あまり口を出さないとういうのが根底にあるからだ。
 
 さて、研修医だが、これがまた注射や点滴の針を刺すのがヘタで、痛いのだ。腕の静脈へ針を五回も六回も刺しても成功しない。だが患者はじっと我慢をしている。もちろん研修医が早くカンをつかんで、うまくなってもらいたいという願いからだ。
 ある時、担当の研修医が私の腕に点滴の針をつける事になった。私の不安は的中して何回研修医ががんばってもうまく血管にプラスチックの針は収まらない。血管を探すため針でグリグリ回すものですから痛いの痛くないのって大変なものだ。
 研修医はあきらめてベテランの看護婦さんを連れて来た。するとほとんど血管の見えない私の腕を軽くさすり、さっと針を刺すとなんと一発で成功ではないか。これが一年生と二十年生の差なのだ。私の職業の教師の世界にもにも経験によってこんなに差があるのかもしれない。
 
 今回は、一回の治療で終わった。これまでの食道への硬化療法に加えて、輪ゴムで静脈瘤を止める結束治療も行ったとの事だ。今回が内視鏡を使った三回目の治療だったが、私は、二回目の軽い麻酔の際の苦しみを思い出して、再三医師団に麻酔をかけてほしいと懇願した。
 今回はかなり深く麻酔がかかったようで、意識は残ったが、そんなに苦しくはなかった。麻酔の関係もあるかもしれないが、胃カメラをのむ「コツ」のようなものを少しずつ会得したのかもしない。
 もう胃カメラを飲んで、十回以上になる。コツは、とにかく体の力を抜く事だ。これが言うは易しでなかか出来ない。麻酔をかけてもらうのがベストだ。医者の話では、麻酔の副作用はそれほどないとのことだった。
 
 入院生活にも慣れ、同室の患者の皆との雑談も楽しい。本当に後々ためになったのが隣のベットの患者からの助言だ。
「原さん、特定疾患の指定を受けた?」
「え、なんの事ですか」
「もう原さんならきっと肝臓病で特定疾患の指定を受けられるよ。指定を受けるといろんな医療補助の対象になるんだ」
 医療制度に全く知識がなかった私に隣のベットの人が教えてくれた。これで四回目の入院となるが、そのたびに五十万円程度の医療費を払っていた。その後、ほとんどの医療費は共済組合から戻っては来ていた。だが医療費は相当の負担になっていた。早速医師に相談すると、
「そうかまだ手続きしていなかったのか」
と言って診断書を書いてくれた。もう何回も入院しているので当然手続きをしていると思っていたのだ。
 
 この治療を終えて、早速地元の保健所で手続きをした。これが後になって絶大な威力を発揮した。移植手術そのものはドナーもレシピエントも保険の対象外だ。
 しかし、特定疾患の指定を受けていると退院後の通院、投薬、移植後の感染防止のための歯科通院、これが、ほとんど一回千円以下位になるのだ。現在、通院は一ヶ月に一〜二回で、そのたびに血液検査を受ける。投薬も一ヶ月十万円以上の薬をもらっていた。二ヶ月に一回の割合でする血液製剤の点滴は、実に一回二十五万円もするのだ。これがほとんど五千円以下になるのだ。入院も月額一万四千円で済むというのには驚いた。
 
 九月十三日、一応食道静脈瘤の治療を終わり、十二月の再治療を予約して札幌医大病院を退院した。
 
 食道静脈瘤の治療を受けていて、札幌医大の退院の数日前、私は、足の訓練のため一階から入院病室の七階まで階段を使って歩いてた。入院中は同じ階を洗面やトイレなどに行く程度で運動不足が心配されたからだ。一階から階段を上ってみるとどうも体が重く、前の退院の時と体調が違うように感じた。まさしく退院してほんの数日で思わぬ障害が発生した。
 
 私の職場では、臨時職員を採用することになった。それで、私が面接をすることになり、午前十時に臨時職員を希望する女性と面接をした。
 
 「今日の午前中に面接された方いかがでしたか」
 事務長に面接の結果を聞かれて、私は、答えに困ってしまった。私は、確かに午前中に誰かに会ったような気もするが、会った人が女性なのか男性なのかも思い出せないのだ。
 私は、慌てて人事調書のファイルを開いてみた。女性の履歴書には写真も貼ってあった。確かに私の字で、面接の所見も記入してあった。しかし、私には、この女性と会った記憶が全くないのだ。これが数年前とかではなく、ほんの三時間前のことなのだ。
 
 この時、私は以前にホームページでみた肝移植患者の手記を思い出した。
「肝機能障害の最後は、意識障害が起こる」
 確かにそう書いてあった。私は、肝臓障害の末期の状態になっていることを直感した。
「今日は、主治医の先生は、休みのはず」
 そう思ったが、八雲総合病院の外来に駆けつけた。外来で、内科医に私の症状を伝えると、
「すぐ入院です」
 やはり、入院することになった。札幌医大病院を退院して、わずか五日目の事であった。
 
 すぐに八雲総合病院の内科のICUに入院となった。入院して数日は、意識が薄らぎ、このまま死んでしまうのかという不安が脳裏をかすめた。ICUには主に老人が入院しており、うめき声と呼吸器はじめ各種の医療機器の音が絶え間なく響いていた。幸いにも個室が空いたとの事で移った。
 
 平成十二年十月末、八雲総合病院に入院していた私は、ついに死の宣告を受けた。私に直接医師からの告知はなかったが、私自身の病状から死を予知できた。尿が全く出なくななった。
 「姿勢が悪いから尿がでないのかな」
 私は、尿器を持ってベットの横に立って小用をたそうとした。しかし、一滴二滴落ちるだけではないか。
 ほんの数日前まで利尿剤を注射すると三十分もしないうちに出た小水も出なくなった。なにか背中が生ぬるいように感じた。毛布をはずしてみるとシーツが真っ赤になったいた。点滴の針の近くから血が流れ出いて止まらなくなっていたのだ。手足のあちこち、いやもう全身の皮膚がまるで点滴の薬がもれたようにぶす色になっていた。死斑が体中に出来ていたのだ。もう死期は寸前に迫っている、この事実はだれも否定できない。
 
 昨日まで付けられていた点滴もはずされた。タンパク質の投与も栄養剤の投与も終わった。
 
「そうだ、明日は、高等部の初めての東京への修学旅行だ。生徒と一緒に行けないお詫びを書かなくては」
 しかし、鉛筆を持った手には力が入らなくて字も書けない。
「ねえ。おれはもう字も書けないんだ。代筆してくれないか」
 典子は、無理をして元気そうに、
「わかったわ。さあ書くわよ」
と言ってくれた。
「高等部の皆さん、おめでとう」
「君たちが八雲養護学校初めて」
「飛行機に乗って東京にいくんだ」
「実現のために長い年月がかかったね」
「みんなの長い長い夢が実現するんだ。おめでとう」
 私の目には一節ごとに涙があふれた。たった何行かの生徒への手紙に泣き虫の私は、三十分以上もかかった。
「団長の私がいけなくてごめんなさい」
「元気で八雲に帰って来て下さい」
 書き終わって、私は、泣き崩れてしまった。妻は、気丈に黙って背中をさすってくれた。
 
 私は、養護学校の教員として、難病に苦しむ生徒を励まし続けてきた。半日、一日、そして一泊二日とこの十五年ほどの間に、生徒の修学旅行の日程が延長されてきた。これは、医療の進歩もあるが、病院の医師と看護婦の付き添いなどが充実したためだ。生徒の入院している国立療養所八雲病院の職員の協力のお陰であった。高等部の生徒から何年も前から、
「東京に行きたい」
という要望が出ていた。しかし、飛行機内の気圧が低いことや小型の人工呼吸器がなかったなどの課題が解決できなかった。東京行きは長年実現出来なかったのだ。
 
 平成十二年十月十七日、八雲養護学校の高等部の東京行きが実行出来ることになった。だが引率団長の私は生徒と一緒に行けない状態になった。私の涙はいつまでも止まらなかった。
 
 私を心配しながら典子は生徒への手紙を持ち帰えった。もう病棟は静まりかえって、患者の皆は寝静まった。
 私は、ふらふらと窓辺に近寄り窓を開けた。四階の窓から、街の明かりがみえていた。月の光に照らされて、眼下には池の水が光っていた。フーと私は、このまま飛び降りたい、飛び降りたらどんなに楽になるだろうと考えた。そんな思いが脳裏をちらついた時、私は現実の世界から幻覚の世界へとワープしていた。
 子供の頃からのこと、学生時代のこと、教員になってからのこと、妻と明日日本に帰国する最後の晩餐をバンコクのズシットタニーホテルで摂っているところ、ほんの数秒の間にビデオの早送りのように思い出された。ズシットタニーホテルの夜景は街を飾るイリミネーションが近くに遠くに光っていた。流れる川のように車のヘッドライトがつながっていた。
「原さん」
 私は、見回りに来た看護婦の声に現実に引き戻された。看護婦の声がなかったら、私は、思い出のズシットタニーホテルから眼下の光の海に飛び込んでいたかもしれない。
 
 私の意識は一層薄れてきた。
 
 長女が見舞いに来たようだった。そして、私は、札幌の病院へ搬送のため移動ベットに移されたようだった。きっとすごい騒音だったとはずだが、ヘリコプターの中での事は全く記憶がない。
 ヘリコプターで搬送をほんの二十分ほど前に知らされた典子は、バック一つに荷物をまとめ特急列車で、札幌まで私を追いかけた。
 
 私が意識を失いはじめた頃、妻や娘は生体肝移植を模索していた。もう肝臓の移植しか私の命を助ける事が出来ないという情報を何人かの医療関係者から得ていた。
 妻と娘達は、北海道で唯一肝臓移植手術を行っている北海道大学医学部第一内科藤堂教授と連絡を取り始めていた。そして、北大病院では手術の可能性について、患者である私を八雲病院まで診断に来ていた。ありがたいことに喘息持ちの長女を除き、妻も次女も三女も肝臓提供を申し出てくれていたのた。
 
 札幌の病院に着いた私は、ICUで延命の治療が行われた。後で聞いた話では、もうこれ以上の延命治療はないという最高の治療が続けられたとの事だ。しかし私の意識は一層混濁して幻覚や幻聴が続き、現実が全く分らなくなった。
 
 私は、幻覚の中で北朝鮮にいた。北朝鮮から招待を受けた私は小さな村々を見せてもらっていた。ある村はお祭りであった。とある学校に寄った。その学校は、大学か専門学校のようで、科学の実習を見学した。ある教室の前で、半分開けた扉の向こうからモールス符号が聞こえてきた。軍事訓練のようで、かなり早いモール符号が飛び交っていた。
 私は、長年アマチュア無線をやっていたのでモールス符号は分かった。電文の中に「TOKYO IS FINE」と天気の報告があった。私は、ガイドに、
「東京の天気は晴れているようですね」
と言うと、ガイドの顔が急に険しくなった。そのまま私は拉致され、ベッに縛り付けられてしまった。
 
「私は、北海道の原だ。決してスパイではない」
 大声を出して助けを呼んでいた。するとベットの横にあった鶴の置物のくちばしから白い煙がもくもくと上がりはじめた。
 「青酸ガスだ 助けてくれ」
 私は、叫んでいた。これは、札幌の病院のICUだったのだ。モクモクと上がった煙は、実は私の口やのどをしめらせるための加湿器の白い霧だった。
 
 腸閉塞が三カ所起こったとの事で、移植手術は絶望的になった時のことだ。私は突然便意を感じて背中まで汚れるような大量の便が出た。今までの苦しさが嘘のように便が出て、腸が開通したのだ。看護婦達には申し訳ないが、紙おむつをはみ出すような大量の便が出たのだ。何枚ものぬれタオルで体を拭いて、おしめや下着、シーツを取り替えてくれた。 看護婦三〜四人が私の下着の着せ替えをするものだから、私の体を大きく動かした。すると体を動かされたわけだから腸も動くのだ。また、数分経つと便意をもよおした。まったく看護婦達には気の毒だが、また大量の便が出た。しかし、私にとって、腸閉塞が直ったのは奇跡が起こったと言ってよい。
 
 腹水もずいぶんたまっていた。腹部に穴を開け、腹水を出したのだが、数リットルも出たという。
 
 私の幻覚は一層激しくなって来た。私は、もう本当にだめだと思った。ほんの十分だけ面会を許された典子の顔がぼやけて見えていた。
「お願いだ。明日まで命があるよう先祖に祈ってくれないか」
 私は、典子の手を取って一緒に手を合わせた。
「ご先祖様、どうかあと一日生かして下さい」
 無信論者の私は、仏様にお願いしても私の命乞いは聞いてもらえないと思ったからだ。だから先祖に助けを求めた。自分の今の病状から、たぶん今夜で私の命の火は消されるだろうと感じた。だから、せめてもう一日だけ生かし続けてもらいたいという願いだった。一日以上は、とても体の状態からみて無理だろうと思えた。
 
 祈り終わった瞬間、私の体は、真っ赤な母の胎内に入って行った。そして、祖母の、そのまた祖母の何代もの母親の胎内を通り抜けた。突然明るい広間に出た。そこには、立派な仏壇があった。仏壇の中なのか後ろなのかはっきりしないが、声が聞こえてきた。
 「私は、天空を支配するものだ。お前の願いは聞いておく」
 その後何が起こったのか全く分からなくなった。
 
 私が気づいたのは、どこか場所の分からない病院のベットの上であった。私の体には、何本もの点滴のパイプがつながり、周りには、点滴の機械や医療機器が視野一面にあった。どうしてもここがどこか分からなかった。
 ブルーの制服を着た医師や看護婦が忙しそうに行き来している。どの顔をみてもインド人のように小麦色の肌をしているのだ。室内は、点滴のアラームやいろいろな医療機器の音が響いていた。どうしてもここの場所が分からない。
 
 私を三人の影がのぞき込んでいる。やはり青い制服に頭にもすっぽりと青いキャップをかぶっている。典子と次女と三女のようだが、いくら目をこらしてもどの影が典子でどの影が娘なのか区別が付かない。
 
 「おめでとう。肝臓移植が成功したのよ」
 そう言ったのが典子の声だと分かった。
 「やっぱり清美から肝臓をもらったのか。清美は大丈夫か」
 「大丈夫よ。ほら元気でしょう」
 三女の声がした。私は、どうしても典子と次女三女を見分ける事が出来なかった。ただ、私は確かに生きてているらしいことが分かった。典子と先祖に延命を祈って泣いたあの時から、いったい何日たったのか月日も場所も分らなかった。
 
 毎日、典子や娘達が見舞いに来た。私の意識も少しずつはっきりしてきた。典子と娘を見分けることも出来るようになった。
「お願いだ。ジュースを飲みたいんだ。咽どがからからなんだ」
本当に私の口の中はからからに乾いていました。目覚めると舌が乾いて堅くなっていた。体が強度の脱水状態になっているた。
「まだお医者さんから、水やジュースの許可が出ていないでしょう」
「お金でもいい。キャシュカードでもいい。ジュースを買うから置いていってくれないか」
「・・・・」
「頼むから、私の言うとおりにしてくれ」
 私が、いくら言っても、水もジュースもお金も持って来ない。まだ、幻覚と現実の世界をさまよっていたのだ。
 
 ICUは、外が見えず、時計もなく、今、朝なのか夜なのかも分からない。とにかくのどが渇いた。看護婦に何回水を頼んでも持って来ない。それに、自分で立って行って、トイレに行きたいと言っても、両手がバンドでベットに縛られているようで動けない。
「看護婦さん、お願いだ。トイレに行かせてくれ。自分で行けるから」
「だめですよ。まだ先生の許可がありませんから」
 
 実は、ICUを出て一般入院病棟へ移ってからも、冷たい水とオレンジジュースを飲みたい、そして、トイレへ行くことを何度も看護婦に頼んだ。しかし、看護婦の答えは、
「お医者さんの許可が出ていません」
の一点張りであった。それで、回診の際に医師に水のこと事を頼んだ。
「ベットから立つのは無理だけど、水とジュースはいいでしょう。少し飲んでみなさい」
と言ってくれた。
 私は、喜んで、早速、典子にオレンジジュースを買って来させた。コップにつぐのももどかしくジュースを飲もうとした。ところが一口飲もうとすると激しくむせて飲めないのだ。 おまけにめちゃくちゃに甘くて飲めたものではない。「飲む」という機能が失われていたのだ。水分が気管へ流れててしまうのだ。味覚もおかしくなっていた。何年か前、癌の友人の病室を見舞いに行ったことがあった。その時友人は、
「最近味覚がおかしいんだ。なんでも猛烈に甘いんだよ」
と話していたのを思い出した。死の寸前にあるときは、味覚が狂うよだ。
「トイレへ行かせて下さい」
と言っていた私に、やっとベットから起きても良いという許可が出たのは、一般病室に移って十日以上も経ってからだ。これも驚いた。ベットに腰をおろし床に足を着き立とうとした私の体は、ピノキオの体のように崩れてしまった。歩いてトイレまで行きたいという願いも全く無理な事だった。
 
 平成十二年十一月二十八日午後から二十九日未明までの約十七時間、北大病院で藤堂教授他の移植チームに生体肝移植手術を受けたのだ。手術後十一日目に一般病棟へ移る事になった。しかし、私は、まだ幻覚や幻聴の中にいた。
 十二月八日、私は移動ベットで一般病棟へ移された。途中たぶん透析室で透析を受けたのではないかと思う。私は、ずっと幻覚の世界にいた。透析室から、廊下を回ってエレベーターに乗ったようだ。ところが、何階かでエレベターからおろされ、廊下におかれたまま一夜を過ごす事になったではないか。
「どうして、廊下に放置されるんだ」
 私は、大声で叫んだようだが、誰も助けに来ない。どうして廊下に置かれるか不思議だったが、実はこれは全くの私の幻覚で、まちがいなく、一般病棟の個室に入っていたのだ。手術十一日目、まだまだ私の意識の回復は十分ではなかった。
 
 肝臓を提供してくれた三女もすぐ近くの病室に入院していた。時々私の部屋に見舞いに来た。娘の胸や腹にも私と同じ大きな傷跡が残っているのだろうか。
 家族から肝臓の提供を受けるらしいということは、札幌の病院に運ばれた時点で知らされていた。しかし、典子、次女、三女が検査を受けているということだだったが、混乱した頭の中で年齢の一番若い三女から提供を受けるのではないかとなんとなく予測出来た。 まだ、未婚の三女の体に大きな傷を残し、命にかかわるリスクのある生体肝移植をさせるなど精神の正常な時は、とても受けることは出来なかっただろう。
 結果、結局三女と付き合っていたボーイフレンドもこの手術後に去って行った。ボーイフレンドは、娘の肝臓提供に大反対だったということだったが、それは、きわめて当然のことだ。
 平成十二年十二月八日、ICUから病棟へ移った私は、まだ五〜六本の点滴のパイプにつながれていた。腹部には、三本ものチューブが入っていた。傷口にはまだホッチキスの針のような金属が残っていた。
 まだ身動きさえできず、体位を変えたい時や、だんだんずり落ちてベットの下の方に体が行ってしまった時は、看護婦に引っ張ってもらわなければならなかった。もちろんトイレにも行けない。体のあらゆる筋肉は衰え、介護なしには全く動けないのだ。レントゲン撮影も移動してくる簡易のレントゲンで寝たまま受けていた。
 
 投薬は、ICUでの十一日間はすべて点滴でチューブで静脈や胃に入れられていた。一般病室に移り口からの投薬を試みたが、まだ水が飲めないことや味覚が極端に敏感でとても飲み込むことがでなっかた。しばらく栄養は点滴の中に入れられたようだ。
 胃へのチューブは、鼻から入れていたが、これがとてもつらいものだ。札幌の病院に搬送され、この胃へのチューブを入れたのが、どういう訳か私の場合気管に入ってしまうようで医師が何時間もかけて食道へのチューブ挿入をがんばってくれた。
 このチューブ挿入はとても苦しいものだが、栄養や投薬のために絶対必要なようで、医師は汗だくで何時間も挿入をトライしていた。意識も薄らいでいく中で、医師のがんばっている姿に感動した。
「先生、今日はあきらめて下さい」
と私が言うと、医師は、
「後一回やらせて下さい」
と言うのだ。そして、チューブに注射器で空気を入れて、押してみると圧力で食道に入ったか気管に入ったかが分かるのだそうだ。
 この胃へのチューブが取られたのは、移植手術後十日位だったと思うが、チューブを抜いた後の気持ちの良さは、本当に生きていて良かったと思った。
 尿のチューブを取ったのは、もっと後だった。チューブなし、自分の意思で小用をたすことは本当に気持ち良い。
 腹部に入れていた胆汁などを出すチューブはかなり遅くまで、たぶん手術後五十日くらいででやっと抜いた。これで、体が自由になってきた。
 しかし、ベットから離れ、病室内を歩く事はなかなか出来なかった。ベットに腰を下ろし、床に足を付いて立ち上がろうとすると、まるで、糸くずのように体が崩れてしまうのだ。典子や看護婦に介助され、車いすに移り洗面が出来るまでには、いろいろなチューブを抜いた手術後五十日を過ぎていた。
 車いすで、病棟内を自由に移動できるようになった。看護婦からは、
「原さん、車いすを上手に乗りますね」
と言われたが、当然だ。なにせ肢体不自由養護学校に十五年も勤務していたのだから。新任の職員に「車いすの乗り方と介助の留意点」などを教えていたのだ。
 
「意識がほぼ回復した」と言っても、自分が思っているだけでに過ぎないかもしれない。手術後約二十五日ほど過ぎた。平成十二年十二月二十五日、北大病院でクリスマス、そして正月を迎える事になったた。
 さすがに重い患者さんの多い北大病院第一外科の病棟では、外泊出来る人は少ない。第一外科には留学生の医師が来ていて、時々移植医師団と回診に回っているタイ人がいた。 私は、懐かしくて、
「サワデー カップ」
と声をかけると、タイ人医師も驚いて、それから挨拶を交わすようになった。
 最初は、どうしてもタイ語が思い出せないでいたが、少しずとタイ語や英語で会話ができるようになった。十二月二十八日に、タイ人の医師は帰国するということで、わざわざ私の部屋に別れの挨拶に来てくれた。私は、タイ語で「新年おめでとう」は、どう言うのであったか、なかなか思い出せず困ってしまった。十分ほど話しているうちにやっと思い出した。
「サワディー ピー マイ! そうだ ピー(年) マイ(新しい)だ。」三年も使ったタイ語を思い出すのに時間がかかった。やっぱり私の頭は、まだまだ正常に戻っていなかった。
 
 十二月三十一日、病院でも大晦日がやって来た。典子は、そして、すでに退院していた清美、妻の兄がそれぞれ正月用品を持って病室に集まってくれた。病院の夕食は、大晦日の特別メニューで、三段重ねの重箱におせち料理が届いた。限られた予算の中で、調理のスタッフの皆が工夫してくれたのだ。
 私たちは、病院の特別メニュー、そしてみんなが持ち寄ってくれた料理でささやかかな歳取りの夜を過ごした。みんな私の生還を心から祝福してくれた。本当に奇跡だった。私が生きていることを私自身が信じられななかった。この冬は、特別に寒い冬で、外は零下十度になっていた。
 
 
 平成十二年十一月十三日、私が北海道警察のヘリコプターで八雲から札幌に搬送された。妻は、私の後を追い列車で札幌に到着、以後、病院の近くのホテルを転々としていた。「北海道難病センター」などの一泊二千円とういうような安い宿は、連泊が禁止されたり、混んで予約が取れないのだ。
 仕方なく安いホテルに泊まり、外食をすると一日一万円近くなる。また、私の移植手術が決まっても成功するかどうか、退院の見通しなどまったく立たなかった。だから月極の部屋を契約することも出来なかった。
 経費はかかる一方だった。しかし、十二月に入って、私の手術の成功が確認でき、近い将来の退院も可能な状態になった。娘達と北大病院の近くの学生用のワンルームマンションを探し回り、やっと仮の住まいとすることが出来た。
 八雲の我が家には、猫二匹や植物などのことがあり、心配であったがどうすることも出来ない。幸い知人が、毎日猫に餌を与えてくれた。植物の世話、除雪ななどの世話してくれた。本当に、ありがいことだと好意に感謝した。
 平成十三年に北大校内に、入院患者の家族向け宿泊施設ができたそうですが、これは本当にありがたい事だ。
 典子は、そのワンルームマンションから、私の病室に通い続けた。よく気丈夫に私や娘達を励まし続けてくれたものと感謝している。夫の死にこんなに早く直面するなど想像もつかなかっただろう。
 
 
 平成十三年一月に入って、なんとか車いすで病棟内を移動出来るまでになった。藤堂教授は、回診のたびに、
「原さん、動きなさい。動かないとだめなんだ」
と言っていた。そして、ある日、藤堂教授は、
「来週からリハビリを開始しよう」
と言って、リハビリの開始を宣言した。
 やっとベットから起きて車いすに移れる程度であった私は、果たしてリハビリなど出来るのか不安であった。しかし、予定のとおりリハビリは始まった。訓練室から訓練士の先生がやって来て、リハビリがスタートした。
 はじめは、ベットの上で足を動かす訓練から始まった。そして、次の週からは訓練室で歩行の訓練が始まった。車いすから平行棒につかまり、一歩二歩と足をすすめた。歩けるではないか。確かに体はふらつき時々平行棒に捕まらなければならんかった。十メートル位の歩行が出来たのだ。私は、夢のように思えた。夢ならさめてほしくないと願った。
 訓練は、毎日続いた。歩行器を使っての訓練は、二十メートル位の室内を五〜十往復する。つい先日まで、糸くずのように倒れていた体に力が入り歩いているのだ。そして、とうとう歩行器なしで訓練室内を歩行出来るまでになった。
「病院内を歩いてみましょう」
 訓練士の先生の言葉に、私は、感激した。訓練室から廊下に出て歩き始めた。もちろん訓練士の先生が付き添っての事だ。廊下の中心を歩こうと思っても、体が左右に振れる。膝が震える。二百メートル程を十五分近くかけてゆっくり歩いた。
 私は、二度と自力で歩けないと思っていた。これから一生車いすの生活が続くだろうと覚悟をしていた。車いすに乗って移動出来るようになってすぐ、病院に出入りしている医療機器販売店のセールスマンに車いすを一台注文した。病棟の婦長がそれを聞きつけて、
「原さん、絶対歩けるようになります。車いすなんて買わなくていいんですよ」
と私の注文をキャンセルしてくれた。でも、私には、自力で歩けるようになるなんてとても信じられない思いだった。
 それが、今、病院の廊下を歩いているのだ。階段も一歩一歩全身に力を込めながら歩けるようにななった。病院のほんの二十段ほどの階段が、まるで山に登るように力を振り絞らなければ、足は上がらなかった。しかし、体力は確実について来ていることが実感できた。
 筋肉の衰えはひどいものだった。ねがえりも体位をずらす力もなくなっていた。足のふくらはぎの筋肉もすっかりなくなり、皮がだぶついていた。ジュースやコーラの缶のリングプルも指の力がなくなり典子に開けてもらわなければならなかった。
 ところが手術後約八十日後の平成十三年二月に入ると、自由に寝返りも出来、ゆっくりだが病棟内を歩けるまでになってきた。全く信じられないことだ。
 二月のはじめ個室から五人部屋に移ることになりった。五人部屋は他の人に気を使うなど煩わしいこともあったが、いろいろな情報収集の場になった。先に書いたが、となりのベットの人から聞いた「特定疾患の指定」など、大事な情報が飛び交っているのだ。
 同室者には、肝臓移植の患者がいた。肝臓移植者でも様々な病気が原因で肝臓疾患になっていた。また移植後の経過もずいぶん違っていた。私は十一日でICUを出たが、三日で出た人もいるそうだ。では、三日で出た人の予後がすばらしく良いかというとそうでない場合もあった。ICUは早く出られたが、胆汁などの流れが悪く再手術を受けた患者もいる。中には五回も手術を受けた人もいた。
 
 二月の中旬、藤堂教授の回診の際、
「原さん、後はリハビリだけです。今月末で退院です」
と告げられた。
「退院していいんですか」
 昨年十月に死の宣告を受け、私はもちろん家族も知人も死を覚悟した。その私が退院できるなんて信じがたい事であった。肝臓を提供してくれた三女清美や家族に感謝の気持ちでいっぱいだった。
 
 典子が昨年末から借りていた、病院近くのワンルームマンションに移った。病院からわずか五百メートルほどのところだが、真冬で路面はアイスバーンでフラフラやっと歩いている私には危険なのでタクシーでの退院であった。久しぶりにタクシーの窓からみる街は懐かしく、
「生還出来た」
という思いで胸がいっぱいになった。
 マンションの部屋は九階だったが、何とも小さな部屋だ。四畳半位にトイレ、洗面所のついたユニットバス、そして台所、奥の部屋が畳だ。六畳の部屋には布団が敷いてあり、私はすぐに典子の介助を受けながら、床についた。
 部屋には小さなテレビが一台あるだけだ。夜は、典子の布団を私の横に敷くと、もう部屋は一杯だった。まだ、退院したという実感がなかなかつかなかった。私は、悪夢のような幻覚の世界から抜け出せたのだ。
 典子は、私に、
「一番先になにをしたい」
と訪ねた。
 「風呂かな。病院の風呂もよかったけれど、やっぱり一人でゆっくり入りたいな」
風呂は、ずいぶん長い間入れなかった。平成十二年九月十八日、意識障害で八雲総合病院に緊急入院してから、移植手術が終わり、さらに一般病棟に移って一ヶ月くらいたっていた。つまり、九十日近く経ってやっと患者用の風呂に入浴できた。
 看護婦と典子が介助をして、ベットのまま入られるという風呂であった。いくらお湯をとりかえても、垢が湯船の全面に浮かぶほどの有様だった。この時、風呂はなんて気持ちの良いものだと思った。その思いが、退院して一番先にしたいこととして、脳裏に焼き付いていたのだ。
 ワンルームマンションのユニットバスは、小型で、身長百八十センチの私が入ると、洗濯たらいのように小さく、体がはみ出た。だがやっぱり風呂は最高であった。
 マンションでの最初の食事は、夕食で、小さな台所で典子が調理をした。簡単な料理も最高のごちそうだった。八雲総合病院、札幌医大、北大病院といずれの食事も良く工夫され、手がかかったものが出されていた。しかし、保温庫で運んで来たとはいえ、あたたかくはあっても家庭料理のように熱くはない。
 以前勤務していた養護学校の昼食は、施設で調理して学校に運ばれていたため、給食の時にはすっかり冷えてしまってた。
「保温庫があったら」
と思ったが、百食分の移動保温庫は、三百万円もする。とても学校予算では買えないものであった。各病院で食事は、ほとんど高価なその保温庫で運ばれて来ていたが、今調理したばかりのみそ汁、焼きたての魚にはかなわない。私と典子は、新聞紙のテーブルに夕食をならべ、幸せな時間を満喫した。
 退院二日目は、私の趣味のアマチュア無線機器の販売店「ハムショップ」に出かけた。わずかマンションから百メートルほどの距離にあったが、歩いて十分以上もかかった。何度もお見舞いに来てくれていたハムショップの西田社長も私の退院を喜んでくれた。
「死の宣告を受けた私が、お店まで出かけられたなんて全く信じられない」
という私に、西田社長も、
「本当だ。良かった、良かった」
と喜んでくれた。
「よし、あのマンションのベランダから電波を出す」
 私は、再び世界のハム仲間と交信する事を夢見た。そして、雪が融け始めた三月のある日、ついに私はこのマンションのベランダに小さなアンテナを上げ、電波を出すことが出来た。
 
 通院は、退院後しばらくは一週間に一回だった。一回目の通院は平成十三年三月九日、たしか最初の通院はタクシーで出かけたと思う。一見して病人と分かったのかタクシーの運転手は親切にわずか五百メートルほどを走ってくれた。血液検査、そして、診察、待合室には多くの移植患者が通院していた。病棟で入院していたなじみの顔もちらほらあった。この待合室がまた情報交換の良い場となっていた。
 私のように最近退院して者は、顔色も悪く、椅子に寝そべっていたりして、まだまだ回復していない事がすぐ分った。私は、まだ話をする気力もなくて、隅の方に座って診察の順番を待っていた。
 典子は皆といろいろ話をして情報を得ていた。すでに移植手術をして三年を経過している患者も来ており、そういう先輩から典子はいろいろアドバイスを受けていた。
 待っていると私の名前が呼ばれた。私の主治医の古川教授が診察してくれた。退院後第一回目の検診ということで、私はその結果に緊張していた。待っている時の先輩患者さんの話では、何回も入退院を繰り返している人もいるとのことだ。
 「いいですよ。順調です」
 血液データーに目を通していた古川教授は私に所見を説明してくれた。
 私は、
「先生、八雲まで汽車で出かけて良いでしょうか。特急で二時間くらいですが」
「いいでしょう」
「そうですか、行ってみます」
 八雲の自宅には、猫たちが待っていた。知人のお世話で、餌や暖房には不自由することなく過ごしていた思うが、きっと私たちがいないことで不安だったと思う。
「なにかあった時はすぐ電話連絡を下さい」
 古川教授のお墨付きをもらって、退院して十日目の三月十日に札幌から二百キロ離れた八雲町の自宅へ一泊二日の帰省が実現することになった。三月十日、朝の特急列車で八雲へ向かった。
「八雲の町に帰れたんだ」
 道南の小さな町八雲町へ着いた。懐かしい八雲の町並みをタクシーからながめ生きていることを実感した。八雲に帰ってこれるなんて私も妻も全く信じられないことであった。住宅も見えてきた。玄関の雪はきれいにかいてあった。知人が毎日通って世話してくれたのだ。ドアの鍵を開けるともう二匹の猫は、感づいて飛び出して来た。猫たちにまで何ヶ月も寂しい思いをさせていたのだ。知人の世話で室内の草木もみんな青々として元気であった。
 「今夜は、風呂にしよう」
 ワンルームのユニットバスに比べ三倍もある我が家の風呂にお湯を注ぎ込んだ。たった一泊だったが、また札幌にもどった。
 
 日ごとに体力が回復しているのがわかった。体重も退院した時は五十二キロだったが一日百グラムぐらいの割合で増えていた。食事もなんでも旨く感じ、時々ご飯をお代わりをすることもあった。
 ただ、歩く事はなかなか大変で、五百メートル位の歩行が最大で、とても疲れた。マンションから札幌駅までも五百メートルほどだが、行きは歩き、帰りはタクシーで戻った。歩くよりは、立っていることがとても苦痛であった。信号待ちでほんの二分くらい立っているのが大変なのだ。
 
 三月二十三日、背中がかゆくなり妻にみてもらうと少し赤く腫れているとのこと。あわてて北大病院に電話をかけ診察してもらった。
 「たぶんヘルペスでしょう。皮膚科に観てもらいましょう」
 移植チームの嶋村先生の見立てであった。皮膚科でみてもらうとやはりヘルペスということで、内服薬と塗り薬をもらった。
 
 三月三十日、三回目の定期検診で北大病院へ出かけた。もう往復歩いての通院が出来た。幸いヘルペスも治まっていた。血液検査の結果は良好とのことで、次回は三週後に検診となった。退院一ヶ月で週一回の検診から三週に一回の検診で良いとのことに、私と典子はホット胸をなで下ろした。待合いでの先輩の患者さんの中には、再入院や定期検診の期間が長くならない人もいたからだ。
 
 四月上旬典子が八雲の自宅に車を取りに行って戻った。車のお陰で、私たちの行動範囲も広がった。平成十三年四月四日、ヘリコプターで最初に運ばれ延命治療を受けた札幌の病院へ出かけることにした。外来で主治医の先生に私たちの訪問を告げると、快く会ってくれた。
 「原さん。元気になってよっかった。亡くなるなるのが常識という状態だったんですよ」
 「ICUの看護婦さん達も喜んでくれると思います。ICUに行きましょう」
 主治医の先生に案内され。私が世話になっていたICUに行った。
 そこは、私の思っていたよりずいぶん広くて明るかったので驚いた。私の記憶では、とても狭く、暗い部屋だったはずだった。たぶん私の視野が極端に狭くなり視力も落ちていたために見えていたのは部屋の一部だったのだろう。看護婦達も覚えていてくれてとても喜んでくれた。
 この病院のICUの記憶は、幻覚と幻聴ばかりであった。このベットでわめきちらしていたのだ。なにせ、私はこの病院に来たとき、舞台は北朝鮮で拉致され、ベットに縛り付けられ、青酸ガスを吸わされて殺されかけていたのだ。
 
 
 私は趣味の団体、社団法人日本アマチュア無線連盟に所属していた。子供の頃からいわゆる「ラジオ少年」であった私は、十五歳の時にアマチュア無線の資格を取り、その後休むことなくアマチュア無線を楽しんでいた。平成二年からこの社団法人日本アマチュア無線連盟の理事をしていた。会員約十万人の会員のこの法人は、我が国を代表するアマチュア無線の組織だ。この組織を十七人の理事で運営していた。私もその一人で、入院のために平成十二年八月の理事会を最後に欠席していた。
 定期検診で主治医の古川教授に東京に行きたいことを相談すると、
「問題ないでしょう」
というありがたい言葉に、私の無線連盟の理事会の参加や秋葉原電気街の散策が実現することになった。典子は、私の東京行きを心配していた。とうとう典子同伴で東京に行へ行くことになった。
 平成十三年四月二十七日、私たちは千歳空港から羽田空港へ飛び立った。この日のフライトは、まるで初めての海外旅行のように心が踊った。この日は疲れを心配して、まっすぐホテルに入った。
 翌日、四月二十八日は、社団法人日本アマチュア無線連盟の理事会が開催され、八ヶ月ぶりに私も出席できた。他の理事さんは、私の奇跡のカンバックを喜んでくれた。役員会の中では、私の後任の補欠選挙なども検討されていたところだということであった。
 典子は、趣味の絵画の展覧会を見学に上野の美術館に向かった。この一年、典子は、好きだった油絵の筆を持つ精神的ゆとりもなく、私の看病に終始していた。
 四月二十九日、私と典子は秋葉原の電気街の騒音の中にいた。三十年も通い続けた秋葉原の人混みや売り子達の呼び込みの声は、
「秋葉原に来たんだ」
という実感を感じた。
 あの死の世界から今私は秋葉原の地を踏んでいた。札幌では、五百メートも歩くのも大変だった私が、一時間近くも電気店街を散策した。秋葉原は、年に十回近く、時間があれば二日でも三日でも通い続けてた。無線機やパソコンのパーツなどの買い物もあるが、新製品や中古品、ジャンクと呼ばれれる「掘り出し物」など、私の趣味の世界の物があふれていた。
 この二泊三日の東京行きは、私に大いに自信をつけた。肝臓移植手術百二十日目の快挙であった。
 
 札幌の北大病院の検診が一生続くことが分かった。今まで自分の人生設計として、「退職後は、自然の豊かな地方で」という考えも無理なようだ。平成十三年五月十日、幸い札幌市内にある教員住宅に空きがあり、北大前のワンルームマンションから2LDKのアパートに移ることが出来た。
 病気のために札幌に住まなければならなくなった事が決定的になった。そこで思い切って札幌市内で家を購入すること計画した。一年間、自宅療養が続く中、今しか時間が取れないという思いもあった。早速住宅情報誌を毎月買って家探しを開始した。妻の運転で売り家とかマンションの部屋をみて歩いた。北大病院の移植チームの先生方からは、
「体のために体を動かすよように」
と指導を受けていたが、この家探しがちょうどよい運動であった。
 
 実際に住宅情報誌や新聞折り込みをみて、売り家や売りマンションをみて歩くと、実に様々な間取りや作りがあることが分った。家だけでなく近くの環境、道路の幅などいろいろな大事な選択の要素がある事が分かった。
 また、長年生活を共にしてきた典子との考えに大きな開きがあることも分かった。大きな違いは、無精な私の「マンション派」と典子の一坪でも庭のある「一軒家」を選びたいということだった。
 そんなわけで、「マンション」VS「一軒家」の調整にしばらくの時間がかかった。新築住宅、中古住宅、これから着工するマンションなど実に百件に近い物件をみることが出来た。これは、仕事を休んでいたから出来たことだ。
 九月末、やっと二人の気に入った(お互いが妥協できた)建て売り住宅を決める事が出来た。手付け金を入れ、今夜契約書を交わすという朝の事だ。私は、習慣になっていた新聞折り込みに目を通していた。典子は、
「もう決めたんでしょう」
とあきれ顔で私をみていた。
「まあ、そう言わずもう一軒みようよ。おもしろい家が売りに出ているんだ」
その家は、玄関が向かい合った二世帯住宅で、価格的にはとても私の乏しい資金では買えない設定だった。
 しかし、作りや間取りがとてもおもしろそうだった。あまり気乗りのしない典子に車を運転させ、その中古住宅に着いた。まず環境をみた。道路幅十二メートル位、歩道も道路両側にあり、付近の家も立派な住宅ばかりだ。交通量もメイン道路から一本中に入っているため少なくて静かだった。二百メートル位のところに大型スーパーがあった。ずっと記憶をたどると何度かこの住宅、そして、この通りに見覚えがあった。典子と、
「ここもなかなかいい住宅街だな」
と車からながめたことがあったのだ。
 早速、オープンハウスとなっているこの売り家に入ってみた。居間の吹き抜けに白い手すりの階段がのび、なかなかいい感じであった。二階を一回りして、向かいの家もみせてもらった。
 「いいぞ、ここならいい」
 私の言葉に典子もも真剣になっていた。百軒近くの家をみて初めて二人の意見が一致した。これまでは、一長一短で、二人の意見はまとまりらなかった。今夜契約する建て売り住宅も、すっきりしないところがあった。しかし、もうすぐ冬がやって来て、家探しの限界が来ていた。
 「いい家だ。だがこの二世帯住宅は私の支払い能力を超えているぞ」
 二世帯住宅で割安にはなっているのが、やっぱり一軒家より値が張るのだ。
 「うーん。あんたの姉さん達が一緒に買ってくれるとなあ・・・」
と私は、勝手に典子の姉たちを引き合いに出した。すると、典子も相当この家が気にいったようで、
「すぐ姉達に電話してみます」
とこれまでにない積極的な発言だった。私も驚いて、
「あの町で生まれて育って六十五年だぞ。札幌に来てくれるかな」
 私は、半信半疑で、携帯電話ですぐ姉と話してみることにした。
 ところが、話しの進むときは進むものだ。午後にこの売り物件を見に来た姉は、
「買った、買います」
ということになったのだ。
 今夜、建て売り住宅の契約をするというほんの二時間前の出来事だった。今夜契約予定の家に関しては、もう正直に、
「姉と住むことになったので」
とセールスにわびの電話を入れた。建築会社のセールスもあっけにとられていた。
 
 こんな突然の話で、この中古住宅を買うことになった。さて、そうなると資金調達だ。すっかり私の病気でお金を使ったばかりだ。
「半分は、住宅ローンだな」
と私は借りることを安易に考えていた。
 ところが、三十年以上も付き合っていたM信託銀行は、移植手術を理由にローンは組めないとの回答ではないか。即日小さな抵抗だが、M信託銀行の預金を全額引き下ろした。移植患者への差別を初めて体験した。
 幸い、H銀行では簡単にローンが認められた。この住宅を購入することが出来た。そして念願のマイホームへ平成十三年十月三十日に移ることが出来た。
 住宅購入で、先に買われた皆に体験を聞くと、
「決まるときは、すぐ決まるものですよ」
という話はよく聞いてた。本当であった。やはり、物事には縁というものがあるのだろうか。
  
 平成十四年二月、元の職場の事務部から北海道教育委員会への復職願いの書類一式が届いた。待ちに待った復職の時が来たのだ。定期検診で、北大医学部の古川教授に診断書の作成を願った。
「先生、復職出来るでしょうか」
「大丈夫です。なんの問題もありません」
古川先生の言葉に多少の不安を感じながら、合わせてCT、エコーなどの写真も添付するよう指示があった。程なく診断書とフイルムが出来、早速元の職場まで発送した。
 私は、平成十二年十二月十八日付け北海道教育委員会へ提出した休職届けが受理され、ありがたいことに約八割の給与を受けた。最大二年間療養出来ることになっていた。時間的には十四年十二月十七日までまだ十ヶ月ほど猶予があった。職場を離れて一年を過ぎた頃から復職の願いは一層強くなっていた。
 
 二月、三月と月日はどんどん過ぎて行った。北海道教育委員会からはなんの連絡も入らなかった。北海道教育委員会の教職員課では、道立の約三百の高校と特殊学校、そして市町村立の学校のとの人事交流など莫大な作業をしている。問い合わせも迷惑と思い、問い合わせはしなかった。
「内示は三月十四日らしい」
という同僚の話が入って来た。じっとその日を待つことにした。ところが、その日になっても内示の連絡がが入って来ない。
「こりゃあ復職は無理と言うことかな」
とあきらめかけていると、何かの都合で内示日が一週間のびたらしいとう情報が入ってきた。
「吉報は寝てまてかな」
 とはいうものの復職審査に不合格になったのではという不安がだんだん大きくなって来た。まだ移植医療は、ごく限られた医師しか理解がないという。北海道教育委員会の復職を審査する医師が、移植者の復職を認める保証はないのだ。
 そんな心配をしながら、電話のベルがなる度に、緊張した。長い一週間が過ぎた。夕方、電話のベルがなった。
「北海道教育委員会教職員課です。内示です。札幌盲学校長をお願いします」
「復職出来たの」
そばで聞いていた典子も無事復職できた事が分かったようだ。私が電話の内容を話す前に、小躍りして喜んでいた。本当に典子には、この二年間心配をさせた。そのためか妻の髪もめっきり白いものが多くなっていた。
「ありがとう。復職出来たぞ。学校は札幌盲学校。道教委も私の健康を配慮して病院の近くにしてくれたんだ」
ほんとうにありがたいことだ
「さあ、これからノーアルコールビールで乾杯だ」
その夜は、長かった闘病生活を妻と少々気の抜けたビールのようなノンアルコールビールを片手に妻と語り合った。ノンアルコービールに酔ったのか、その夜は、久しぶりにぐっすり眠ることができた。
 
 四月一日、私は初出勤で、二年ぶりに袖を通す背広に緊張した。私が九年前に同校に勤務していた時の職員も何人か残っていた。懐かしく会うことができた。早速新年度の計画の打合せが続き、初出勤はさすがに疲れた。夕食をすませ、免疫抑制剤を飲む八時まで眠い目をこすりながら起きているのがやっとであった。
 
 平成十四年四月八日、入学式の日を迎えた。体育館には、四十名ほどの生徒、保護者、五十人の職員が一同に会していた。
「只今から、平成十四年度北海道札幌盲学校入学式を始めます」
「校歌斉唱」
 教頭の進行で懐かしい札幌盲学校の校歌を全員で歌った。校歌がほんの一小節ほど進んだとき、私は長かった闘病生活を思い出していた。先祖に手を合わせ、
「どうか明日一日生かして下さい」
と祈って意識を失い、三女から肝臓をもらいICUで気がついたこと、そして、二度と生徒の前に立てないと覚悟をしたこと、この二年間にあった出来事が次々と思い出された。
 校歌が進むにつれ、私の目からは感激の涙があふれ出た。校歌は一番から二番、三番へと進みんだ。
 「校長式辞」
 教頭の司会で演題へ向かったが、私の涙は一向に止まらなかった。ハンカチで眼を拭いても拭いても涙があふれた。用意した式辞を読むことが出来ないのだ。
 「みなさん。泣いた校長先生なんてみたことないね」
 私は、生徒に話しかけた。生徒も保護者も、そして職員も泣いている私をみてあっけにとられてた。会場はシーンと水をうったようになってしまった。
 「私は、大きな病気をして、学校を休んでいました。もう二度と皆さんの前に立ってお話を出来るなんて思っていませんでした。皆さんも障害を持っていますが、障害に負けないでがんばって勉強しましょう」 
 私は、まったく原稿にないことを話してしまった。
 二年間の闘病生活を終えて復職までこぎ着けられた。家族や職場の皆さん、そして、心配して下さった多くの皆さんに感謝した。
 
 「ありがとう。お父さんは生き返ったんだ」 
 私は、肝臓を提供してくれた三女清美に感謝した。
 

 
 
       スザ
無線で遊ぶ
 
            NHKラジオ放送に出演
 
 
 ラジオ製作に興味を持ったのは、父、健児の影響が大きい。父は、小中学校の教員をやっていた。父は、名寄中学(現在の名寄高校)に進学、当時としては高学歴の方であった。祖父が国鉄の名寄駅長を務めていたことから、中学卒業後、国鉄に入社した。本人は一応中学を出たエリートだと思っていたが、毎日駅のトイレ掃除ばかりさせられたという。高学歴というプライドを傷つけられたのだ。そこで、教員となることを目指し函館師範学校に入った。
 師範学校を卒業して、網走地方の小学校に勤務、わずか一九才であった。ところが、当時の地方の学校では、教員免許資格者がおらず、校長以外は皆代用教員であった。そこで、朝会などの着席順位では、校長につぐ二番目であった。十九才の青年が、並み居る先輩を差し置いて次席だったという。
 父は、小中学校に勤務したが、理科が得意で、自宅でも授業の準備や教材研究をしていた。私の物心つく頃から、父の準備していた化学の器具などをかってに使って実験のまねごとをしていた。戦後の物資の無い時代だったから、ビーカーなどの実験器具は、手作りが多かった。私も父の見よう見まねで捨てられているガラス瓶にアルコールを浸ませた毛糸を巻いた。そしてマッチで火をつけタイミングを見て、さっと水につけると、パリンと音がして、丸く割れてコップが出来るのだ。
 ある時、父はニッケルメッキの実験を繰り返していたが、どうも上手くメッキが出来なかった。
 ところが私の実験では、ぴかぴかに銀色に輝くメッキに成功していた。成功の鍵は、私が使った使用済みの電池であった。電圧を低くすると上手くメッキが出来たのだ。 
 
 私は、家にある時計や機械物を分解しては、元に戻らなくしていた。だが父からは一度も叱られたことがない。
 ラジオの部品もずいぶんころがっていた。ラジオに関する図書も何冊もあった。NHKの技師だった杉本哲氏の「初歩のラジオ研究」が私の愛読書であった。小学生低学年のころは、読めない漢字が多く困った。漢字の読み方は、母に聞いたがどんな意味があるのかはわからなかった。
 小学五年生の時に鉱石ラジオを完成した。幸い教員住宅が校舎とつながっており、国旗掲揚柱が目の前にあった。この国旗掲揚柱と百メートルほど離れたところに建っていた火の見櫓に銅線をつなぎ大アンテナを完成させた。
 だがこの大アンテナでも放送は受信出来なかった。
 後日談だが、村の人が私が火の見櫓に私が登っているのをみて父に警告した。
「あの火の見櫓の根本は腐っていて、倒壊の危険がある」
 
 小学四年生の冬、父が科学教材社から三球ラジオキットを買ってくれた。届いたキットを喜んで開封、当時のクッション材であった新聞紙の中にビスナットが入っていることに気づかず、ストーブで燃やしてしまった。
 結局、父が深川のラジオ屋からビスナット買ってくるまで完成出来なかった。私が作った三球ラジオで母は、NHKドラマ「君の名は」を聞いていた。
 小学六年頃から五球スーパーラジオを作り、短波を聞くことが出来るようになった。そのとき初めてアマチュア無線を知ることとなった。
 
 中学一年の三学期から室蘭の祖母を頼って寄宿、ラジオの部品を街のラジオ屋から容易に購入できるようになった。親から離れているということから多少小遣いを多めにもらったが、ほぼ百パーセントラジオ部品の購入にあてた。
 ある時大枚千円を払って電池で動作する真空管を買った。念願の一球ラジオを完成した。部品をピンセットを使って部品をつまんで点検した。パチンと小さな火花が出た。もしやと思って押し入れの中で真空管を見た。あのわずかに細い線のように光っていたフラメントが切れてしまったのだ。
 
 そのころソニーがトランジスターの販売をはじめた。父も興味をもったのか、
「これでトランジスターラジオを作ってみなさい」
と一万円をもらった。今の物価にすると数倍の価値がある。
 
 早速、科学教材社に四石ラジオキットの部品を注文した。これまで使っていた真空管の部品と異なり、あまりにも小さい部品に驚いた。この四石ラジオキットをなんども組み直し、グレードアップした。まだ殆どの人がトランジスターを見た事も触ったことも無い時代のことだ。
 
 トランジスターラジオも市販されるようになったが故障も多かった。
 ある時、トランジスターを売っていないかとラジオ屋を訪ねたところ、
「トランジスターは売っていないが、故障したトランジスターラジオが持ち込まれて困ってる。直せるなら直してくれないか」
と修理のアルバイトを頼まれた。それで、小遣いもくれるというので喜んで日曜日にトランジスターラジオの修理に出かけた。この修理のアルバイトが大いに勉強になった。高校一年のことであった。それにトランジスターは使い放題だった。高価なトランジスターも実験で使って、戻しておけば良かった。
 
 同じく高校一年の時に念願のアマチュア無線の資格を取得出来た。ただ、さすがに祖母の家でアンテナを上げることが出来ず開局は出来なかった。
 
 高校二年の二学期、父の勤務する村からバス通学で岩見沢の高校に行けるということで岩見沢東高校に転学した。丁度修学旅行の直前で無理をすれば参加出来るとのことであったが、修学旅行参加を断念した。その代わり父にアマチュア無線機器の購入を願った。
 
 昭和三十六年九月、アマチュア無線局JA8ATGを開局した。北海道電波監理局から役人が来て、無線設備の点検があった。全く測定器を持たないで来て、検査は目視だけであった。作った無線機の出力がかなり定格出力より出過ぎていたので、改善命令など出されるか心配したが、無事「合格」となった。
 
 母が心配したように、私はアマチュア無線にのめり込んで行った。当時は、簡単なアンテナで呼び出しをすると、アメリカの局やヨーロッパの局が山のように呼んできた。
 ある時、ドサッと物音がしたので、外を見るとなんと牛がアンテナ柱を押し倒したのだ。慌てて外に出て、牛を追ってきた農家の人とアンテナ柱を建て直した。
 
 ある時、強力なモガモガと話している内容がわからない強力な電波を受信した。
「これが、新しい電波SSBか」
と感激した。
 この電波は、隣町のJA8FN若園氏が出していることが分かった。早速のバイクで若園氏を訪ねると、業務用無線機を改造したとのことであった。若園氏の工作技術は素晴らしく、無線機メーカーが作ったものと変わらないきれいな加工技術に感心した。
 
 以後すっかりこのSSB送信機の製作に夢中になった。そして学校の成績は、どんどん落ちていった。結果、いくつかの工業系大学を受験したが、すべて失敗した。滑り止めに受けていた函館教育大学に入学することになった。
 
 大学では技術科を専攻していたので、自分の得意教科でもあり毎日の授業は楽しいものであった。技術科を第一志望で入ったのは私くらいで、同期のほとんどは理科や数学などを希望した者が技術科に回されていた。
 
 大学時代は、SSB送信機の製作や超短波の無線機の製作にのめり込んでいた。だが、好きだった技術科専攻したので授業は楽しかった。
 三年生の時と、卒業してわずか一月後に大学に助手として残るよう教授にさそわれたが、結局教員の道を選んだ。
 
 初任校の太田小中学校では、幸いなことに校長の協力を得てアマチュア無線クラブを開局出来た。学校で電話級の資格を取れる講習会を開催、小学四年生以上の生徒が免許を取得した。この講習会に野口校長も受講してくれたのはうれしかった。ただ、新卒教員が校長の前で授業をするのは緊張した。
 当時、小中学生のアマチュア無線クラブは珍しく、新聞やテレビ、専門雑誌などで取り上げられた。趣味で始めたアマチュア無線を教育現場で生かすことが出来たのはうれしいことであった。初任者である私の教育活動を暖かく支援してくれた野口哲平校長に感謝している。
 
 また、在外教育施設であるバンコク日本人学校勤務時代には、タイアマチュア無線連盟会員として受入れ、指導してくれたHS1WRカムムチャイ会長、日本人学校PTA会長JA1BAR/HS1AEY西野文雄氏に感謝する。
 日本にも戻ってからも江差小学校アマチュア無線クラブをはじめ八雲養護学校アマチュア無線クラブ他の指導と活動に協力いただいた校長、教職員仲間に感謝する。
 学校アマチュア無線クラブの指導の中で、なんと言っても心に残っているのは、重い障害を持ちながら熱心にアマチュア無線活動を続けた八雲養護学校の生徒との思い出だ。たった一人のアマチュア無線資格取得から、ほとんどの中学部高等部の生徒が資格を取得、活発な活動をした事だ。同僚の教職員もアマチュア無線の資格を取得して、無線クラブの活動を支援してくれた。
 中で、佐藤校長、そして橋本校長は、毎日午後七時から病院と地域の無線仲間が交信をしていた「セブンネット」に参加してくれた。
 
 このセブンネットは毎日の午後七時から生徒がキイ局で運用された。八雲の無線仲間は資金を拠出して設置してくれた中継装置を使っての交信だ。生徒や我々教員、街のアマチュア無線家が小さなハンデートランシーバーで参加した。病院の生徒が司会役となって電波で交流するのである。
 この七時からというのが、正に正確に七時から始まるのだ。NHKテレビの時報に合わせスタートした。めったに無いが、ものの十秒も遅れると、病棟の先輩ハム達から叱られるのだ。
 この毎夜の電波での交流は、十年以上続いた。この夜の交信は。養護学校の生徒、病棟の患者、医師、看護士、街の無線仲間、養護学校の教員等であった。
 このアマチュア無線の交信は医師や看護師から、
「話すことによって、筋ジストロフィー患者の肺機能改善に効果がある」
と高い評価を得た。
 
 父母の無線での参加もあった。当時は、今のように携帯電話も普及しておらず入院している患者は、歩ける者は公衆電話を使えたが、寝たきりの患者は家族との電話で会話することは難しかった。
 だが、このアマチュア無線の中継システムを使うと容易に話せた。父母の何人かはアマチュア無線の資格を取得、入院している子供との話ができるようになった。ただ、中継局が小高い丘の上にあるとはいえ、交信可能な距離は二百キロほどであった。
 だが三百キロ近く離れていたF君の父親は、大きな八木アンテナを地上二十メートルのタワーに取り付けた。そして八雲の中継局まで電波を飛ばして入院中のF君と交信に成功したのだ。ほぼ毎日のようにこの親子の交信は続いていた。
 
 国家試験に何度も挑戦して免許を取得したC君、呼吸をすることも苦しいなか酸素ボンベをしょってアマチュア無線クラブの活動に参加したD君、移動ベットの上で二十時間の無線の授業を受け免許を取得したのに、その一週間後に亡くなったE君、脳性麻痺で一言も話せないFさんが文字通信でアマチュア無線を楽しんだこと、私よりずっと先に天国に行ってしまった八雲養護学校の皆の顔を忘れることが出来ない。
 
 昭和五十八年、私は、アマチュア無線で途上国援助の活動をする無線クラブの発足を全国のアマチュア無線家に呼びかけた。海外日本人学校から帰国した私は、開発教育に興味をもち、日本ユニセフ協会を訪ねた。日本ユニセフ協会は、港区飯倉橋のビルの一階にあった。事務所と倉庫を兼ねた狭い部屋に何度か出入りしていた。その片隅の机にすわっていたのが橋本正専務であった。私の顔を見ると、
「北海道の原様」
と声をかけてくれるようになった。上品な年配の婦人であったが、橋本龍太郎総理大臣の母親であることは全く気づかなかった。二回の厚生大臣を務めた橋本龍伍氏が夫であった。いずれも後で知った。
 
 ある年、発展途上国を視察する「ユニセフ青年の翼」が企画され、私も参加することが出来た。旅行中に橋本専務と親しく会話することが出来た。橋本専務は、アマチュア無線が日本で許可されたことを祖父から聞いていたとのことであった。祖父は逓信大臣であったというから驚いた。
 橋本専務は、ユニセフ募金が国内の企業からの寄付だけに頼っていることを気にされていて、広く国民にその輪を広げたいとのことであった。
 そこで、私がアマチュア無線仲間にユニセフを支援する組織を作ってみることを提案した。橋本専務は喜んで、
「原さん、やって見てください。私も応援しますから」
とのことであった。
 
 帰国後早速アマチュア無線仲間にユニセフを支援する「日本ユニセフハムクラブ」の立ち上げを呼びかけた。強いインパクトを与えるため、この呼びかけをバンコクからアマチュア無線の電波で実行した。
 当時タイのアマチュア無線は、完全に禁止されていた。タイ無線連盟の会員が容認されていた一切の活動が禁止されたのだ。会長のカムチャイ氏の無線機も送信出来ないように封印されていた。
 そのような時期に私たちがバンコクで運用したいという事を申し入れたのだ。
 会長のカムチャイ氏は、相当の働きかけを政府にした結果、私たちの運用の特別許可を得た。
 私たちは、教え子の三人の高校生、無線仲間の谷本先生、そして私で数日間のバンコクでのアマチュア無線の運用が認められた。
 アマチュア無線の電波の途絶えた私たちの電波をキャッチした世界のアマチュア局から呼び出しを受けた。
 
 帰国して、交信した日本のアマチュア局四千人局に交信カードと一緒にクラブの立ち上げ趣意書を届けた。
 すると七十人ほどの賛同者が出た。これがユニセフハムクラブの発足であった。
 
 会員は、年ごとに増え、最終的には会員番号九九九番まで進んだ。千人に近いアマチュア無線クラブは、国内でも大きな組織となった。会員の中には、元日本アマチュア無線連盟の会長や現職の理事などアマチュア無線界の名士も多数会員となった。
 事業は、東京ハムフェアへの出展、使用積み切手運動、ユニセフ募金、途上国への視察研修、途上国でのアマチュア無線の運用などである。
 
 途上国でのアマチュア無線は、不安定な国内情勢からスパイなどの心配もあることから、なかなか許可されなかった。幸い時間がかかったが各国の政府からアマチュア無線運用の許可を受けた。途上国ではアマチュア無線に関する法律がなく、特例としての免許で困難を極めた。
 ネパールでは三年、バングラデイシュでは十二年、その他の国も免許を得るには時間がかかった。途上国の電波を管制している省庁に出かけユニセフ活動やアマチュア無線活動について説明し理解を得るには相当の時間を要した。
 せっかく電波の管制省庁から許可や免許を得ても、空港の税関では無線機は輸入禁止であったり高い関税を要求された。
 
 ユニセフハムクラブでは、私たちがその国か電波を出すだけでなく、その国でアマチュア無線が解禁されることを願った。だから、必ずその国のアマチュア無線連盟とも交流を持った。タイでは、タイ無線連盟会長と私が、国の電波管理部局を訪問し、アマチュア無線活動の意議を説明した。そして早期のアマチュア無線活動の解禁を願った。
 バングラデシュやネパールでも国民がアマチュア無線の解禁を願っていることを関係官庁に伝える活動を続けた。
 その国の新聞社に私達が特別に許可をもらって運用しているアマチュア局の取材を依頼、アマチュア無線局のPRをした。
 中でも、名古屋から参加のJA2SWJ高木氏は、電信の交信技術が素晴らしく、世界からの呼び出しをてきぱきと裁いていた。
 二十年間の活動で、五十回ほどの途上国視察やアマチュア無線活動が実行された。ユニセフハムクラブ会員二百人ほどがこの事業に参加した。
 
 参加した会員は、アマチュア無線のベテランが多くその運用技術に私も大いに勉強になった。また、多くの日本国内のアマチュア無線家からユニセフ募金が寄せられた。
 参加した会員は、熱心に市内などの視察し、人々の暮らしを見聞する者とアマチュア無線だけにしか興味関心を示さない者など様々であった。主催する私としては、両方を適度に活動してくれることを願った。
 
 途上国の電波管制に携わる役人は、来日して様々な研修を受ける機会が多かった。研修の合間をぬって各地のユニセフハムクラブ会員との交流があった。仕事を休んだり学校を早退して対応してくれた会員に感謝する。
 
 途上国の支援は、原則ユニセフを通じて行ったが、特に海外視察参加者の希望で、現地の学校への直接支援も行った。ネパールの小さな小学校モデルプライマリースクールには、学用品や教材の支援を十年間続けた。妻が病気で急逝した会員の夫が妻の遺志だったと多額の寄付金を現地の学校に贈ったこともあった。
 
 ネパールのエリート校、セントザビエルスークーの校長であったモラン神父とも交流できた。アメリカの医師の資格を持ちながら神父としてネパールに入り、長年ネパール人青少年の教育を続けていた。ネパールでたった一人のアマチュア無線局の免許を得ていた。エベレスト登山隊の通信連絡を長年ボランテアで担当していた。
 ある時、私が、
「日本に来て講演してもらえないか」
と願うと、二つ返事で受けてくれた。札幌をはじめ、東京、大阪などで数回の講演をしてくれた。すでに八十才を超えていたはずだったが元気に日本国内を飛び回ってくれた。
 
 長年ユニセフハムクラブを支援指導してくれた橋本正専務理事は、北海道で開催された「食の祭典」に参加された直後に倒れ、闘病の末他界された。
 橋本正専務他界後は、日本ユニセフ協会の運営方針は大きく変わり、私たちハムクラブも活動を休止した。
 毎年東京では、日本アマチュア無線連盟主催の「東京ハムフェア」を開催している。参加者は、毎年五万人近い。東京晴海の「ビックサイト」を会場に二百団体が集まる。
 毎年、ユニセフハムクラブとして出展してきた。行き帰りは殆ど八雲の村井氏と夜汽車で往復した。二人で、缶ビールを傾けながら北海道でもハムフェアはできないものかを話し合った。
「東京ハムフェアよりグレードは落としたくない」
が共通した意見だ。
 
 以外にも早く北海道でのハムフェアの実現が出来たのだ。これは札幌のハムショップ「ハムセンター札幌」の西田社長の力であった。札幌にあるアマチュア無線機器支社を説得してくれたのだ。大手メーカー五社、一社五十万円の支援を取り付けてくれた。
 私は北海道のアマチュア無線仲間に呼びかけ、実行委員会を結成した。
 
 しかし、残念なことに日本アマチュア無線連盟北海道地方本部の積極的な協力を得られなかった。反対に、
「北海道でハムフェアなど出来ない」
などの噂を流された。
 日本アマチュア無線連盟本部にも五万円でも十万円でも資金の援助をしてほしいいと要請したが、これもゼロ回答であった。
 ある夜、九州の皆川理事から電話があった。
 「原さん、関西のハムフェアに無線連盟から毎回五十万円の助成が出ているの知ってる」
 私は、こっそり支出していることは側聞していたが、金額の大きいのには驚いた。理事会で審議していない金が流れているのだ。会員十万人の法人ではなく個人商店なのだ。 
 
 札幌の事情に疎い私は、札幌で最上位の展示会場と契約した。会場費の支払いは一年前ということで百万円の会場費を村井氏と原で立て替えて支払った。
 
 実行委員会は、集まりやすい札幌で開催した。何度かの役員会も札幌で集まった。会議に時間がかかり札幌を真夜中に出発、八雲に着く頃には朝日が地平線に出ていた。
 車は典子が運転、私や谷本氏は、後部席で寝ていた。谷本氏は、朝の四時頃八雲に着き、さらに二時間以上車を運転して函館にもどり、学校に勤務していた。
 
 幸い第一回北海道ハムフェアは四十団体と入場者三千人以上の参加があり成功を収めた。パネルは立派な業務用のもので、グレードとしては、東京ハムフェアを超えていた。参加者は、遠く根室はじめ全道各地からの参加者があった。
 
 ゲストもタイ無線連盟からHS1YLマユリ氏、フイリピン無線連盟からDU1GFジョージ氏がゲスト参加した。
 
 北海道ハムフェアは、日本アマチュア無線連盟北海道地方本部の協力を得られるだろうという想定の下に企画された。だが積極的な協力はなっかた。残念なことであった。
 予想を超える参加者によって、前払いの会場費を借用した村井氏にも返金することが出来た。
 
 このハムフェアのことが私が日本アマチュア無線連盟の理事に立候補する動機となった。先輩の理事に対抗しての立候補となった。僅差ではあったが、選挙の結果、私が当選した。この選挙の大きな力になったのが、北海道ハムフエアの実行委員であった百十七名の力であった。以後二十年間、私は日本アマチュア無線連盟の北海道を代表する理事を受けた。
 
 北海道ハムフェアは、三回まで続いた。だが急激な無線機器の売り上げ落ち込みで四回目の支援は出来ないと無線機メーカーからの申し出があった。
 私は、極端にグレードを下げた北海道ハムフェアの開催はしないという方針を持っていたので、四回目以降のハムフェアの開催を断念した。
 
 だが、二十五年後に私の意思を継いで、北海道ハムフェアを開催してくれた。 私が二十年間務めた日本アマチュア無線連盟の北海道代表理事としてバトンタッチしたJH8HLU正村氏である。高校の教員で多忙の中を引き受けてくれた。
 そして、二十五年間も途絶えていた北海道ハムフェアを再開してくれた。
 
 アマチュア無線には、新しい分野として、無線を使った探査競技が、東ヨーロッパやロシア、中国などで活動が始まった。数台の送信機を原野に置き、その送信機を如何に速くそして多くを発見するかの競技(略称ARDF競技)である。数キロキロメートル以内の野原を走りながら置いてある送信機を探査するのだ。
 日本でも日本アマチュア無線連盟が主催して、地方大会や全国大会を開くようになった。私たちも未経験でルールも良く理解出来ていなかった。
 
 ある日、私が札幌のアマチュア無線連盟北海道事務局に出かけていた。そこへ中国人の留学生が飛び込んで来た。最近留学で札幌に来たと言う事だ。話を聞く彼は中国の無線連盟に勤務していたとのことだ。そして、ARDF競技を開催したり選手として走ったりしていたというのだ。
 早速、八雲町でARDF競技の練習会を開き、競技ルールの指導を受け、実際に競技を行うこととした。
 この青年は札幌の日本語学校で学ぶため来日した中国人の呉氏であった。呉氏には以後北海道のARDF競技の指導を願った。北海道でもアマチュア無線連盟の八支部での支部大会、そして、全道大会を開催するまでになった。
 幸い私は、ウラジオストックで開催された極東大会の選手団長に選ばれ、日本アマチュア無線連盟の代表選手団を引率した。
 その後、日本アマチュア無線連盟のARDF競技担当理事になり、ヨーロッパやアジア、オーストラリアで開かれた大会に団長として日本選手団を引率した。お陰で、多くの国を訪問出来た。
 
 この競技を通じて多くの国のアマチュア無線家と交流出来た。それぞれの国民性を体験出来た。チェコの大会では、ウイーンの空港までチェコ無線連盟が日本選手団をバスで迎えに来る手はずになっていた。十五時に迎えのバスが来ることになっていたが、一時間過ぎても迎えのバスは来なかった。
 私は、あわててチェコ無線連盟に電話連絡をした。
「ウイーンの空港で待っているのだが、バスが来ない」
 電話の声が言った。
「そうか。では、これからバスで迎えに行く」
 これからバスが出発するというのだ。十五時の約束が、バスが迎えに来たのはなんと二十一時になっていた。
 日本人なら海外から客を迎えるというなら空港に約束時間の三十分や一時間前に来て、迎えるのだが。
 
 ARDF競技世界大会では、とにかくロシア勢が圧倒的に速かった。そして原野に隠された多数の送信機を発見して戻ってきた。
 私は、各国選手が使ってる受信機に興味があった。一部既製品を使っている選手もいたが、多くは手作りの受信機であった。
 驚くことに多分二十キロから三十キロの野山を駆け回っているのに、スタートした時のスピードとゴールしたときのスピードが殆ど変わらないのだ。日本選手の場合は、ゴールするときは、息も絶えだえ倒れるようにゴールする選手が多かった。
 何処の国の大会でも休息日が設けられていた。自由参加ではあるが、地域の名所旧跡などの観光ツアーが組まれていた。つかの間の休息日であったが、楽しい一日を過ごすことが出来た。
 団長と言っても速い話、ツアーガイドのようなもので、選手が力を発揮できるように様々な準備、あるいは連絡調整役だ。それが、おおざっぱと言うか、臨機応変というか、大会スケジュール表があっても、省略されたりいつの間にか変更されていた。前夜に日本選手団員に知らせたことが、実行されないのだ。なにか私がいい加減なことを伝えているようで困った。
 殆どの場合競技大会終了後は、現地解散であった。観光に出かける者、急いで帰国する者など様々であった。
 私も、折角初めての国に来たのだからと近くの名所旧跡などを訪ねた。ただ、職場の学校では授業が続いているのだからそれほど多くの日程はとれなかった。こんなことを校長になってからも続けさせてもらったことは本当に有り難いことだと北海道教育委員会や職場の先生方には感謝している。
 
 同じようにモールス電信の高速受信世界大会の引率団長も引き受けてことがあった。ブルガリアの首都ソフェアでの開催であった。日本からはベテランハム三人の選手が出場した。
 電信の競技会は、ホテルの大広間で行われた。年齢別のクラス分けあった。競技中のモールスをモニターで聞いたみたが、まるで鈴虫が鳴いているような高速で私には全く受信不能であった。
 日本選手団の三人も拳闘したが、ヨーロッパとロシア勢には叶わなかった。少年達も一分間に百字くらいのモールスを簡単に受信しているのには驚いた。
 競技後は、表彰式を兼ねたパーテーが開かれた。参加者には、交戦中の国の選手も参加していた。仲良くビールを飲んで語りあっている姿をみて、これがアマチュア無線だと思った。
 
 日本アマチュア無線連盟の北海道代表理事として二十年も経過した。協力してくれた支部の役員には感謝している。
 ただ、当初は、前理事の支援者の支部役員が多かった。北海道の役員会でも私には挨拶もしない役員がいた。私が提案したことに全部反対で、之には北海道の日本アマチュア無線連盟の活動に支障があった。役員選挙のしこりもあった。私の北海道地方本部の活動方針に不満もあった。
 私は、支部に配分される経費の使い方を厳しく制限した。これまで慣例であった役員会等での飲食を禁止したのだ。特に石狩後志支部の経費の使い方は酷かった。約四割の四十万円が飲食費で支出されたいた。
 ところが厳しく制限の方針を示しても一向に飲食費は減らなかった。やむなく私は、各支部長の選挙に対立候補を立てた。幸い私が願って立候補した者が次々と当選した。役員は一新された。
 
 二十年前、北海道ハムフェアを開催したことで、アマチュア無線連盟の理事になるなど考えてもいなかったことだ。このためユニセフハムクラブの仕事とダブって、この二十年間は私の人生の中で大変な時代であった。教員としても管理職を受け、趣味のアマチュア無線でも仕事が拡大したのだ。
 ある時は、アマチュア無線の支部大会が富良野市であり、三百キロ離れた八雲養護学校では夕方六時からPTAの総会があった。昼食もとる暇もなく車を飛ばし午後六時のPTA総会にやっと間に合うというような生活が続いた。
 
 ある時、自宅で仕事をしていて、明日の出張のホテルを予約することを忘れていたことを思い出した。あわててメモを出し、ホテルに電話をかけようとして、ふと柱時計を見た。なんと午前二時だった。
 
 海外でのアマチュア無線の運用は、相手国の電波管制役所と六ヶ月前から交渉に入っていた。手紙も使ったが、急ぎは電話をかけていた。時差には気を付けた。今は、殆どの国とはダイヤル通話だが、当時はKDDのオペレーター経由であった。申し込んでから速くて三十分、遅いときは一時間はかかった。つながると下手な英語で用件を話す。通話時間をなるべく短くするため、メモを作って話していた。一番大事なのは、アマチュア局の免許を発給してくれるかであった。昨年は良くても、今年の国内情勢でだめかも知れない。
 
 こんなやり取りをしていての経験が生かされた。KDDのオペレーターはつながった最初はモニターしているが、すぐ別な相手に対応していることが分かった。それでひらめいた。
「今日は、回線の状態が悪くて相手の言うことが殆どわからなかったよ」
とほやくのだ。
 するとオペレーターは、
「申し分けありません。十分間でしたが三分にしておきます」
と通話時間をまけてくれるのだ。
 残念ながら現在は、回線も良くなりダイヤル通話なのでこの作戦は出来ない。  
 
 旅行会社とも仲良くなれた。一度の海外運用には五人から十人、時には二十人も参加者がいた。殆どが成田空港発着の切符を購入した。だが人数がなかなか確定しないのだ。それで見込み人数で予約して、三十日前に名前を入れて人数を確定することになっていた。
 それが、五年くらい過ぎてからは、信用がついたのか確定は十五日前とか、最後は一週間前でも良くなった。信用を得るには旅行会社の担当者を決めておくことだ。
 利用したのは安い航空会社ばかりであった。ある時ダッカに行った際だが、バングラデシュアマチュア無線連盟の会長から、
「今回は、どこの航空会社で来たのか」
と訪ねられたので、
「ビーマン(バングラデシュ航空)だよ」
と答えると、自国の航空会社なのに
「恐ろしい会社の飛行機に乗って来たね。バングラ人はだれも怖がって乗らないよ」
とのことだった。
 そういえば、窓から外の景色を写真に撮ろうと思ってレンズを向けたが、傷だらけの窓ガラスで、外がぼんやりとしか見えなかった。たぶん二十年以上も使われた中古ジェット機だった。
 
 飛行機のトラブルは色々あった。十三人でバンコクに出かけて時のことだ。パキスタン航空を使った。旅行会社では、
「帰りの切符がウエイティングだけど大丈夫でしょう」
との話しだった。毎日バンコクのパキスタン航空の事務所に通ったが、前日の正午の時点でもOKが出ないのである。もうあきらめて空席のあるインド航空の切符を買うしかない。一人十万円で十三人分だ。これで夏冬のボーナスが飛ぶなと思いながら仮予約した。その足でパキスタン航空に戻るとなんと十分前にOKが出たとのことであった。
 
 ネパール航空にも何度も乗った。ある時のカトマンズでの無線の運用を終わり、皆で荷物をまとめ午前十一時のバンコク行きに乗るため空港に向かった。順調に手続きが終わり、待合室でくつろいでいた。そろそろ搭乗時間と思われる頃に、大きなトレーが待合室に運ばれて来た。そして機内食が配られたのだ。十一発の便は遅れるため昼食を出してきたのだ。
 なんのアナウスもなく時間はすぎ十七時になった。夕食が運ばれてきた。百人位いの乗客が文句も言わず待ち続けていた。二十一時頃に夜食が運ばれて来た。結局、飛行機に乗ったのは、二十三時を過ぎていた。みなの忍耐強いのには感心した。
 
 ある時、ネパールの通信省との打ち合わせのためにJA8OW谷本氏とカトマンズを訪問した。打ち合わせの後、通信省の担当官から、
「日本政府からの招待で東京で研修した際、二台のアイコムのアマチュア無線機をもらってきたが故障した。アイコムに修理してもらいたい」
という要請であった。
 荷物になるが世話になっているネパールの通信省なので、引き受けた。帰りの飛行機の荷物として預けた。バンコクに着いたが、いくら待ってもアイコムの無線機が出て来ないのだ。
 もうあきらめて、ネパール航空の空港内オフイスを探して、クレームを付けるしかないと二人でトボトボ歩いていた。
 忘れ物コーナーを何気なく見て驚いた。ICOMの大きな印刷のあるダンボールが二箱転がっていた。たぶん先発の飛行機に乗せられ、引取がなかったので、「忘れ物」になってしまったのだ。
 
 これもJA8OW谷本氏とネパールへ向かう際のことだ。珍しく香港経由の飛行機を使った。香港からの乗り継ぎであった。ネパール航空のカウンターに行くと、
「今夜のカトマンズ行きは欠航」
 紙が貼られているだけで、誰もいないのだ。ホテルも取ってないのでネパール航空の事務所を探し回った。やっと発見した。谷本氏が、係員に、
「ノーフライトでどうしてくれるんだ」
と英語でクレームを付けた。すると係員は、二枚の空港内ホテルの宿泊券と夕食の券をポイとなにも言わずに渡したのだ。私のようにろくに英語が話せぬ者は野宿するしかなかった。谷本氏のお陰で、立派な部屋と、暖かい食事にありつけた。うまいスープは、「五蛇スープ」であった。
            
 この章のタイトルの漢字「遊(スサ)ぶ」には思い出がある。バンコク日本人学校のPTA広報部に所属していた際のことだ。当時の日本大使館の天羽公使にPTA会報の原稿をいただいた。「アメリカで遊ぶ」と原稿にあり、「スサ」とふりがなを付してあった。私は、ふりがなを付けるのはタイプ印刷では難しいのでこれを省略した原稿を石井印刷に回した。
 すると、ふりがなを付してないPTA会報を見た天羽公使から呼び出しを受けてた。あわてて大使館にでかけると、
「ふりがなを付けてないと意味が全然違うぞ」
と強くおしかりを受けた。                  
 アマチュア無線を通してのユニセフ支援活動は、約二十年間継続した。海外での活動が中心なので、勤務先の学校の夏休みと冬休みの活動が中心になる。冬の活動では、年末年始にかかることが多かった。
 
 ダッカ日本人学校の先生から頼まれて、上野のアメ横で正月食品を購入して、スーツケースに詰め持ち込んだ。ダッカ空港税関に捕まった。数の子は魚の卵で、餅は米から作るとか、説明に一時間を要した。
 日本人学校の先生は、それを近所の日本人家族に分けたとのことで、分けた家から夕食の招待を受けた。スコッチウイスキーやビール、地元の旨いものを沢山ご馳走になった。
 それで、なにを分けてもらったか聞いたところ「黒豆を一合」とのことだった。高い黒豆になった。当時は、ダッカでは日本食品の入手は難しかったのだ。
 
 約二十年間大晦日と新年は海外で迎えることが殆どだった。
 典子には、
「我が家は母子家庭で年末年始は父親がいなかった」
とぼやいていた。
 全く良い夫でもなく良い父親でもなかった。
 
 
 
   
 
ラジオ少年の夢
 
 
 4アマ、3アマの養成課程講習会を開始

 肝臓移植後、一年の休暇をもらった。幸い術後の経過はよかった。そして、無事復職出来た。復職した職場は、北海道の特殊学校で最も歴史のある札幌盲学校であった。通院などを考慮して北海道教育委員会が配置してくれたのだ。私は以前二年間この学校の教頭を務めた。殆どこの大規模学校には行政からの校長派遣が多かった。回りから見れば私の配置は、特別扱いに見えたかもしれない。
 入学式には、あの辛い入院生活を思い出し、泣いてしまった。新しい職場にいる現実を信じることが出来なかった。
 この学校は、教頭が小学部、中学部と二名体勢の学校であった。私は一日に数件の決裁文書に目を通す程度の仕事で体への負担は殆どなかった。
 ただ、毎週のように医師の診察を受けるため、休みをもらことに抵抗があった。私が不在のため職員会議が開けないこともあった。 
 もう一つ、移植患者のかなりの割合で、移植後の拒否反応などで五年以内に亡くなることが多かった。
  
 私は、もう一つやり残した仕事があった。時代とともに衰退していくアマチュア無線の活性化や若い方の取り込みである。趣味の王様と言われるアマチュア無線も徐々に人口減が始まっていた。
 私は、アマチュア無線をはじめ電子工作の一層の発展を願っていた。ゲームより楽しいことが有ることを体験させたかった。所属した日本アマチュア無線連盟の理事としても青少年対策を提案したがなかなか取り上げてもらえなかった。
 
 毎年北海道教育委員会の退職願いの締切りは二月末日になっていた。私は、その前日覚悟を決めた。
 夕食後に典子に訪ねた。
「退職して良いか」
 典子は、驚いたが、
「好きなようにしていいよ」
と言ってくれた。うすうすそんなことを言い出すのではないかと感じていたのかも知れない。
 翌日、事務長に私の退職手続きをするよう指示をした。事務長は、
「校長さん。年俸千四百万を二年分が無くなるんですよ。思い直しては」
と慰留したが、私の決心は変わらなかった。そして、私は最後の仕事である三月十五日の卒業式を最後に教員生活を終えた。
 
 電子工作部品と言っても、IC等の集積回路の部品が多くなった。単体の部品の生産は日本では終わっていた。早速東南アジア、ヨーロッパ、アメリカなどの市場調査を開始した。現地へも何度も通った。どこの国も最新のパソコンなどの部品が多くなり、単体の部品は少なくなっていた。だが、東南アジアでは、戦後日本から輸出した単体の部品が多数残っていた。それらの部品を見つけると大量に買い付けた。
 この世界からの部品集めには、もらったばかりの退職金を充てた。
 アマチュア無線仲間にNPOの立ち上げの協力も願った。
 
 平成十七年五月三十日、北海道知事から「NPO法人ラジオ少年」が承認された。教員退職から二年後のことであった。
 主な事業は、基礎的な電子部品と青少年向けの簡単なラジオキットの頒布であった。事務所は、我が家のガレージであった。狭い車庫に中古のコピー機とこれもまた中古の印刷機、パソコンなどを準備した。インターネットでホームページを立ち上げた。
 有り難いことに最初の一ヶ月で四十万円を売り上げた。青少年団体や学校からも注文が入るようになった。
 仕入れ先は、主にタイ、台湾、韓国であった。以後売上金を持っては、これらの国に買い出しに出かけた。タイでありがたかったのは、戦後日本が輸出した電子部品がデッドストックとして倉庫に眠っていたことだ。見本の部品を電気街の店員に見せると倉庫にあるかも知れないと言って探してくれた。
 
 仕入れには、典子が私の体を心配して三年ほど付き合って一緒に出かけてくれた。
 バンコクは中国人街のホテルで一泊四五〇バーツ約一四〇〇円、二人で泊まれば一人七〇〇円ほどであった。ソウルは、一泊一人千円ほどのユースホステルであった。台北は安いホテルが見つからず一室四千五百円ほどのビジネスホテルであった。
 典子は、私が安宿ばかりを使っているのに驚いたが、まだ売り上げの少ないNPOなので仕方のないことであった。典子にとって興味のない電気街を朝から晩まで回るのは苦痛であったと思う。それでもその国の食事をとって満足していた。
 中国では、山口氏が立派な外国人が多く泊まっている高級ホテルを予約してくれていた。典子は喜んだが、私は支払いにいくら請求されるか心配であった。
 私の旅行スタイルは、はき古したGパンにシャツにボロボロのショルダーバックをかついでいた。常時現金仕入れのために百万円から二百万円ほどを入れていた。幸いスリには会わなかった。現地の電気部品の店で大量買いしても日本円では払えないので、近くの銀行に寄っては両替をした。百万円、二百万円と両替すると、銀行員は不審な目で見ていたが一度も両替の拒否はなかった。何年間か同じ銀行で両替をすると、行員の女性達から、
「日本に行って見たい」
等の雑談もするようになった。銀行のガードマンも私の顔を覚えていて、質問なしでサッとドアを開けてくれるようになった。
 
 ソウルの電気街を最初に案内してくれたのは、ソウルのアマチュア無線仲間であった。案内してくれた彼は、
「この街には、電気炊飯器からミサイルまで売ってるよ」
と自慢げに案内してくれた。
「ミサイルを一発買いたいな」
と言ったが、ミサイル販売店には案内してくれなかった。
 確かに秋葉原をはるかに超える多数の電気店が並んでいた。彼は、青少年が製作するようなラジオキットを売っている店を案内してくれた。古い大型のアパートに多くの電気店が入っている一室であった。
 この会社、セロナキットの趙社長は、自ら教育用教材を開発し製造販売しているという。私の理想の会社だった。開発して販売している中から数種類のラジオキットの購入を決めた。価格は高いがしっかりした部品を使っていて再現性の良いキットだと判断した。
 初訪問というのにスタッフの一人を付け典子と私を近くの食堂に案内してくれた。スタッフは、片言の英語で、最近社長が奥さんと別れたこと、社長はパーキンソンを患っていることなどを話してくれた。そういえば、少し動作や流暢な英語の話方が不自然だった。離婚に腹を立てた奥さんが会社の会計簿を持ち出し税務署に持ち込んだ。それで脱税がバレて倒産したとのことであった。
 そのため銀行との取引が出来ず、すべて現金決済だということだ。
 以後このソウルの会社とは現金取引であった。電話一本でラジオキットなどを送ってくれた。支払いは私がソウルに出かけた際に現金で支払っていた。
 
 NPO法人ラジオ少年をガレージで始めて、一ヶ月ほど過ぎた頃だ。突然NHKラジオのデイレクターの辰巳氏から電話をもらった。
「ネットで活動を見ました。NHKラジオの朝の番組に出演してくれませんか」
という依頼だった。いつかはマスコミに取り上げてもらいたいとは思っていたが、こんなに早く声がかかるとは思ってもいなかった。
「今週、土曜日に事務所に行きますよ。よろしく」
電話の声はあっという間に切れた。本当にこれは事実だった。NPO法人ラジオ少年の事務所、つまり我が家の車庫だ。
 予定のとおり、デイレクターの辰巳氏、そして、いつもNHKの朝の放送で声なじみの山田敦子アナウンサーがやってきたのだ。辰巳氏がなにか面白いことやっている者はいなかいかネットサーフしていた時に、発足したばかりのNPO法人ラジオ少年のホームページを発見したという。もう辰巳氏には、すっかり放送のストーリーが頭の中に出来ていた。そのストーリーを確認するために東京からやって来たのだ。
 実は山田敦子アナウンサーの写真を見たことがなかった。暖かい声の人だと思っていたが、生の声はまさしくふっくらとした優しい声の主であった。容姿も褒めたいが、褒めてもセクハラになるというから止めておく。ただ、さすがに本当の車庫の事務所に二人を招いたことが恥ずかしかった。
 辰巳氏は、アマチュア無線をやっており、私のやっていることを何も説明しなくとも理解していた。
 
 そして次の週の七月六日に私は渋谷のNHKに出かけた。NHKのビルは、大型ビルの中にあり指定されたスタジオに向かった。
 辰巳デイレクターと徳田アナが対応して、地下の喫茶店に案内してくれた。私は、NHKの事だから、あの話しはだめとか使って行けない用語、触れてはいけない話題などゥ注意があるかと思った。
 だが二人からは、全くそんな話は出てこず、アマチュア無線の話程度だった。徳田アナもアマチュア無線をやっていたとのことだった。
 
 七月七日、朝からスタジオに入った。山田アナが私の緊張をほぐすように優しく話題をすすめてくれた。私は、ラジオ作りの楽しさを話し続けた。多少私のラジオ作りの話は盛っていたかもしれないが、音楽をかけている時に辰巳氏が視聴者から届くFAXやメールを持って来た。
 なんとか音楽を挟みながら十一時までの二時間をつなぐことが出来た。すると辰巳氏は、二百通以上の視聴者から届いたFAXやメールの束をみて、
「原さん、こんなに反響があるのは珍しいんだ」
と教えてくれた。
 
 家で放送を聞いていた典子も、
「放送が終わった瞬間、電話が鳴りっぱなしで大変だった」
と驚いていた。電話は放送終了後から午後九時まで続いたというから驚いた。放送中に、山田アナが電話番号を言わせてくれたのだった。
 この放送での視聴者は残念ながら私がねらっていた青少年ではなかった。昼間にラジオを聞いている若い人がいるわけがなく、年配の人たちに伝わったのだ。
 その後、予定していた出演者に穴がに空いたのか、十二月の二十日過ぎに辰巳デイレクターから再度ラジオへの出演依頼があった。今度は、中途退職して、変なことをやっている人を集めるというのだ。
 十二月二十七日、同じ番組で二人の変なことを始めた者が集められた。私ともう一人自動車会社を途中退職して、林業に転じた人であった。
 ここで分かったことは、やっぱり私は「変なおじさん」であると言う事だった。
 この番組では、進路相談をしている残間理恵子氏と加藤仁氏がアドバイスしながら番組を進めた。
 この二回のNHKの放送で、NPO法人ラジオ少年は、経費をかけないで全国に周知出来たのだ。
 
 ラジオ部品の売り上げが毎月百万円以上になり狭い車庫では手狭になった。近所の適当な場所探しを続けていた。幸い家の近くに適当な物件を見つけた。三十人ほどが入る二部屋と小さな部屋二室が付いていた。ここで三十人程度の人を集めて、アマチュア無線の資格取得講習会も出来る見通しが出来た。
 アマチュア無線の講習会は、当時は総務省の関連団体の一団体しか認められていなかった。この団体の下請けでしか講習会を開催出来なかった。平成二十一年、法律の改正で、地方電気通信監理局の監督下で講習会を開けるようになった。
 この改正を知ってすぐ北海道総合通信局にNPO法人ラジオ少年として申請手続きをした。だが、初めての事業に役所も事務手続きに時間がかかった。承認には数ヶ月を要した。
 平成二十一年九月十二日、十三日の二日間、一回目の第四級アマチュア無線技士の養成課程講習会を開くことが出来た。
 
 この講習会開催を北海道総合通信局に申請したことをすぐ日本アマチュア無線連盟会長であり養成課程講習会を一手受けている日本アマチュア無線振興協会の会長をしていた原昌三氏に知れ、即刻NPO法人ラジオ少年からの申請を取りやめるよう圧力がかかった。
 八月に東京晴海で開催された「東京ハムフェア」会場でも執拗に取りやめを要求してきた。一日目は二時間、二日目は四時間以上に渡っての説得であった。私は、青少年の受講料を下げるなら取り下げても良いという腹案を持っていたが、
「国家資格で年齢によって受講料に格差を付けているものは無い」
と最後まで認められなかった。
 最後に応援の声を掛けてくれたのが、同席していた同じく日本アマチュア無線連盟の理事、有坂氏であった。この有坂氏が、予想もしない発言をした。
「原さんは、青少年活動を一生懸命やっているし、この際NPO法人ラジオ少年での講習会を認めては」
 全く有り難い言葉であった。その後もいろいろあったが、NPO法人ラジオ少年での講習会を始めることが出来た。 
 
 この講習会は、当初は私が講師を務め、典子が世話役の管理者を務めた。この講習会開催の事が新聞に記事として取り上げられた。何人もの上級無線従事者資格を持つ者が講師として応募してくれた。
 この講習会は、毎月定期的に開催したために徐々に受講者が増えた。ただ、私が狙った青少年の受講者は少なかった。年間五百人程度の受講者で、私が期待した青少年は百人程度であった。幸い今年令和三年十月で受講者は四千八百人となった。
 
 平成十七年、札幌市内の青少年のアマチュア無線クラブ「札幌ジュニアアマチュア無線クラブ」を結成した。会員は市内から小中高生十人ほどが集まった。私は、顧問として助言していた。毎月一回、我が家の車庫を使って活動した。私は、これまで殆どの学校でアマチュア無線クラブを作って活動してきたが、同一学校の生徒の活動であった。ところが、地域のクラブでは、それぞれの学校の行事が異なるため、集まって一同に揃って活動することが極めて難しいことが分かった。
 幸いこの青少年アマチュア無線クラブを指導してくれる若い人、岡田氏がバトンタチした。以後、十年以上もこのクラブの活動が続いている。
 
 この青少年アマチュア無線クラブの一番の思い出は、ARISSというアメリカNASAの事業に参加したことだ。
 地上四百キロに飛んでいる人工衛星の乗り組み員との交信に挑戦した。ただ交信する会場が、我が家の車庫ではあまりにも狭い。そこで裏にある水道屋の物置を借用した。持ち主は貸し出しを快く承諾してくれた。
 物置の壁は汚れていたので、ベニヤ板を張り回した。周辺の草が伸びほうだいだったため無線仲間の能登氏が草刈り機できれいに刈ってくれた。英語の交信だったので、宇宙飛行士への質問は英語を練習した。
 我が家の無線タワーに衛星を追尾するモーターをやアンテナを設備、パソコンで自動追尾するシステムを構築した。
 この追尾システムや人工衛星の位置を表示し、大型スクーリンに表示するプロジェクターも欲しいう要望が会員から出た。ラジオ少年の財政では大きな負担になったが無理をしてプロジェクターやスクーリンなどをそろえた。
 近くの小学校への参加を求めたが、結局集まったギャラリーは、近所の人だけだった。
 衛星と交信出来るのはわずか十五分ほどであった。
 二十三時過ぎ、予定の時間に宇宙飛行士から声がかかた。マレーシア上空とのことであった。衛星は、どんどん北上し電波はどんどん強くなった。数人の会員が代わる代わる交信をした。練習してきた英語での交信だ。
 衛星は、あっと言う間に北上して交信が出来なくなった。
 
 新しいNPO法人ラジオ少年の事務所を移したころ、一通の電子メールが届いた。中国広東省で事業を展開している日本人の山口氏からであった。
「私もアマチュア無線をやっている。中国には基礎的な電子部品が多数製造されている。ラジオ少年で扱ってみてはどうか」
という有り難い誘いだった。
 いろいろ中国市場を調べてもらうと部品の種類も多く、また、価格も安かった。以後、山口氏には、次々と新しい部品を見つけてもらった。
 また、私が何度も東京に足を運んで、作ってもらおうと工場に願った部品も、作ることが出来た。
 この部品、真空管ラジオ用のIFT(中間周波トランス)は、真空管ラジオを作るためには絶対必要な部品であった。日本では、すでに五十年も前に生産が終わっていた。このIFT製作のため山口氏は中国で奔走してくれた。ケースの金型やネジ一本まで特注であった。その他の中国の部品は価格も安く種類も多かった。青少年や製作マニアに格安で提供出来た。
 
 NPO法人ラジオ少年のヒット商品は、陸上無線協会他から注文を受けたICを一個とトランジスタ一個を使った簡単なラジオキット(型番KIT-16Jr)である。これは、総務省の事業で小学生向けの事業「電波教室」に使うラジオキットで、もともと予算が一セット一千円で受注した。そして、毎年五千セット以上の発注を受けていた。千円でも市販のキットの半値程度で安い納入価格で請け負った。
 だが、民主党の政権の時に「千円もするものを小学生に渡すとは何事か」と五百円に予算を制限された。納入しているラジオキットは原価計算をしてもどうしても六百五十円かかっている。やむなくラジオ少年で一セット百円の助成金を付けることとして、一セット五百五十円で納入した。多い年は七千セットも受注を受けたので、年間七十万円も助成をすることになった。国の事業に貧しいNPOが助成などする例はなかったのではと思う。
 
 この助成は七年間も続いた。ただ、この団体も担当者が変わり、まさかNPOから助成を受けていることを知らないでいたらしい。また自民党政権に戻ったので、値上げして原価の六百五十円の納入とさせてもらった。
 
 山口氏の会社のある珠海市に典子を連れて出かけたことがあった。珠海市や少し離れた深センの電気街に案内してもらった。大きな河に浮かぶ水上レストランにへも招待してもらった。私が、電気街で部品の品定めをしていると、典子にお茶を勧めてくれる店があった。典子が、言葉は通じないが、
「おいしい。良い香り」
と言うと何杯もお茶をついでくれた。
 私の道楽に付き合って退屈な旅に良い思い出を作ってもらった。
 
 山口氏がアマチュア無線家で有ることが、NPO法人ラジオ少年の物品購入に役立った。商社の人に説明してもわからない部品のことをすぐ理解してくれる。時によっては代品までも紹介してくれるのだ。
 電子部品に関する情報も速い。ラジオに絶対必要なポリバリコンという部品がある。かっては日本製があったが今は生産していない。このポリバリコンも中国での生産を終了すると山口氏から情報がもたらされた。私は、慌てた。青少年向けのラジオキットには絶対必要な部品だ。私は、大量発注をかけた。毎年NPO法人ラジオ少年では、この部品を年間五千個以上使うからだ。
 半年もしないうちに世界の電子部品市場からポリバリコンが消えた。その中で、NPO法人ラジオ少年がこの部品の供給を続けている。国内の大手部品販売店から何個でも良いから分けてほしいとリクエストが度々入った。
 
 この中国の山口氏の出会いで、NPO法人ラジオ少年の仕入れは大幅に楽になった。年に数回もバンコクや台北、ソウルに出かけ部品調達をしていた交通費やホテル代等が節約出来たのだ。 
 
 金銭的だけではなく、輸入にかかる手間が大幅に楽になった。山口氏の会社からの輸入は、大手輸出入の代理店が引き受けていた。そのため、輸入の手続きを一切代行してくれるのだ。
 これまでは、海外に買い出しに行って、現地の輸出の代行をしてくれる業者に部品を持ち込んでいた。そこでダンボールに詰められ航空貨物として千歳空港に届く。
 すると、保税事務所から電話が来て引取に千歳空港に出かける。税関の事務所に行って輸入手続きをする。そして、また保税倉庫に戻って、税関の検査を受ける。そこで、関税が決められ、空港内の銀行に税金を納める。それで再び保税倉庫に戻り荷物を受け取る。
 文章で書くと簡単のようだが、この作業に一日かかるのだ。場合によっては、十七時以降でも税関では対応してくれる。だが一時間七千円の追加手数料を支払わなければならない。
 これが、メールで珠海の山口氏へ注文すると、一週間もしないうちにラジオ少年の事務所の玄関まで配達されるのだ。
 
 この税関との付き合いで、海外から千歳空港に戻って来ると、荷物の出てくるターンテーブルの近くで顔なじみの税関士から、
「原さん、今回は何処に行って来たの」
と声がかかる。一見愛想良く声をかけてくれるように思うが、本当は怪しい物を持ち込んでいるのではと疑っているのではと邪推している。
 成田空港に下りたとき、税関では若い人を指導していた。先輩らしい税関士は若い職員に、
「機械物を持って来るやつは拳銃など持ち込む者が多いから気をつけろよ」
と耳打ちしていた。
 ほこりのかかった見るからに古い真空管などスーツケースに詰め込んで帰ると、税関士は、見た瞬間に、
「こんなガラクタどうするの」
と聞いてくるのだ。私の発見した宝物なのだが。
  
 NPO法人ラジオ少年の運営に当たって、特に時間を割いて支援してもらった各位にお礼を申し述べたい。
 設立当初から手伝ってくれた能登光夫氏、加藤喜一氏、原田進氏。
 ボランティアで事務局を助けてくれた三井武氏、石関常見氏、高木伸一氏。
 講習会講師や事務作業をしてくれた計良栄次氏、橋本敏雄氏、布施俊一氏、椎谷泰世氏、天野健文氏、田代隼人氏、池田光二氏、鈴木恵史郎氏、岡田壮弘氏、佐藤文彦氏。
 各地で講習会の運営や講師を請け負ってくれた皆に、心より謝意を表する。
 
 結婚して五十一年間、私をささえてくれた妻典子は、癌のため七十四才で他界した。順番では、私が肝不全でとっくに先だっていたはずだった。典子が先に逝ってしまうなど全くの想定外であった。わがままな私の人生を典子に付き合わせたことを詫びたい。