直線上に配置

辺 地 教 育

大成町立太田小中学校

 1 太田小中学校への赴任

 昭和42年3月、北海道函館教育大学函館分校を卒業した私は、北海道教育委員会からの赴任先の連絡を心待ちにしていました。届いた連絡は、「檜山管内大成町立太田小学校」とありましたが、地理に疎い私は、「大成町」も「太田」も知らない地名でした。地理に詳しい知人に尋ねると知人は驚いて、
「原さん、太田はすごい僻地だよ!」と心配顔で私に「大成町太田」について教えてくれました。なんと私が訪ねた知人の兄さんが、つい最近まで太田小中学校に勤務していたとの事でした。太田小学校は中学校との併置校で、北海道の中でも最も僻地にあり、北海道教育委員会から、僻地で最も厳しい環境にある学校として、「僻地5級」を指定されているとの事でした。
「兄が赴任した5年前は、漁船に引っ越し荷物を運んでもらったんだ。」
「ということは、道路がないんですか?」
「そうさ、太田は、陸の孤島と呼ばれているんだよ。道路どころか、電気もなかったんじゃないかな。」私は、道路はともかく電気がないらしいという事で頭が真っ白になりまいた。なにせ私は、アマチュア無線を唯一の趣味としていたので、電気がなければ電波が出せないのです。
「電気がないんですか?」
 私は、あわてて、公衆電話に向かいました。薬屋さんの公衆電話で交換手さんに早速「太田小学校」を申し込みました。待つこと10分、ジーンとベルが鳴り薬屋さんのおばさんは、太田小学校が出たことを告げました。
 「あのう−−−。今度赴任する原といいます。」
 「校長です。私も転勤することになってるんですが、先生方も子ども達も原先生を待っていますよ。」優しい校長先生の声が電話から聞こえてきました。
 「校長先生、電気はあるんでしょうか?」私の最大の関心事、電気の有無を訪ねました。
 「電気ありますよ。ついてますよ。水道もあるしね。テレビも観てますよ。」
 「電気あるんですか。よかった!」私は、道路よりも水道よりも電気があることに感謝しました。
 「電気があれば、それでいいんです。赴任は、4月1日しますので宜しくお願いします。」同じ教員の父が、学校が決まったら必ず4月1日に赴任するようにと言っていたのを思い出して、もう赴任日は心に決めていました。
 
 私は、太田小中学校に電話しながら北海道教育委員会の面接を思い出していました。
 「どんな学校は生きたいんですか?」
 「そうですね、僻地とか離島とか−−−。どこでも構いません。」そう確かに私は面接官にこんな風に答えたのでした。小学校、中学校でミニ校にいた私は、1学年が500人もいるようなマンモス校になじめないような気がしていたからです。私の通っていた1学年が5人とか10人の小さな学校でした。人数が少なくとも勉強の出来る人はいましたし、何ともアットホームな雰囲気が大好きでした。僻地は嫌だとは思いませんでしたが、電気のないかもしれないという話しにはさすがに心配でした。

 昭和42年4月1日、小さなアパートを引き払い、3輪トラックをチャーターし荷物をまとめ、初めて函館から任地「太田」へと向かいました。ところが、下見に来たにもかかわらず、三輪トラックには荷物が多くてバイクが入らないではありませんか。
 「しょうがない。乗って行くか。」この私の軽い判断は、私が当時の檜山地方の地理に無知であったためでした。道のりは、120Km程度で、大したことのないドライブを楽しむ範囲であったのですが、その道路たるやひどいものでした。当時の檜山管内の道路は、ほとんど未舗装で砂利道でした。加えて一冬を過ごしたばかりで、雪解けのジャブジャブ、そして大穴だらけだったのです。道路の穴の深いこと、バイクは勿論、やっと三輪トラックもお腹がつかえて走れないのです。私のバイクのチェーンは伸びて何度もはずれ、冷たい泥水をかけられながらはめなければなりませんでした。道ばたのバイクやさんで2度も伸びたチェーンを詰めてたほどです。

 日本海側に出ると景色は一転しました。青く荒い波が押し寄せていました。北へ走るとだんだん海岸線は、険しく複雑になっていき、人家が岩を背中にして張り付くように建っています。バスやトラックともすれ違いましたが、海岸道路は細く、車の屋根が人家に接触しそうになりながら走っているのです。ところどころに小さな港があり白い漁船が係留れています。私の今まで見たことのない漁師町が点在していました。

 3時間近く走ると「大成町」の標識が見えて、人家や商店街のある街に着きました。ここが役場や病院、教育委員会のある久遠という街でした。私は、午後1時から行われる「辞令交付式」に出席のため教育委員会に寄りました。泥水の中を走ってきたため、ヘルメットの中まで泥が入っていて、教育委員会で顔を洗わせてもらい背広に着替えました。教育委員会には、今日転入転出される10人ほどの教員がこの町の教育長さんから辞令を受けました。
 「やっぱり父の言うとおり4月1日に来てよっかった。」私は、初めて教員として辞令の交付を受け、更に12km離れた「太田」に向かいました。
 数キロバイクで走ると道路は、海岸へと出ました。道路は、出来たばかりらしく、岩場を削岩機で削っただけという感じで、舗装もされていません。山側は断崖絶壁になっており、初め波で海の岩が道路に押し上げられたのだと思っていましたが、それは間違いで、岩山からくずれ落ちてきたものだと分かりました。道ばたには、漬け物石より大きなものがごろごろしていました。
 「こんなのが、直撃したらいちころだ!」と思いました。日本海の色は一層青く澄み切っているように見えました。大きなカーブを回ると、「太田」の標識が見えました。湾の向こう側に人家が見えてきました。
 「ここが太田か!」私は、バイクを止めて、遙か向こうに小さく見える村落をながめました。

太田の遠景 昭和42年4月1日撮影

 村に着いて「太田小中学校」を訪ねると、山の上の方だと言うことでした。学校へ行く道もつい最近できたようで、岩を切り開いたようです。ほんの200mほど曲がった坂を上がって行くと、そこにまだ地均しの終わっていない小さなグランドになり、少し小高いところに新しい校舎が見えました。
 「小さくて、可愛い学校だ。気に入った!」私は、学校の玄関のドアを開けました。

 「初めまして。原と申しますが、ただいま着任しました。」小さな職員室には、二人の教員が私を迎えてくれました。この「太田小中学校は、小学生と中学生を合わせて60人、教員は校長以下5人です。早速校舎を案内して頂きました。教室も、体育館もこじんまりしています。私が通っていた小学校と同じ位の大きさに、私はこの小さな学校がすっかり気に入ってしまいました。


2 教員生活始まる

 校長先生が着任され、私の住宅も決まりました。私の住宅は、学校の200m下、村の近くにある旧校舎にくっついた旧校長住宅でした。3部屋もある結構大きな住宅です。今までの4畳半の学生アパートの何倍もある広さです。「旧」とつく位ですから、築30年以上は経っていますが、家賃が月額800円ですから文句は言えません。隣は壁一つで旧校舎の一部を残して村の「会議室」に使われているようです。
 住宅の前に学校へ行く細い道路がついており、道路の向こうには川が流れています。川の水は、山間の清水が集まってきているのかとてもきれいです。500mほど川上から、この水をパイプで引いて、学校や村の簡易水道の水源として使われているのとのことでした。
 村には2件のお店があって、お米やお酒、缶詰などが売られていました。村の人口は200人ほど、そして、太田小中学校の生徒さんは小中合わせて60人です。村の産業は、漁業で、10隻ほどの99(きゅうきゅう)と呼ばれる、9.9トンの船と磯舟が各戸にありこの村の生活を支えているのでした。日本海に面した道路は、ここ太田で止まっています。この先は、断崖絶壁が続き、道路工事は困難で、今後の工事の見通しも立ってないという事でした。隣町の大成町久遠から太田までの道路もつい最近開通したばかりだとの事でした。私のバイクで走って来た道路は、まだ岩を削ったばかりでごつごつした岩肌のまんまでした。道路は出来たてのホヤホヤだったのです。
 
 引っ越し荷物の片付けも出来ないまま、職員会議がスタートしました。昇任でなったばかりの野口校長45歳、教務主任のN先生、30代のT先生、20代女性のK先生、そして、新採用の私と5人で全職員ですから、新年度計画の職員会議も短時間で終わりました。私は、4、5、6年生の学級担任、そして、校務分掌では保健体育部を持つことになりました。
 4、5、6年生の3学年の学級など驚かれる方もおられるでしょうが、私の小学生時代も父の勤務する僻地の学校だったので、生徒として体験していました。教師は、おおまかに45分の授業を3つに分け、1学年に15分程度教えてくれます。残りの30分は予習や復習をかってにするのです。つまり自習です。自習と言ってもすぐ隣の上級生が他のことを勉強しているのですから、下の学年の学習も上級生の学習も私に聞こえてきますし、黒板の字も見えています。私は、いつのまにか上級生や下級生の学習にも参加しているのです。下級生の学習に口をだしたり、また、上級生の学習に手をあげ、正解だったりすると得意になったりで、こんな複数の学年の入った学級も楽しいものです。音楽、図工、家庭科のような教科は、3学年まとめて一緒に勉強します。このような複数の学年の入った学級を「複式」、さらに3学年の学級が入った学級を「復複式」と言います。1年生から6年生まで全部の学年の入った学級は、「単級」です。それで、辺地の複数学年の入った学校経営や学級経営を「単級複式校」、略して「単複校」などと表現します。つまり私は、自分の小学生時代に「単複」を6年間経験していた「単複の経験者」だったのです。教えていた教員の立場ではなく、生徒として授業を受ける側にいたことが、私の復複式学級の担任として日常の授業に役立ったのではないかと思います。
 
 野口校長は、私が新米教師で使いやすかったのか、たいした教員としての素質がなかったので心配されしたのか細かな指導をしてくれました。私が独身であったこともあって、勤務時間を過ぎても職員室に残ってごそごそやっていましたので、職員室で校長と二人きりになる毎日でした。大きな学校のように校長室があって、校長にめったに会えないなどは不幸なことです。そう、毎日校長から指導を受け、私の方からも相談をしていました。明日の授業のこともあれば、担当の運動会の企画のこともありましたし、結婚のことまで、校長との話題は広がりました。

 話題の中に、私の初めての月給はいくらもらえるか野口校長が試算してくれました。私の初任給は、2万2千円くらいだと思いましたが、野口校長の試算によると3万円を遙かに超えるとのことです。太田小中学校は、道教委からの僻地指定が5級で、手当が25パーセントつき、その他3学年の学級を持っているので多額年担当手当、加えて夜の校舎の見回りを10日間くらいやれば、
「うまくすると4万円になるぞ!」野口校長はそろばんをはじきながらそう言っています。
「いいか、原さん。4万円と言えば40歳の月給だぞ。若いうちに貯金すれよ。」そういって野口校長は、机から1枚の書類を取り出しました。
「いいか。これは、M信託銀行の申込書だ。明日にも出しておきなさい。毎月いくらでもいいから貯金するんだぞ!」
 野口校長の試算通り、総額約4万円、手取り3万5千円の初月給が、まもなく支給されました。もちろん野口校長の指導のとおり、早速M銀行に1万円を送金しました。


3  ニューマシンがやって来た

 また野口校長は、
「毎日の実践は、記録して文章として残し、そして、発表するんだ。どんなに良い実践をやっても、発表しなければ認めてもらえないぞ。」と口癖のように言っていました。野口校長は、当時のガリ版印刷で、黒い腕抜きをはめて、たいぎがらずに何でも印刷してくれました。野口校長は、「印刷」について興味関心をよせていました。ある時、「ファックス」という今までに見たこともない謄写版の原稿作製機を教材屋に持ってこさせ職員室でデモをさせました。右の筒に手書きの原稿を入れると、左の筒の黒い紙に写り、それをはがして謄写版につけ印刷すると、手書きの原稿がきれいに印刷出来るという優れものでした。価格はなんと20万円とのことです。教材屋は、
 「まだ檜山の学校には、一台も入っていないんです。でも便利でしょう。」野口校長は、印刷したプリントを見て考え込んでいました。
 「よし、ファクス置いてけ!」あきれて見ている私たち職員の前でたんかを切っているではありませんか。教材屋も心配顔で、
 「支払いはどうしましょうね?」と野口校長の顔を見ていました。
 「来年度いっぱいに払うよ。それでいいだろう。」

 それから、太田小中学校の印刷物は、えらく簡単になりました。これまでロウ原紙に、ゴリゴリシコシコ肩をこらせながら作っていた謄写版の原稿が、鉛筆書きで原稿を作り、それをくるくる回るファックスに巻き付け、5分待つと原稿の出来上がりです。カットもカット集からはさみで切り、原稿に貼り付ければかっこいい学級通信が完成するのです。我が、太田小中学校の印刷は短時間でかっこのいいものが出来るようになりました。野口校長の発行する学校便りは、カットは、版画のインクを使って多色刷りの手の込んだものでした。

 さて、この20万円ものファックスは、野口校長はどうやって支払ったのでしょうか。もう他界した野口校長に聞くことは出来ませんが、私の推測では、学校の煙突掃除などを野口校長が全部請け負って、その労賃をこのファックスの支払いに充てて下さっていたのでないかと思います。この小規模校に配分される予算では、とても支払い切れなっかったと思います。

 私が趣味の範疇でやっていた写真の現像や焼き付けと野口校長の印刷技術の合作で、中学3年生の卒業アルバムづくりをやりました。卒業アルバムは昭和40年代の当時でも、大きな学校では作っていました。しかし、本校のように卒業生が一桁のような学校では、卒業アルバムなど印刷することは不可能でした。しかし、このファックスの導入によって、カットの印刷が容易になったことで、早速平成42年度の卒業生のアルバムを作ることになりました。写真は、野口校長がカットや説明文をアルバム台紙に印刷し、私が写真を生徒数分焼き増し台紙に貼り付けするとうい家内工業でアルバム製作は進められました。

太田小中学校大運動会

4  新採用は何でもやること

 最初の職員会議で、学級担任と分掌の担当、そして、教科担当が話し合われました。校長を含めわずか5人で小中学校の全教科を担当するので、5人の免許教科では足りない教科が沢山あります。私は、小学校と中学校の技術の免許です。しかし、「新採用はなんでもやってみること」ということで、免許外の中学校の英語を持つことになりました。「英語」それも1年生から3年生まで入っている復複式の学級での指導に自信はありませんでしたが、とにかくやらなければなりません。
 
 小学校高学年の学級の私の組は、15人、その中に野口校長先生の娘さんの4年生、その姉の6年生がいるとのことがわかり新採用の私はビビッてしまいました。毎日の学級の出来事、私の指導の様子は、逐一野口校長先生に報告されることになるのです。
 「うーん、これは毎日が授業参観だぞ。」しかし私の心配は当たらず、この二人の娘さん達に助けられて、楽しい学級を作ることが出来たのでした。野口校長もきっと新米教員の私の毎日の学級経営を心配して娘さん達から聞いていたと思いますが、一度も「娘さんから聞いた」ということで私に注意などされませんでした。

初めての学級 4.5.6年生


5  復複式は厳しい
 さて、いよいよ昭和42年度が始まり、入学式となりました。5人の小学1年生を迎えて新学期が始まりました。入学式で体育館に集まった小中の生徒さん60名と初めて対面し、私の着任の挨拶のとなりました。正確には覚えていませんが、
「私も皆さんと同じ小さな学校で勉強しました。一緒に勉強しましょう。」というようなことを話したと記憶しています。
 
 さて、いよいよ新学期がはじまりました。先ほど紹介した校長先生の二人の娘さんを含めて、小学校高学年の私のクラスは4、5,6年生で15人です。先に校長先生や教務部長の先生に指導を受けたとおり学級目標や係の分担をしました。私の学級の生徒さんは、なかなか活発な生徒さんが多いように感じました。私は、
「これならみんなと新しいことに取り組めるかもしれない。」という期待を感じました。
特に6年生のA君や5年生のB君に統率力があり、学級のみんなをまとめていました。幸い、転校生の校長先生の二人の娘さんもこの二人をはじめみんなとすぐ仲良くなり、担任としてもホットしたのです。私の経験では、小さな学校では、転校生の受け入れが少ないのか閉鎖性のためなのか、転校生の受け入れがうまくいかず、おもてには見えにくいのですがいじめが発生したりすることがあるのです。

 私の学級経営の中心は、学級内の活動を活発にしようと思っていました。決まりや約束ばかりをつくらず、学級新聞の発行であるとか学級行事を沢山やりたいと思っていました。これまで私が受けた教育の中では、「廊下を走った人を見つけ注意する」「決まりを破った人を記録する」「○○の検査をする」など建設的な仕事が少ないのが学校や学級の係の仕事でした。私は、こんな仕事は必要ないと思っていました。月並みなのですが、学級委員、係、朝の会などの日常に必要な組織や定型の活動を決めました。

 二日目は、勉強が始まりますので、明日の時間割を見て、私も勉強することにしました。算数と国語は学年に応じた指導、理科と社会は同単元異程度と言って、単元は同じに例えば、理科で「春の野山」という単元でも、4年生はかるい目標を定め、6年生は6年生の目標を到達するよう異なった目標に迫ろうとするのです。これが机上の計画は簡単ですが、実際やろうとするととても大変なことです。
 早速二日目から国語と算数は各学年の3冊の教科書を持って指導に入りました。およそ15分ごとに学年を変えて指導するわけです。でも新米教師です。指示が不徹底なためか、6年生に対応しているとき、4年生が、
「先生なにやるんだべか?」5年生からも、
「先生もう終わったけど、遊んでていいか?」などだんだん教室はにぎやかになってきて、授業にならなくなって来るのです。
 中学校の英語では、自分でも得意でなかった英語の教科書を1年、2年、3年生用と3冊も持って指導するのですから大変なのです。6時間目の授業が終わるともうくたくたです。教生の時に大きな学校の3年生を指導した時とは、大違いです。自分の学級の3学年分の教材研究、そして、不得意な英語も3学年分です。

 復複式の授業に追われ、生徒と活発な活動をしようと立てた学級活動の計画は、さっぱり進みません。それでも朝の会では、生徒に「ニュースの発表」という時間を作り、村のニュ−スやテレビでみた全国のニュースなどを発表してもらいました。あっという間に5月の連休が近づいて来ました。


 大学に戻ってくれ

 もうすぐ5月の連休に入ろうとした頃です。突然大学の教授から、速達が舞い込みました。単位不足でもあって教授会で問題になったのか不安を感じながら指導教授の手紙の封を開けました。なんせ自分の専門教科は熱心に勉強したつもりですが、教養教科は最低点を取れば良いという安易な考えで卒業したのですから。
「卒業する時に君に声をかけた大学に残る件だが、もう一度考えてくれないか。君に断られてから何人かOBに声をかけたがみんな大学に戻ってくれない。」こんな手紙でした。私も、卒業の時に声をかけられ、もっと適当な候補がOBにいるのではないかと思い大学に残ることを断ったのです。
 「誰もいなくて困っているなら戻らなければ−−−。」そんな思いで、私の心も動きました。それで、早速9月に結婚を約束している今の妻の意見を打診のため電話をかけてみました。妻の両親にも伝わったようで返事が返ってきました。妻の父親のメッセージは、
「大学の教授までの道のりは険しい。初心を貫いて僻地の子ども達のためにがんばりなさい。」というものでした。確かに大学に戻っても教授への道は厳しいものなのでしょう。身分が不安定で待遇の悪い助手や講師からの話には、父親として不安を感じたのでしょう。また、妻の家には数回しか行っていませんでしたが、父親の観察の結果、大して勉強していないということがバレていたのかもしれません。こんな妻の父親のメッセージが届いて私の心も固まりました。
 「よし、僻地の教員を続けるぞ!」


7 環境整備開始

みんなで池作り作業です


 まだ、学校が新しくなったばかりでグランドも学校の周りも全く整備がされていませんでした。そこで、私は「保健体育部長」として学校の環境整備にとりかかることにしました。整備したいところは何カ所かあり、校長先生に相談してみましたが、予算が少なくなくて環境整備にまでお金を回せないということでした。
 「校長先生!材料だけ買って下さい。何でも作りますから。」
 「そうか、それならなんとかしょう。私も手伝うよ。」そういうだけあって、校長先生もなかなか器用でまたアイデアの豊富な人でした。
 「まず、教室前に学級毎の花壇を作りたいのですが。それに、池もあるといいですね。」私は、軽い思いつきでこの二つを校長に提案したところ、
 「二つとも作ろう!」ということになってしましました。それで、私は、
 「こりゃあ大仕事になるぞ!」と思いましたが、後の祭り、とにかくこの計画を進めざるを得なくなったのです。校長先生も、私の体力ではもたないと思ったのか、
 「原さん、中学生と技術家庭の授業としてやりなさい。」と助言してくれました。早速まだ未完成の技術家庭の計画の中に花壇作りと池づくりを入れました。花壇は、小学部低学年、私の学級、中学の学級と3カ所、池も1カ所作るというもので、その後、「草花の栽培」、「山女の捕獲」などを入れ、秋までの計画を作り上げました。校長先生の助言は正解で、技術家庭の時間、男子生徒はもちろん女子生徒も一生懸命作業をしてくれました。お陰で花壇も5月の連休前に完成しました。池は、穴掘りがだいたい終わり、コンクリ−トを流せば良いまでになりました。コンクリートブロックやセメント、池の防水塗料なども校長先生が調達してくれ、作業は順調に進みました。
 5月の連休前に草花の種を植えたいと思っていましたが、これは校長夫人の意見で、早すぎるから5月中旬以降にというアドバイスがありました。そんなわけで、花壇と池の準備は順調に進んだのです。
 太田は日本海に面していますので、やたらと風の強いところでした。そのため辺りのに生えている植物も背が低く、やっと生えているように感じました。ですから花壇の種まきも慎重にやらなければ芽も出ないで死んでしまいそうに思いました。生徒さんと花壇に種をまきビニールをかけ風よけと保温をしてやりました。幸いまいた草花の芽は元気よく出てすくすく育っていきました。この花壇は環境整備のためでもありますが、理科の観察園としてホウセンカとかひまわり、朝顔など教材用の花も植えておきました。小学校の理科で観察する「ヘチマ」も植えましたが、これは育たず困ってしまいました。次の年は、この経験から「ひょうたん」にしてみましたところ順調に育ちました。チューリップ、水仙などはもう間に合いませんのであきらめ、秋に植えることとしました。
 夏休みに入ろうとする頃から花壇の花たちは咲き始め、学校の花壇らしくなってきました。池は、ほんの1坪ほどですが出来上がりましたが、1匹も魚が泳いでいないのも寂しいので、7月に入って川の水があたたかくなってから私の学級の生徒さんと中学校の男子生徒さんを誘って「イワナ」をつかまえに出かけました。さすがみんなは漁師さんの子ども達です。網を持って来て上手に上流からイワナを追い出し、すくいました。2時間ほどで20匹ほどの収穫で、持ってきたバケツに入れ持ち帰りました。魚の飼育など知識のない私はどんな餌をやればよいのか分かりませんでしたが、毎日給食のパンを配達してくれる隣町のパン屋さんの持ってきてくれた鯉の餌を与えなんとか冬になるまで育てることが出来ました。さすがに冬は池の水も凍ってしまうと思いましたので魚たちを川に返してやりました。
 その他、「保健体育部長」として、各教室の掃除用具入れを製作しました。私は、一応中学の技術の免許ですので、木工は実習で家具などを作ってきました。4教室分の掃除用具入れを土日の1日半で完成することが出来ました。
 
 このように新採用の私が計画したことをなんでも実行できたのは、職員5人という小規模校に勤務できたからだと思います。新任から一つの分掌の「部長」になるなど普通はあり得ないからです。そして、「任される」ということが私にとってはとてもうれしいことでした。当時の檜山管内の職員団体の考え方からすれば、日曜日や長期休業中に仕事をするなどとんでもないことと思われていたと思います。きっと、校長は別にして先輩の同僚の皆さんには迷惑をかけたことと思います。しかし、私は、そのような立場にいる先輩の皆さんが、私がやることに反対をしないで下さったことが「最大の協力」ではなかったかと感謝しています。
 
 その後も、グランドのバックネット、鶏小屋など作りましたが、これも生徒さん達と汗を流して作ったことが楽しい思い出になっています。


1周100mのリンク完成

8 スケートリンク完成

 これは環境整備の一環としては悦脱していたかもしれません。夏の間は、澄み切った日本海で思う存分楽しんだ太田の子ども達も、冬期間は強い北風のためにほとんど家の中で過ごさなければなりません。ゲレンデになるような場所は遠くスキーもソリも楽しむことが出来ません。私は、なにか子ども達の冬期間の良い活動がないか考えていました。
 「校長先生!太田の子ども達と一緒にスケートリンクを作りたいんですが、出来るでしょうか。」突然の質問に野口校長は、
 「マイナス10度位には下がると思うけど、リンクまで出来るかな?」と無理ではないかという意見でした。私は、一冬を太田で過ごして、池の氷り方などを観察していてなんとかリンクが出来そうな感触を得ていました。
 「校長先生、試させて下さい。」
 「出来るとおもしろいな。やってみなさい。」とりあえず校長のお許しが出たので池の水を入れる水道の蛇口の近くのグランドの一角を「試験リンク場」に定めリンクづくりを始めました。昭和43年12月20日、雪は強風のためほとんど飛ばされ積雪はありませんでしたが、気温がどんどん下がりはじめ零下7度になっていました。
 「よし今夜から実験開始だ!」とは言っても、スケートリンク作りなど全く経験のない私が水まきを開始しました。夕食の終わった7時過ぎから池の近くの水道の蛇口から、ビニールホースでグランドの「試験場」に1時間ほど散水し家に帰りました。次の日の朝水をまいた辺りを見てみますと、グランドが引っ込んでいて昨夜5cm位の深さで水がたまっていたところは、表面だけ5mm位の氷りが張っていましたが、中はすっかり水が地面にしみこんでいて歩けば、バリバリと氷が割れてしまいました。ところが、地面の高かったところはやはり5mm位の氷が張っていて、ここは歩いてもしっかり凍っています。
「よし、わかったぞ。水はあまり大量にまかないで、地面の表面に氷をはらせ、水を地面にしみこませないようにすればいいんんだ。」全くの素人の私の判断でこれが当たっているのかはずれているのか分かりませんが、また、少しずつ水まきをすることにしました。
 毎日水がたまらないよう少しずつ出来た氷の上に水をかけていくと期待通り氷はだんだん厚くなってきました。こうして2週間ほどで約10m四方の「試験場」は、厚さ10cmほどにきれいに氷が張ったのです。
 「校長先生!出来ます!。スケートリンクがで出来ます。氷が厚くなってきました。」
 「そうか、来年やってみるか。」なんでものってくれるありがたい校長です。

 昭和44年12月、野口校長の提案で、
 「せめてリンクのサイドに木枠をつけよう。」と言ってくれました。
 「木枠と言っても、1周100mのリンクを作ると、木枠は中枠と外枠で200mも必要ですよ。」
 「分かっているよ。もう材料の手配は済んでいるんだ。」なんともうベニヤ工場に勤めている親戚にたのんで、木枠は確保しているとのことでした。ある日曜日、校長、教務部長、そして私の3人で、小型トラックを借りて八雲町のベニヤ工場まで木枠を取りに行ってきました。帰りは、木枠を満載して帰りました。

 12月の20日、冬休みがもうすぐにせまった放課後、中学生を中心に木枠を校庭に配置して、リンクづくりの準備を始めました。少々気が早いのですが、学生時代にスケートをやっていた知人などに使っていないスケートを譲ってもらえないか依頼をしておきました。するとスケートが10台ほど集まってきました。
 1周約100mのリンクは、木枠のセッティングも済んでいよいよ水まきを開始しました。昨年の実験で氷を張る勘所を押さえていましたので、以外に簡単にリンクは完成しました。さすがに夜間に水まきを生徒にさせることは出来ず、野口校長と私で塩ビの水道パイプやビニールホースをのばして水をまき、焦らず続けました。気温はマイナス5度から7度くらいまでしか下がらないのですが、日本海の北風はとても強く、水をまくとすぐに氷ってくれるのです。時々校長住宅でアルコールを補給して、時には12時頃まで水をまき続けました。快晴の夜は、空を仰ぐと星が空一杯に輝いています。辺りにはほとんど外灯がありませんので、星空は手に取るように明るく輝いていました。

 水まきを開始してわずか10日ほどで1周100mのリンクは完成しました。リンク開きを計画した前夜から大雪になりました。午前中から中学生の力を借りてリンクの除雪をやりましたが、これが大変な作業で、100mのリンクを除雪するのに午前9時から午後1時までかかってしましました。簡単なリンク開きとして、ミカンをリンクにまいてリンクの完成を祝いました。生徒が作業を手伝っていたこともあり、みんなそれぞれ親戚などを頼って使っていないスケートを譲り受け、学校で集めた分を含めると20台以上のスケートが集まっていました。私は、スケートをやったことがなく、スケートに対する知識は皆無でした。しかし、知人によるとエッジはたえず研がないと横滑りしてしまうとのことでした。それで、本を見ながらスケートの研ぎ方を調べ、整備しておきました。子ども達は初めてスケートにのったのですが、さすが子ども達の運動神経は良く、2〜3日するとスイスイと楽しそうに滑っていました。雪が降ると除雪に追われ、風の日は、氷がやせていくようで水まきに追われました。この小さなリンクは、昭和44年12月30日オープン、そして翌年2月末まで、実に60日近く滑ることが出来たのです。この成功を聞きつけた大成町教育委員会でも隣町のグランドにリンクを作りたいと見学に来ました。そして、来年度はぜひリンクづくりの講師をやってくれとのことで私は笑ってしまいました。リンク造りのなんの知識もなく、試行錯誤でやっているだけなのです。

 このリンクづくりは、昭和45年度、46年度と続きました。冬の太田の子どもの楽しみになったことは私もうれしくなりました。PTAのお父さん達もとても喜んでくれ、確か45年の12月の20日頃だったと思いますが、リンクの木枠づくりをした後、村の消防団が川からエンジンポンプで水をくみ上げリンクにまいてくれました。
 「今年は楽が出来たぞ!」と喜んだのは、一晩だけでした。翌朝みると10cm位もたまっていた水は跡形もなく消えていました。水はグランドの土にしみこんでしまったのです。やはり、10日ほどかけて、水をまき、氷を成長させないとだめだということがわかりました。

 2回目からは、「太田小中学校のリンク」が知れ渡ったお陰で、多少の予算が付いたとのことでした。それで、これも全くの素人判断ですが、グランドの上に敷くため農家が使う温室用のビニールを買ってもらいました。12月の20日頃の放課後、中学生とこのビニールを木枠の内側にはり付けるため作業をしていました。ところが風の強い日で、生徒が20人ぐらいで作業をしているのに風の力に負けて生徒も私も飛ばされてしまうのです。もう必死で押さえても風がシートの下に入って帆掛け船のように舞い上がり押さえつけられないのです。野口校長も職員室の窓からこれを眺めていて応援に来てくれましたが手が付けられません。だんだん辺りは暗くなって来ます。
「お願いだ!みんなもう一回やってみよう!」中学生、校長、私が力を合わせ、木枠の中にビニールシートを敷こうとしても風に舞い上げられてしまうのです。
「今日はあきらめよう。明日また頼むよ。」私は生徒に宣言して、その日の作業を中止することにしました。この夜は、野口校長から声がかかって、残念会をやることになりました。
 「原さん、あんたもしつこいな。もう一回やると言ったら、もう止めようと言うつもりだったんだ。」熱燗を飲みながら午後の作業を思い出して野口校長からあきれられてしまいました。私も、風の力が20人以上の力でも押さえ切れなかったことに、残念という気持ちと、「自然の力はすごいもんだ!」という感想が交差してました。

 このビニールシートも次の日は風が収まったためなんなく敷くことが出来ました。しかし、このシートの効果は思ったよりも少なく、やはり水を多くまくと氷はうまくはりません。これまでの経験のように氷の膜を薄く作り、そこに次の氷を成長させるのが一番のようでした。

まず枠をつくります ビニールシートを敷きます ここに水をまきます

9 結 婚
 昭和42年9月、婚約していた妻と結婚しました。教員となってわずか半年後のことでした。都会で生まれ育った妻に、太田の生活がなじむか心配でしたがすぐに村の人たちにとけ込んでくれました。この村に来て、最初に困ることは、言葉です。東北弁ともちがう独特の方言が使われているのです。私が、この村のはずれに住むようになって(村のはずれといっても漁村は、狭い土地に家が密集していて人工密度は都会並みですが)朝方、近所の人がけんかをしているようなので窓から覗いてみると、どうもけんかではなさそうです。ニコニコ笑っているのです。声が大きい、言葉が荒いためにけんかに聞こえてしまうのです。妻も最初はこの言葉に困っていたようです。代表的なのは、自分のことは「わ」、相手のことは「な」です。日常会話に、わとなが飛び交うのです。村の人が妻を呼ぶときは、 「かあさん」です。若い奥さんでも、「かあさん」、年を取った人でも既婚の女性は、みんな「かあさん」です。いくら年を取っても「かあさん」ですので、「かあさん」もいいかもしれません。
 「かあさん、イガいらんかね?」と聞いてきます。妻が、「かあさん」と呼ばれて自分のことだと気づくのに2〜3日かかったそうです。でも気持ちのよい人ばかりですので、すぐ村の人たちとも仲良くなっていました。

 村の人には、特に「食」でお世話になりました。毎日のように取れたてのお魚をいただきました。村の人は、
「うまいから、ケ」と言って魚を置いて帰って行きます。この「ケ」は「食え」の変化したもののようです。魚は、季節によって春の鱒、夏のカレイ、秋のイカ、冬のホッケが代表的な魚です。一度に数軒からいただくものですから、大げさに言うと漁協に出荷できるほどいただくのです。夏の数日間アワビやウニの解禁日になり、これまでこんなに食べたことがないほど、例えばウニをむいて身を出し、大きなどんぶりに一杯持って来てくれるのです。やはりこれも、
「先生、ケ!」です。ありがたくウニ丼、ウニとアワビを一杯のせて寿司を作ったりしました。本当にありがたいことでした。その代わりと言っては何ですが、村の中でのすべての家の冠婚葬祭にはお付き合いをします。年に何軒かで、新造船のお祝いがあります。この時も招待されてご祝儀を包みます。村の皆さんからは、私がお付き合いをした何倍もお世話になったと思います。

 結婚によって、私の食生活も安定しました。住宅ですが先に紹介しましたように築30年でかなりいたんでいます。ある時妻が居間でテレビを見ていると突然天井から猫が降ってきました。猫は、畳に頭をぶつけたようで、瞬間脳しんとうを起こしたのか気を失ったようでしたが、気がついて妻と目があってびっくり、慌てて外へ逃げて行ったそうです。妻も猫もびっくりしたのです。居間の天井だけでなく、あちこちの部屋は雨漏りがして、雨の日は、洗面器とか風呂桶とかが足りなくなるほどでした。特にトイレは雨漏りがひどく、1本傘を置いておかなければなりませんでした。台所も、薄いベニア1枚で内装されており、床は板の間から土が見えていました。ですから冬期間の台所はいつも零下で、野菜などはシバレてしまいました。風呂は、車庫を改造して造ったのですが、だんだん無精になって、台所の壁を破って小さな風呂場を作りました。私の素人大工ですから、風がスカスカに入り、冬は湯から出られないと言う刑務所の風呂になってしまいました。幸いこの築30年の古い住宅は、約1年半で出て、新築の住宅に移ることが出来ました。

 こんな僻地の新婚生活も結構楽しく過ごせたのはやはり村の皆さんのお陰だと思い感謝しています。


10 電気屋さん

 私が、アマチュア無線をやっていることが生徒さんや村の人に知れ渡り赴任して半年もしないうちに村の家々から家電の修理を頼まれるようになりました。隣町に2軒の電気やさんがあるのですが、12km離れていることや、出来たばかりの岩の下の道路を通るのに不安があることなどでなかなか太田まで来てくれないという理由がありました。実際私が赴任する前の年、タクシーに大きな岩が落ちてきて、亡くなった方もいたのです。また、11月を過ぎると日本海は大荒れに荒れ、道路に波がかぶり、危なくトラックが海に引き込まれそうになったことが何件も起こっていました。それで、直るかどうかわからないけれど「原先生にみてもらうか」という事になったらしいのです。ほとんどがテレビですが、私は無線機は作ったり壊したりしていましたが、テレビは組み立てた事はありませんでした。それでも本と首っ引きで故障を発見して修理しあげました。小さな村ですからすぐ噂が広まって、何でも往診に来るようにと声がかかったのです。対象はあらゆる電気製品です。12月も25日を過ぎるとテレビの往診の申込みがも何軒もあります。「紅白歌合戦」の観戦のためです。
 ある時、これからイカつりに行くのだけれど、船の集魚灯が点かないのですぐ見てくれという依頼です。
 「船の発電機など見たこともないんです。」と辞退しても、とにかく出漁できないからすぐみてくれという事で、慌ててテスター1台持って船に駆けつけました。下の機関室に行くと、船のエンジンからベルトが何本も張ってあり、ゴウゴウと音を立てています。ベルトには、なんの保護カバーもなく、この恐ろしい光景に私はとんでもないところに来てしまったと思いました。それで、イカの集魚灯は1本5kWもあって、発電機は100kwもあるということではありませんか。
 「出漁しようと思ったら電気が点かない。」と言うのです。分からないままにテスターを当てると電気は来ています。電流計が振り切っています。送信機を何台も作っていた私は、思い当たる事がありました。
 「このメーターが怪しい」やはりメーターの裏の抵抗が焼けこげて断線していました。真っ黒で抵抗値も分かりませんが、その抵抗の代わりに落ちていた導線をつなぎ再びスイッチを入れると電気は見事に点きました。
 「応急処置ですから、戻ったら業者に見せてちゃんと修理して下さい」とお願いして一軒落着となりました。

 この村に5年間お世話になったお陰で、家電はたいてい修理出来るようになりました。勉強になったと思います。ここでの知識や経験は、その後バンコク日本人学校に行って大いに役立ったのです。


11 発明工夫教育にチャレンジ

 昭和43年の秋の事です。檜山支庁に勤務する妻の兄から電話が入りました。兄の担当ではないのですが、兄の隣の席の方の仕事で、今年から始まった新規事業で「青少年の発明工夫展」があるが、管内の学校に呼びかけてみたがさっぱり作品が集まらない。太田の生徒さんに呼びかけて何点でも作品を出さないかという案内でした。
 「発明工夫。おもしろそうだな。」私はすぐ飛びつき、自分の学級や中学生に呼びかけてみました。すると結構興味を示す生徒さんがいて、
 「よし、あと締め切りまで10日しかないけれど、毎日放課後に考えて出品することにしよう。」という事になりました。生徒さんが考えた事をなんとか作品として作り上げなければなりません。私が、技術の工具などを使って作品つくりに励んでいると、校長先生は腕がなるのか、ああでもないこうでもないと実に器用に製作してくれました。塗装などもきれいに仕上げて、外観も見栄え良くしました。折角生徒さんが考えてくれたアイデアも部品がなくて製作をあきらめなければならないものが沢山出てきました。
 「とにかく今年は製作出来たものだけ出品しよう。」と10数点を檜山支庁の商工課に送りました。締め切りまで、ほんの10日と時間が無かったので入賞までは行かないと思っていたのですが、なんと結果は、檜山支庁賞、学校賞など太田小中学校が賞を独占してしまったのです。生徒さんのアイデアもよかったのでしょうが、製作を担当した野口校長の工作技術がすばらしかった事が大きく貢献していたのでしょう。そんなことがあってから「発明教育」という教育分野があることが分かりました。
 
 それで、次の年は今度は檜山支庁の商課の担当者から「是非今年も参加を」と声がかかりました。実は、次の年は1学期から朝の学級活動の中に、「発明タイム」という10分ほどの時間を取り、毎日生徒さんのアイデアを発表させる事にしていたのです。「発明ノート」を作らせ、考えたアイデアを思いついた時書き込ませました。朝の発表は、毎日1人ですが、約束として人の発明品にケチを付けないというルールを徹底させました。そして発表された作品のどこか1カ所を変えれば自分の発明品として認める事にしました。すると、アイデアは次々と出て、9月頃には1人で100も考えて来る生徒さんもいました。さて、9月からは、いよいよ作品の製作に取りかかりました。昨年他校の作品を見せてもらいましたが、いずれも雑な作りで、仕上げもきわめてお粗末でした。野口校長の言うとおり「みてくれ」もとても大事な事が分かりました。
 2回目の年も太田小中学校が学校賞他を独占しました。幸いな事に全国の発明工夫展でも入賞し、新聞にも大きく取り上げられました。以後私の勤務した昭和46年度まで、檜山管内展では太田小中学校が賞を独占していました。私が、バンコク日本人学校に出てからも、この伝統は残り、ずっと太田小中学校が賞を独占体勢で取っていたそうです。昭和50年に私が帰国して赴任した、檜山管内江差小学校に「発明クラブ」を作り、今度は太田小中学校がライバルとなりました。江差小学校では、私は特殊学級の担任でした。この発明クラブの教室に私の特殊学級の教室を充てたため、いつもクラブ員が来て、特殊学級の工具を使って作品作りをしていましたので、普通学級の生徒さんと交流が出来ていました。今の交流教育が実現できていたのです。特学の生徒さんにも器用な生徒さんがいて、いろいろ工夫して発明して作品を作っていました。昭和50年度の檜山管内発明工夫展では、江差小学校は入賞数はすくなかったものの、ライバル校太田小中学校から学校賞を奪ってしまいました。
 これは後日談ですが、太田小中学校で発明に凝っていたM君がいました。社会人となったM君は土木現業所に就職し、結婚式の案内が届き披露宴に出かけました。すると、ある町の土木現業所のの所長さんが仲人で、M君の紹介がありました。
 「去年、4千万円もする最新の除雪機がはいりました。M君が試験運転をして戻って来ると、買ったばかりの最新の除雪機を早速使いやすく改造したいと申し出て来ました。」私は、
「これは発明教育の成果かな?」とうれしく思いました。私は、
「どんなものをみてもどこか改良してもっと使いやすくならないか考えてみよう。」と指導していたからです。ただこの時のM君の上司が、このエピソードを良い例として出したのか、
「困ったものだ。」と感じたのかはっきり分かりませんでした。普通の上司は、買ったばかりの高価な機械をすぐ改造したいなどと申し出たら「困ったものだ」と感じたのかもしれません。


12 学校アマチュア無線局の開局

開局したアマチュア無線局 JA8YIM


 私は、少年時代からアマチュア無線を楽しんでいました。赴任してしばらくして住宅の裏山にアンテナを上げ全国のハムと交信していました。アンテナ上げは1人ではできませんので、中学生に手伝ってもらって上げました。そのときも手伝ってくれた中学生は興味を持ってみたようでした。村の人も船には無線を付けていますので、特殊無線技士などの無線従事者免許を持っている人がほとんどでした。ですから村の人と一杯飲むと、
「先生の無線どこまで届くんだ?」
「そうですね。日本中は問題なく届きます。」
「うそして、そんなに届く分けないべや。」そう思われても仕方のないことです。同じ短波を使っていても、アマチュア無線で使っている周波数のほうがずっと遠くまで届くのです。教員生活にも少し慣れ、余裕が出来てきたので1台の無線機を職員室に持って行き、簡単なアンテナを付け、生徒さんにも聞かせていました。私の期待通り、
 「先生、無線の資格は難しいのかな。」と興味を示す生徒さんも出てきました。他の地域と交流が難しい太田小中学校の環境の中で、全道、全国の人たちと無線で交流出来れば教育効果は大きいと思いました。生徒さん1人でも免許を取ってくれるといいなと思いましたが国家試験は札幌まで出かけなければなりません。免許の取り方でそのころはじまった「養成課程講習会」というのがありました。その講習会を太田で開催出来ないものか関係者に聞くとこれが意外に簡単で、二人以上の講師資格者がいれば良いとの事でした。太田小中学校の生徒さん何人かと村の青年団の人たちに声をかけ、定員の30名に達しなければ隣町の中学生や高校生に案内すれば集まるかもしれないと思いました。それでも計画が遅くなって、実際に開講までにいたるまでに結構時間が経ってしまいました。野口校長先生には、かなり前からこの構想を話していました。だいたいは校長住宅でお酒をごちそうになっているときの話題でしたが、野口校長はおおのり気で、「講習会が開講できたら、我が家は家族で受講するぞ!」と言ってくれていました。

 昭和45年3月、ついに太田での「電話級アマチュア無線養成課程講習会」の開講が認可されました。講師は、私と当時厚沢部町の小学校の校長先生をされていた寺田先生の二人です。開講時間は、法規と工学合わせて40時間、3月の春休み中に開催となりました。早速太田小中学校の生徒さんと村の人たちに呼びかけたところ、あっという間に定員の30人になってしまったではありませんか。春休み1週間の講習でしたが、40時間と長いこと(今は、電波法の改正で10時間)と当時の講習内容はとても難しかったことで合格が危ぶまれましたが、幸い受講者全員が合格しました。
 昭和45年7月、当時全道の学校で初めて、小学生を含む太田小中学校アマチュア無線クラブ、呼び出し符号JA8YIMを開局することが出来たのです。当初無線機器は、北海道内のアマチュア無線仲間に呼びかけ部品を寄贈してもらい手作り無線機で開局を計画していました。しかし幸いな事に無線機メーカーが最新の無線機をプレゼントしてくれたのです。

 開局後は、太田小中学校の生徒さんは、全道、全国のハムと交信して活躍しました。新聞や専門誌に大きく取り上げられたことで、「太田小中学校アマチュア無線クラブ」は全国的に有名になったのです。僻地の小さな学校が初めて全国的にも例のない小学生も含めて免許を取り電波をだしたという事が注目されたのです。その後、隣町の久遠からも要請があり2回講習会を開催し、大成町の青少年が多数免許をとりました。隣町の2回の講習会でさらに太田小中学校の生徒も免許をとりましたので、小学校4年生以上の太田の生徒さんは、ほとんど免許をとりました。無線クラブは、週1回のクラブの時間、毎日の昼休みに電波を出し沢山のハムと交信しました。

 私は、無線クラブの顧問として、交流教育的な面と科学クラブ的な二つの目標を持った活動にしたいと考えました。新聞や教育委員会から評価されたのは、辺地の子どもが、全道、全国のハム仲間と交流しているといういわゆる交流教育としての面ですが、私は、やや不満で、科学研究を中心にした無線クラブにしたいと考えていました。それで、クラブの生徒さんと相談して夏休みに檜山地区の超短波の電波の飛び方(電波の伝搬)について研究することにしました。研究そのものは、電波工学の専門家は、簡単に数式などから計算出来るような、決してレベルの高い研究ではありません。しかし、この生徒さんと足でまとめた「大成地区の超短波の伝搬研究」は、読売新聞の「全日本学生科学賞」で全道の最優秀賞、全国でも3位に入賞したのです。

 当時の読売新聞に掲載された審査員の講評です。

 中学の部は、応募点数が多いだけでなく、理科教育の充実ぶりを示してすぐれた作品が多かった。とくに「大成地区の超短波電波の伝搬研究」で、初応募ながら知事賞を得た太田小中学校は小、中あわせて58人の併置校だが、すぐれた先生の指導でクラブ活動を科学にまで高めた貴重な例だ。15年を迎えた学生科学賞の歴史でも例がない。

 多少過大評価のような気もしますが、ありがたい講評をいただいたのです。

 5年間の発明工夫教育、アマチュア無線クラブの活動で、太田小中学校は、昭和48年に科学技術庁から異例の表彰を受けたのです。
 発明教育、そして、無線クラブの活動は、私がバンコクに行った後も継続され数々の教育成果を上げています。新しい事を初めるのも大きなエネルギーを必要としますが、継続することはもっと大変なことです。野口校長の後をつがれた、寺田功校長(JA8ASC)と同僚の皆さんにお礼を申し上げる次第です。

 


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